再び、オクターは鉄で作られた巨大な門の前に立っていた。
 さっき出てきたときには開いていたのに、いつの間にか閉じられている。そうなると中の罠もすべて復活しているのだろうか。
 面倒だなと思いつつ、ともかくシーニアが言った事を思い出す。
(鍵、か)
 鍵を使えば良い。そうすればこのクソ重たい門を力押しで開ける必要がなくならしい。
 オクターは、無造作にポケットにつっこんであったダイヤモンドのペンダントを取り出した。正面を向いたドラゴンが描かれたあのペンダントだ。
「これしかないよな」
 オクターはそれを振りかざしてみる。しかし何も起きないので、辺りに何かないかを探してみると祠が目についた。そういえば、マリウスの言葉を信じて祠を一切調べていなかった気がする。
 祠の正面を探ると、一瞥しただけでは解らないだろう小さな仕掛けを見つけた。それに触れると祠の天辺がぱっかりと割れ、くぼみが現れた。
 単純な仕掛け。本来ならマリウスが気づかないはずはないし見落とすなんて考えられない。ただ敢えて理由をつけるのなら、彼には見つけ得る資格がなかったからなのだろう。それが必然というものだ。
 オクターはくぼみにダイヤモンドをはめ込む。そっと手を離すと、祠は生き物のようにダイヤを飲み込んで、ゆっくりと光を帯び始めた。僅かな光の束だが、この光は、エデンが発していた光そのものだ。
 やがて光が膨らんでいき門全体を照らす。闇夜に光る門には、正面を向いているドラゴンの姿が映し出されていた。
 門が開く。重厚さを感じさせない滑らかな動きで門が開かれていく。
 通路も光を帯びていた。エデンと同じ淡く強かな光。
 門の動きが止まる前にオクターは通路の中に歩を移した。

 百個の罠を解き、最後の台座にすべてのピースをはめ込むと階段が現れた。二度目だから解くのが楽だったけれど、なかなか面倒な所業である。
 オクターは石像内部に据えられた螺旋階段を上っていく。一回目のように不思議な感覚は湧き出てこない。上りきると先ほどと同じエデンが、だけど確実に違うエデンが眼前に広がっていた。
 先ほどまでは怯えていて直視できなかった白い光。だけど今は解る。
 この光は、すべての物が生きたいと願う波動そのものなのだと。
(常人が毒されるわけだ)
 人間は自分自身の光ですら取り込めない時だってあるのに、他人の光まで浴びてしまえば自我が保てなくなるのも自明だ。
(どういう原理か知らないが、罠を解いている間にこの光に対する耐性がついたってことだな)
 シーニアが言っていた資格を得たのだろう、オクターにはエデンへと続く橋がはっきりと見えた。エデンとこの場所を最短距離で結んでいる透明な橋。足でつついてみると、そこに橋がある確かな感触が返って来た。
(コトリは橋じゃないとか言ってなかったか?)
 とりあえずこの橋を渡ってみることにした。不思議に思うことは多々あるが、渡りやすいならそれに越したことはない。
 橋を渡り終え、エデンの地に降り立った。案外あっさりと渡ることができたので拍子抜けしてしまう。
「どうかしら、エデンに辿り着いた気分は」
 凛と透き通る声が聞こえる。相変わらず露出の高い服のシーニアだ。彼女はエデンの木に寄りかかり、新たな訪問者を見つめている。
「思ってたよりずっと良いな。ここが天国じゃないのが不思議なくらいだ」
「天国なんて面白くないと思うわよ。すべてを感じることのできるこの場所の方が絶対素敵。断言しても良いわ」
「あんたが言うなら、そうなんだろうな」
 オクターはエデンに生えている草を毟り取る。それは光を失うものかと思っていたが、さらに光を強めて煌々と輝いている。宙に放ると、命の光は弱まり、やがて消えた。
「コトリはどこだ?」
「エデンに来たわよ。料理をいっぱい食べてるわ。ただし、まだ貴方とは会わせられないけど」
「どうして、……と聞いてもはぐらかされそうだからそれはいい」
「ふふ、一応聞いてみれば良いじゃない」
「じゃあ、どうして今は会えないんだ?」
「しばらくしたら会えるわよ。まだその時ではないだけ」
 やっぱりはぐらかされた。
「そういえば、ここに渡るための橋って奴、あんたらが言ってたように漠然としたものじゃなくてはっきりと橋の形をしているんだが、それはどういうことなんだ?」
「ここへ渡りたいという貴方の意志がそれほどまでに強かったのよ。そんなに彼女に会いたいの?」
「否定はできないな。あいつは目を離すとすぐに食料を食い尽くすから、そっちに迷惑をかけてないか心配だ」
「それは安心して。料理はたくさん用意しておいたわ」
