「逆よ。私はもう、何もしないの」
 意味を理解したオクターは、その前にとシーニアに襲い掛かる。
 刹那、ホワイトアウトが彼を襲った。視界が利かなくなり、オクターは止まらざるを得なかった。
 エデンの大地も、草も、木も、シーニアの姿も、自分の姿すら消え、変わりにミルク色の光だけが飛び込んでくる。
「あら、思ったより冷静でいられるのね」
「それなりに予想ができてたからな」
 オクターが今までに見ていた景色は、シーニアが操作した色合いをほぼそのまま見ていただけだった。オクターの観る力は微々たる物で、シーニアが操作しなければ生の真っ白な光をそのまま見ることになってしまうのだ。
「早く観えるようにならないと、一方的にやられちゃうわよ」
 今までも一方的だったくせにと悪態をつく暇もなく、彼は声がした方向からの攻撃に備えておく。見えない敵からの攻撃、解っている、そんな備えは無駄なのだ。
 案の定、背後から痛打を貰ってしまった。ばっと振り返り剣を振ったが何にも掠らず空を切った。
「気をつけてね。エデンには端があるから、そこから落ちたら死んでしまうわよ」
 視界が白いうちは迂闊に動けないということか。
 オクターはもう一度目を瞑る。先ほどの要領でいけば見えるようになるかもしれない。エデンにあるすべてのものが発している光を感じ取ろうと、それだけに神経を集中させる。
 シーニアの攻撃は止まない。与えてくる攻撃は軽いものなのだが、身体にダメージが蓄積されているせいで一撃一撃が鈍痛をもたらす。
 何度も攻撃を受けているうちに、彼女がどちらの方向から攻撃するのかが解るようになってきた。唯一動いている白い光を追えば、それはシーニアが発している光なのだ。
 光の固まりが近づいてきた。オクターはそれに向かい剣を振り下ろす。光の固まりは止まり、オクターから距離を取った。
「ある程度光を追えるようになったのね」
 お褒めの言葉を授かったが、まだそれだけだ。動く光を捉えることができるだけでは攻撃を仕掛けることができない。
 また光の固まりが近づいてきた。もう一度オクターは剣を振り下ろそうとして踏みとどまる。シーニアが一度防がれた攻撃を繰り返すほど愚かな行動を取るだろうか。
 オクターは迫り来る光を紙一重で避けた。飛んできた光の固まりは後方に落下すると、破砕音と共に小さな光に変わった。
「よく避けられたわね」
 彼女は何か物を投げたのだ。動く物はすべてシーニアだと思い込んでいたら、攻撃をまともに食らっていただろう。
「――避けられた褒美に、どうすればこの白い視界が晴れるのか、ヒントをくれないか?」
 彼にとっては切実な願いだったが、やはりシーニアには冗談に聞こえたのだろう。彼女は声を上げて笑った。
「笑っちゃってごめんなさい。意外と面白いことを言うのね。でもいいわ、私も貴方の苦労が解るから少しだけヒントをあげる。色を決めるのは貴方。この白い光に先入観で色を染めてあげればいい。貴方自身が発している生の力でね」
 その意味が解れば苦労しない。ともかく、彼は自分自身の体を見ることがやりやすいと判断する。自分の体なら今までに嫌というほど見ているのだから、色を染めるのだって難しくないはず。
 相変わらずシーニアの攻撃が続く中、もう一度目を閉じて、今度は自分の発している光だけを感じ取ってみる。
 自分の体ならばどこに何があるのかが解る。腕の位置足の位置、そこから発されている光の温かさに、部位によって少しずつ違う光の温かさに色を貼り付けていく。肌の色、爪の色、毛の色、服の色、傷から出る血の色。色をつけ光を具体的に感じていくと共に、身体の輪郭がはっきりと浮き上がってくるのが解った。
 観えた! オクターはここぞとばかりに目を見開き、自分の身体を確認した。
 が、視界は真っ白のまま。そこに真正面からシーニアの攻撃を喰らい、後ろに倒れてしまった。
「もう一つヒント。このエデンには、当たり前だけど空気も在るのよ」
 そうか。空気なんて身近に在りすぎたから気にも止めていなかったけれど、空気も生の光を発しているのだ。すべてのものに対し一様に覆っていた光の波動は空気のものだったのか。
 空気も光を発している。ならばその光は透明なのだと念頭に起けばいい。もう一度目を瞑って腕を認識してみる。今回は全身なんて欲張りなことはせず、左腕だけに集中する。腕から発する光に今まで見てきた色の情報を貼り付け、ゆっくりと目を開いた。
 今度は見えた。うっすらとだが、白い光の中に腕が浮いているのだ。だが少しでも動かすと腕は消え、結局白い光だけになってしまう。それでも諦めずに粘り強く何度も何度も繰り返していると、目で認識できる時間が長くなってきた。動かしてもすぐには消えず長時間視界に残るようになる。
 左腕から、肩、胸、右腕、腹部、腰、足、つま先へと徐々に部位をずらし全身に色をつけていく。コツがつかめてきたのか、動かしても身体の色は残るようになった。
 自分は見えるようになった。ただし自分以外の光にはまったく色がついていない。右手に持っている愛用の剣すらまったく見えないのだ。
(それに、まだ空気も認識しきれてないな)
 エデンの外からは光の波動がやって来ていない。つまり空気を透明だと完璧に認知していれば、エデンの輪郭が白と黒のコントラストでくっきりと見えるはずなのだ。
 確実に観えるようになってきただけに、ここで停滞するのが酷くじれったい。
「ねぇ、貴方は、必然を信じる?」
 シーニアが話し掛けてきた。気になる話題だが返答する余裕はない。色をつけるのに手一杯だし、シーニアの攻撃も断続的に襲ってくるために気を抜く暇がないのだ。
「信じるしかないわよね。コトリも必然を信じていたし、貴方が経験した物事は、その大半がここへと導くものだったでしょう?」
 まずは剣を観られるようにしよう。右手に握られている剣を何度か振り回す。自分の体を認識したときとは違い、金属の冷たさが放つ光を掴むことができない。
「必然って何か、考えたことはない?」
 背面から攻撃を受けた。エデンに倒れこみ土が口の中に入り込む。
 当然のことだが、土と金属が発する光は違う。自分の体は他のものと切り離して考えても、どの光が自分のものかを理解できたから色をつけることができた。
「必然も一つの事象。必然には生もあり死もあり、いつ消えてしまうか解らない。だけど必然は、死に絶えることなく、貴方をここへ連れてきた」
 複合的に光を読み取れればよいが、今はそこまでの技量がない。
 オクターは意を決し、剣の刃の部分をぎゅっと握り締めた。拳から血が噴き出す。鋭利な刃物は手の神経をずたずたに切り裂いていく。その痛みから、金属の冷たさや鋭さを的確に思い描いていく。
「それも、貴方が物事を自由に選択して――あら、その顔はほぼ強制だったと言ってるみたいね。でも考えてみて? 貴方は本当に、それを避けることができなかった?」
 刃がうっすらと浮かんできた。動かすとすぐ消えるようでは意味がない。指が千切れるかと思うほど刃を握り締め、そこでようやく剣を認識することができた。
 次は大地だ。足場となる大地へと伏せ土を握り締める。大地を掘り手に感触を刻む。時に土を口に含みそれを知ろうと懸命に足掻く。
「やってきたその時を、諦めることもできた、放棄することだってできた、切り捨てることだってできたはず。だけど貴方は受け入れ、または望み、結局は選んだのではなかった?」
 剣を認識できたのなら土だってできるはず。土を抱きしめ大地が発する光をありのままに感じ取る。一度剣を認識したからか大地を認識するのも思った以上に難くない。足元の大地だけなら色をつけることができた。
「必然が貴方を選ばせたのか、貴方が必然を選んでいったのか。そこには貴方の意思と言う偶然が絡んでいるのに、不思議ね」
 今認識できるのは、自分と剣、自分の周りの空気と地面。次は拡張だ。認識で来る空間を、一センチ、さらにもう一センチと先に延ばしていく。
 彼女の攻撃が彼の体を吹き飛ばす。今まで見ていた景色がぶれ、また白に戻ってしまう。もう一度自分の周りからやり直し。拡がる速度は確実にあがっていくが、そこをまたシーニアに潰されてしまう。
「でも、こう考えたらどうかしら。必然が貴方を導いているのではなく、貴方が必然を選んでるのではなく、――必然が、貴方を選んでいるとしたら。貴方の選んだ道を、必然という生の力が選択しているとしたら」
 エデンの端を捉えようとしたとき、シーニアの蹴りがわき腹に炸裂した。地面に倒れるのは何度目なのか解らない。全身が震え、根気では補えないほどのダメージが蓄積している。
 諦めない。諦めてたまるものか。
「ドラゴンはソレを必然と呼ぶけれど、本当はそんなに尊いものじゃなくて――」
 エデンの端が見えた。空気と大地に色を染めたまま端まで望むことができた。攻撃され視界がずれてもすぐに認知できるようになっている。残るは最後の仕上げだ。
 大地から伸びる白い物体。色はついていないけれど、それが何であるのかは認識できる。形や輪郭がはっきりしている。草花石木、そしてシーニアの姿がはっきりと読み取れる。
「結局それは、貴方の強い意志が生み出した、何かを強く想うが為に作り出した偶然の集まり。とてもとても泥臭い、道を切り開くための力なのよ」
 瞬きするように軽く瞳を閉じた。開いたときには艶やかな景色が広がっていた。ようやく、色を取り戻した。
 色を取り戻しただけではない。今は目を閉じても、何がどこにあるのかを観る事ができる。色を鮮明につけることができる。
「シーニア。あんた、人間だったんだな。発してる光が俺と似てる。番人っていうぐらいだから、ドラゴンとも人間とも違う存在なのかと思ってた」
「観えるようになったのね。おめでとう」
「お陰様でな」
「どういたしまして」
「ところで、さっきから必然がどうのこうのって話をしてたが」
 さっきまでは死は難しくないとか語っていたくせに。白濁する意識に身を任せた方が楽だと言っていたのに。
「俺に『諦めるな』って言ってたのか?」
 彼女はただ、微笑んでいるだけ。
「なんていうか、俺も必然って言葉が嫌いで、正直その言葉の重さにくじけそうになったことが何度もある。案外扱い辛いんだな、必然って奴は。俺には見えないし、決まっている道なのに誰もその先を知らない、教えてくれない、でも確実に必然は在る。それが、辛くてな」
 何をしても必然が訪れるなら、毎日平穏無事な日々を過ごしていても必然が舞い込んでくるのなら、自分のやっていることが無意味なのではないかと無力感に襲われたりもした。自分で決めたはずのものはその必然に惑わされているだけで、自分の存在がなくなってしまうという焦燥感もあった。
「だから、そんな俺が理解できない言葉に惑わされるより、自分自身を信じて、自分のやりたいことをやろうと思ってな」
「それが、貴方の立ち上がる理由?」
「ああ」
 シーニアも言っていた。必然とは、強い意志が作り出す偶然なのだと。その必然を思い通りに操れるのならば、それは自分を信じるその先にあるのだ。
「ドラゴンサーヴァントとして、主の夢を――愛した奴のその先を、切り開く」
 死ぬ理由はそれで充分まかなえる。それを成し遂げる事に興味があるのだから。
 揺るぎない意志。全力で駆け抜ける理由。必然など、置いてきぼりにしてやるのだ。
「容易くは、ないわよ」
「もとより、承知さ」
 二人は静かに対峙した。ここからが本当の勝負の始まりだ。
 シーニアは彼に向かって突進してきた。シーニアがどう出るかはわからないが、オクターは牽制の為に左から右への薙ぎを払う。彼女が止まり、重心を後ろに移動させようとしているのを見て、オクターは剣を振り上げると大きく踏み込んだ。
 踏み込んだ瞬間激痛が全身を駆け巡った。もはや彼の体には剣すら振るう余力はないのだ。
 ビキビキと悲鳴をあげる体を叱咤し、一直線に剣を振り下ろす。空すら切り裂いたその一撃は、初めてシーニアの服を掠めた。
「やるじゃない」
 服を掠めても意味はない。彼女に一撃を与えないといけないのだから。
 シーニアは後退から一転前進し、素早い動きでオクターの懐まで踏み込んだ。彼女の蹴りが飛んできて彼は剣の腹でそれをがっちりと受け止める。
(受け止めたのに、駄目か)
 重い一撃、それに加え彼自身ふんばりはもう利かない。勢いだけに押され彼の体は後方へ吹き飛ばされる。受身を取るには取ったが、それすらも体にダメージとして残る。
 彼女の攻撃のたびに確実に剣の腹で受け止めるものの、少しずつ後方へ飛ばされてしまう。後ろを振り返らずとも彼には解っていた。もうすぐエデンの端がやってくる。
(絶望的、だな)
 光の具合でわかる。そうなると解りながら、オクターは剣の腹でシーニアの一撃を受け止めた。瞬間、長年愛用していた剣が、真っ二つに砕けた。
 剣から生の光が失われていく。これが、この世界での死なのだ。
「生の光を失ったのに、剣の姿が見えるのはどうしてだ?」
「エデンの外では太陽の光が当たることによって姿を映し出すでしょう? その剣も同じよ。周りから得た生の光を跳ね返してるのよ」
「跳ね返した光に色をつけてるのは俺らってことか」
「そういうこと。ただし、反射できる生の光は微々たる量だから、もう観ることはできないわ」
 剣は手元にあるのにその存在を認識することができない。目を瞑ってしまったら剣の存在が掻き消えてしまうのだ。
「それにしても、折れちゃったわね」
「そうみたいだな」
「エデンの端も、貴方のすぐ後ろにあるわ」
「……そうみたいだな」
 真っ二つに折れた剣、これはすでに使い物になるまい。それに後一撃喰らってしまえばエデンから落ちてしまう。
「気張った割には、すぐに終わっちゃったわね」
「まだ終わりではないさ」
 彼は、自分の血で真っ赤に染まっているそれを自慢気に掲げた。
「拳が残ってるだろ?」
 剣よりリーチの短い拳で彼女に打撃を与えられるのだろうか。恐らく答えは否、無理に決まっている。ただでさえ力量、技能、すべてにおいて負けているのに、こちらは体中に怪我を負い体力も限界を突破している。勝ち目はないに等しい。
「これが最後の攻撃だ。俺の攻撃を見切ったら、容赦なく外へ蹴り出して良いぞ」
「ええ、そのつもり」
 これが最後の勝負だ。この勝負が失敗したらすべて終わりだけど、難しく考える必要はない。難しく考えたところで体がそれについていかないのだから、もっとも単純で効果的な攻撃を仕掛ければいい。
 オクターは手に握られている剣の屍を、柄の部分を握り締め放り投げた。腕が千切れそうになるが構わず全力を込めて投げる。観ることのできなくなった剣は閃き空を切る勢いで直進したが、それはシーニアに見切られ避けられてしまった。
 そこに彼は詰め寄る。彼女が剣を避けた刹那、体が僅かに揺れたその瞬間を狙い、彼は彼女の懐に詰め寄った。
 渾身の一撃を放つために、全身全霊を拳に込める。もう体のことなんて考える必要はない。この攻撃が成功しても失敗しても、自分は死ぬのだから。
 彼女に一撃を与えることが条件ならジャブでも良かった。冷静に考えればそれが効果的なはずだ。だけど、彼は思い切り拳を引いた。相手に攻撃を与えるにしても、相手を屈服させる威力を持ったものでなければ、相手が負けを認めるようなものでなければ気に喰わないのだ。
 震える膝を地面に突き立て、拳を握り血を絞り出し、腰を落とし重心を低く保ち、すべてを賭けた一撃の為に、全体重を乗せた拳を前方に繰り出した。
 彼女は、笑った。
 ――私以外の人間にだったら、拳を与えられたでしょうね。
 拳が彼女を捕捉する前に、彼の腹部に蹴りが炸裂した。
 彼の体は宙を舞い地面に叩き付けられる。それだけでは勢いは止まらず体はエデンの端へ転がっていく。抵抗を試みたオクターだが、全身に力が入らずエデンから投げ出された。
 死を認めたのか、何故か満面の笑みを浮かべ、彼は落下していく。
「これで終わり……ではないのね。思った通りしぶといわ」
 生の光を確認すると、彼はエデンの外壁にへばりついていた。落下してもがいたときに、偶然外壁の出っ張りを掴んだのだろう。残念ながら、外壁を登るような余力は残っていないみたいだが。
 それにしても、何故彼は笑みを浮かべていたのか。彼女はなんとなく上空に視線を移しはっとした。
 何も見えない空間から小さな音が聞こえるのである。まさかと思い緊急回避しようとしたが、その前にそれは落下し、地面に突き刺さった。
 風を切る不快な音を立てながら落下したそれは、彼が愛用していた真っ二つになった剣の片割れ、刃の方だ。柄の方をシーニアに投げつけ、刃の方は上空へ、彼女が今立っている位置へ落下するように投げたのだ。
 それも、彼女が見上げてもすぐには解らないように、反射する生の光を操作して。
 彼女は自らの頬を撫でた。生温かい赤い液体が手の平にへばりついた。
「オクター、貴方まだ生きてるかしら」
「……生の光が観えるんだから、俺の存在くらいすぐに解るだろ」
 崖下から、思ったよりも元気そうなオクターの声がした。
「――シーニア、俺は、合格したか?」
「貴方こそ、生の光が観えるんだから、それくらい解るでしょう?」
「いやそれがな、もう精神力も気力もゼロに近いから、そこまで詳しく生の光を読み取れないんだ。観えるのは自分の体と崖ぐらいで、どうやらいつも目で見える範囲ぐらいしか読み取れなくなってるらしい」
 今更ながら彼は自分のことを女々しいと思っていた。最後の渾身の一撃、刃が当たっても当たらなくても自分は死ぬのだから、エデンの外壁を掴む必要なんてなかったのだ。このまま落下していれば諦めがついたのに、こうぶら下がっているともう一度手を離すのが怖くなってくる。
「合格よ」
 シーニアの声が上から降ってきた。
「文句ない合格。きっちり頬に傷がついたから、私も誤魔化せないわ」
「――そうか」
 ほっと、胸をなでおろす。
「悪いな、顔を傷つけるつもりはなかったんだ。と言っても、具体的にどこを狙ってたわけでもないんだけどな」
「気にしないで。それにしても、短期間でよく生の光を操作できたわね」
「一か八かだったけどな」
「そんな攻撃を最後にもってくるなんて、度胸は充分ね」
「ありがとよ」
 するすると全身の力が抜けていく。勝ったと同時に張り詰めていた緊張の糸が切れようとしているのだ。やばいと思いながらも腕が壁から離れかけている。
「シーニア、頼みがあるんだが……あんたに勝った褒美として、最期にコトリに会わせてくれないか? それともコトリはどこかで待機していて、俺が死ぬまで動けないっていうことになってるのか?」
「そんな事はないわ。それくらいなら叶えてあげるけど、願いはそれでいいの?」
「俺は俺に対する最高の報奨をねだったつもりだったんだがな」
「ふふ、解ったわ。叶えてあげる。でも一つ言っておくけど、彼女を引き止めては駄目よ。貴方がそこから落ちるのはシナリオ上決まっているから、それが狂うことになるのなら、喩え合格でもコトリは死ぬことになるわ」
 絶対零度の、死の宣告。
「最後に彼女を追い払ったら、私はもう何も言わないから、自らその手を離しなさい」
「――解った」
 崖上からシーニアの声が途絶え、しばらく待ちぼうけを喰うことになった。僅かに残る力を腕に込めながら、コトリが来たら何を話そうか考える。
 助けてくれ! と言いたくなるのは確実だからこれは禁句にする。
 成竜に成れるんだとよ、良かったな。これは妥当な気もするが、今生の別れにしては味気ない台詞である。
 俺がいなくなっても達者で暮らせ。これは駄目だ。自分が死んでしまうことをコトリに告げるのは格好悪い気がする。どうせなら何も知られずに死にたいものだ。
「オクター」
 全然考えがまとまっていないうちにその声が上から響いてきた。顔を上げると、エデンの外にひょっこりと見慣れた顔が飛び出していた。銀髪銀眼、他のものとは格段に違う生の力を帯びた、ホワイトドラゴンのコトリである。
「コトリ」
「何?」
 コトリに会いたかったはずなのに、コトリの顔を見たかったはずなのに、実際にコトリが来たら何を話して良いか解らなくなってしまった。そういえば時間制限はあるのだろうか。訊くのを忘れたが、とりあえず今は何を話せばよいか考えなければ。
 熟考しているオクターをよそに、コトリが口を開いた。
「そんなところで何やってるの?」
 コトリの悠長な質問に、思わず指が壁から離れかけた。
「何って、壁にぶら下がってるんだよ」
「面白い?」
「……全然」
「そうなんだ」
 まったく、とオクターは自分が考えていたこと自体が愚かだったと思い知らされる。久しくて忘れていた。コトリはこんな奴なのだ。
「コトリ、今までどこにいたんだ?」
「エデンの地下。そこでいっぱいご飯食べてた」
 コトリは地下にいたのか。地下の存在なんて端から考えてなかったので、観る事ができなかったのだ。
「コトリ。お前さ、成竜に成れたら何をしたい?」
「特にない」
 そういえばそうだった。質問の仕方を変える。
「そうじゃなくて、与えられた人生を、一万年を、どうやって過ごしていきたい?」
「えっと、いっぱい食べて、お金稼いで、また食べて、知らない国に行って、料理食べて、お金稼いで――」
「食べてばかりじゃないか」
「だってお腹が切なくなってきたし」
「さっき料理食べてたって言ったばかりだろ!」
「でもお腹が切ないの。どうすればいい?」
「……知るか」
 気が付けば話が脱線していた。オクターは話を元に戻す。
「じゃあさ、もし俺がいないとしたら、その一万年どうやって過ごす?」
「オクターがいなくなるの?」
「例えばだよ、例えば。もし俺がいなかったらの話」
 祈りに似た、切ない問いかけ。
 その答えが、自分を満たすものなら悲しく、自分を傷つけるものなら喜ばしい。そんなつまらない問いかけだ。
「オクターがいない、つまり選定の前の暮らしで、ひもじくて、でも今はギルドでお金稼げるし、ご飯食べられる、ギルドではスルトが何とかしてくれそうだけど、どんな依頼を請ければいいかを決定するのは私になるし、計画立てるの難しいし、でもご飯は無条件でたくさん食べられるかも」ひとしきり呟き終え「そんな感じ」
「お前は俺を感傷にすら浸らせてくれないんだな」
 意味が解らないといった風に、首をかしげるコトリ。
オクターはため息をついた。嘆いても仕方ないのは解ってるけど、この仕打ちはあまりにも酷すぎると思う。
「オクター、怪我してるの?」
 ぎくりと彼は体を強張らせる。会話を長引かせすぎて怪我に気づかれてしまった。
「ああ、してる」
 誤魔化しても無駄だから素直に答える。
「誰かと戦ったの?」
「ちょっとな。プライドを賭けた喧嘩みたいなもんさ」
「喧嘩、勝った?」
「勝ちに決まってるだろ。圧勝だよ、圧勝」
「その割には、怪我、結構酷そう」
「圧勝を拾うまでの代償だな」
「そんな怪我でここまで上がれるの?」
 やはりこの話題につながった。当然自力で上がれるわけがないし、死刑宣言まで喰らっているから他力でも上がっては駄目だ。
 コトリには嘘をつけない。ついたところで銀の瞳に見透かされてしまう。違う話題を探すが、この状況に見合った適切な話が見つからない。
「多分、登れない」
 彼の口から漏れたのは、弱気な本音と、わずかばかりの強がり。
「俺はここで死ぬことになる。もう腕に力は残ってないし、全身から血が流れ出てるし、正直意識を保ってられるのも不思議なぐらいだ。でもな、俺が死ねばお前は晴れて成竜になれる。それは決まっていて、それは定まっていることで、それは必然だ。俺はここで死ぬが、お前が成竜になるための源として永遠に生き続けることができる。お前は気にせず前に進め。側にシーニアがいるだろ? そいつについていけば、お前をちゃんと成竜にしてくれるさ」
 だから。
「俺を放ってここを立ち去ってくれ。俺の人生、思ったよりは充実してたから後悔はしていない。最期に有終の美を飾るだけだ」
 いつもなら唇が触れるか触れないかの距離で話す事を、上と下、距離の離れた場所で語りかける。それでも、いつもより瞳の結びつきは近い気がした。彼の瞳と彼女の瞳は、しっかりと結びついているような気がしたのだ。
 これは、彼だけが感じた、勘違いなのかもしれないけれど。
 長い沈黙の後、彼の強い意志を感じ取ってくれたのか、コトリの顔が引っ込められた。コトリの姿が視界から消えた。
 これでいい。後は、この手から力を抜くだけで、すべてが終わる。
 コトリに会ったけれど、結局言いたいことを全部は言えなかった。ほとんどいつもの会話だけだったし、むしろ会わない方が綺麗な最期だったのではとすら思う。
 でも、会えてよかった。
 コトリに、出会えてよかった。
 必然というちっぽけな言葉なんかで表すような馬鹿なことはしない。お互いの強い意志がお互いを引き合わせた、言うなれば運命って奴なんだろう。
(……いや、運命なんて乙女チックな言葉使うくらいなら、必然の方が格好いいな)
 まぁ、そんなつまらないことはどうでもいい。
 オクターは消えそうになる意識をもう一度だけ奮い立たせる。自身の生の波動がコトリが成竜になるための糧となるなら、精根漲った状態で死ぬべきだろう。
 じゃあなと、オクターは呟く。呟きはエデンの空へ消えていった。
「オクター」
 今まさに手を離そうとしたその時、コトリがひょっこりと顔を出してきた。
「……ことごとく俺を感傷に浸らせたくないみたいだな。て言うか雰囲気ぶち壊してるの解ってるか?」
 相変わらず理解していないようだが、そもそもコトリは何しに戻ってきたのだろう。
「探したんだけど、縄みたいなのはなかった」
「縄? 何に使うんだ?」
「オクターを引き上げるため。エデンって広いのに、全然縄がないの」
「……お前、俺の話聞いてたか?」
「縄がないから、私が直接降りる。ちょっと待って」
「コトリ!」
 エデンの壁を降りようとするコトリを、怒声で引き止める。
「もう一度よく聞け。俺が死ぬことでお前が成竜になる。つまり俺が死ななくちゃお前は成竜になれないんだ。それだけじゃない。お前が俺を助けに来てしまえばお前まで死ぬことになるんだぞ。成竜になれなくなるんだぞ!」
 彼の叫びを無視して、コトリは再び壁を降り始める。
「コトリ! いいから上がってくれ。俺のことを気にせず、頼むから――」
「あのね」
 コトリは、オクターの言葉を遮った。
「わたし、いろいろと考えたんだけど、オクターが本当に死にたいなら、今ここで壁から手を離せばいいことだよね?」
 言い返したかったが、的確すぎてぐうの音も出ない。
「それに、エデンのことよく知らないから二人で調べたいし、オクターが怪我してる理由をもっと知りたいし、おいしい料理があるから一緒に食べたいし」
 彼女はまるで歩くかのように、簡単に壁をつたい降りてくる。オクターに向かって、一直線に。
「あのね、もしオクターが死んで、わたしは成竜になれたとしても、一万年の寿命を得たとしても――」
 彼女は彼のところまで降りてきて、すっと、細く白い手を差し伸べた。
「オクターがいなくちゃ、つまらないって、わたしは思う」
 独白か告白か。その科白は、スルトばりにタイミングが悪すぎた。
 コトリはこちらの心情など何も知らないくせに、自分の事しか考えてないくせに。
 せっかく死のうとしていたのに、こんなことを言われたら、無条件で手を取ってしまうではないか。
「上まで頼む」
 彼は手を伸ばした。彼女は手を取った。何が起きても離れることのないように、しっかりと腕を絡め合う。
「うん」
 片手を彼と絡めたままだが、彼女は少しずつ壁を登っていく。ドラゴンだけあって登り方は安定し力強い。
 オクターがいなくちゃつまらない。彼女の横顔を見ながら、彼はその言葉を反芻した。
 子供じみているというか、人間臭いというか、孤高なる存在であるはずのドラゴンの吐く台詞ではないと思う。ドラゴンを崇拝している人間が見たら卒倒してしまうこと間違いなしだ。
 しかし、彼女の言葉に彼は満たされた。それだけは事実。
(――それも、終わりか)
 彼はその声を聞いた。
 約束を破ったわね。
 とても、残念。
 ドスの利いた、シーニアの声を。
 瞬間、エデンの壁が雪崩のように崩れ落ちた。上から何か落ちてくるなら楽に対処できるコトリだが、掴む壁自体が壊れてしまってはなす術もない。
 エデンの壁と一緒に、二人は奈落へと突き落とされる。漆黒の闇へ向かい真っ逆さまに降下していく。
 ふわりと、白い羽根のようなものに包まれた気がした。ドラゴンのように気高く、どこか人間くさい柔らかさを持ったその光。それに載り、コトリの手の平の温もりを感じながら死ねるのなら、決して悪くない。
 彼の意識はゆっくりと消えていった。

前へ  TOPへ  次へ



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送