 風が跳びエデンが囁いた。風を撫でてみるとそれらも淡い光を帯びており、指の間をすり抜けるようにオクターから離れていった。
「ここはいったいどこなんだ?」
「世界における、エデンの絶対的な座標のこと? それとも、世界における、エデンの相対的な位置付けのこと?」
「両方知りたいが、特に後者だ」
「長くなるわ。座って」
 いつの間にか、シーニアの目の前に椅子が二つ置いてあった。彼女はなんでもないように椅子に座ったので、オクターは訝りながらも腰をおろした。
「一つだけ言っておくわ。私もここのすべてを知っているわけじゃないから、不明瞭な点もたくさんあるし推測も多いわ。それを理解した上で私の話を聞いて欲しいの」
 彼は無言でそれを了解した。
「そうね……まずは絶対的な座標から。残念ながらそれは解ってないわ。強いて言うならあの通路がここへ来るための唯一の標で、他にはどこともつながっていないの。一応、私もそれを知りたくて通路の長さ、方角すべてを逆算して地上から回ってみたんだけど、結局見つからなくて徒労に終わったわ。でもエデンは天国とか地獄とか、人間の想像上の世界ではなく現実に存在する世界であって、多少特殊な点はあるけれど外の世界と何ら遜色はないわ。すべてに生があり死があり、弱肉強食という世界の本質もきちんと備わっていれば、時間という概念がちゃんと存在している。人間だって変わらない。食欲だって睡眠欲だって性欲だって変わることはないし、怪我もすれば死に至ることもある。そうね、唯一違うのは……これは相対的な位置付けになってくるんでしょうけど、ここでは、すべての事象の生きる力が見えるのよ」
 シーニアはそっと立ち上がると、踊っている風を捕まえた。
「貴方もさっき触れていたけれど、私たちはもちろん、草も木も風も、すべてが生きる力を持っていて、それが白い光となって私たちに存在を伝えるの。本来ならこのエデンは真っ白なんだけど、私が調整してるし、私たちの先入観が光に色をつけているから、りんごは赤く、水は青く、草は緑に見ることができるのよ」
 風は黄色だと思っていればあるいは黄色に見えるのかもしれないわね、とシーニアは風を放した。風は駆けて行った。
「そしてここからね。エデンとはどういう場所なのか、世界から見てどういう位置付けにいるのか……一言で表せば、ドラゴンの住処なのよ。世界には何体のドラゴンがいるかは知ってるかしら?」
「ああ。ホワイトにブラック、レッドにグリーン、ブルーの五体だ」
「そう。そして貴方がエデンと呼んだこの地は、それぞれのドラゴンに設けられているの。私はホワイト以外の場所を知らないし、どういう形をしているのかも解らないけれど、ドラゴンはそれぞれ司る物が違うから、その違いによってこのエデンが形成されてるらしいわ」
「ホワイトドラゴンは、生を司っているのか?」
「察しが良いわね。生を司るホワイトドラゴンは、生の光が見えるこのエデンを住処とするの。ちなみに、ブラックは死を、レッドは情熱を、グリーンは息吹を、ブルーは静寂を司るみたいよ」
「死を司るって、どんなエデンが用意されてるんだ?」
「あら、陰鬱なエデンでも想像してるの?」
「死ってぐらいだからそうじゃないのか?」
「違うわ。ドラゴンはすべてを肯定的に司っているの。そもそも死はすべての事象に在るのだから、生と等しく尊いものなのよ。それを否定的に見てしまうのは人間の悪い癖ね」
 人間の悪い癖――客観的なその意見はつまり、彼女は人間ではないということの表われだろうか。だがその言葉に対して、僅かな反発心すら生まれなかったのはどうしてだろうか。
「そして、ここは生を司るホワイトドラゴンの住処。ホワイトドラゴンが生まれ、育ち、消えていく場所なの」
「コトリもここで生まれたのか?」
「もちろん。ただ、ここで生まれたドラゴンは概念だけの存在でしかないから、すぐに外の世界に移動して、そこで初めてドラゴンとしての肉体を授かるのね。ここで生まれた記憶がないのはその所為。覚えていれば成竜になるのがもっと楽なんでしょうけど。貴方もここまで来るのに苦労したでしょう?」
「確かに大変だったな。苦労と言うより、漠然としたものを追いかけるのがこんなに疲れることだとは思わなかった。……今更だが、ここがゴールでいいんだろ?」
「ええ大丈夫。これ以上どこかへ移動することはないわ。ここでドラゴンは生を受け、竜の姿を新たに授けられ、消えていく。コトリは成竜としての証を得るのよ」
 流れるような会話に対し、心は静かだった。ここが終点だと解ったからこそ、嵐の前のひと時をかみ締める。
「コトリの一つ前のホワイトドラゴンはやっぱりここで死んだのか?」
「一つ前のホワイトドラゴンはまだ生きてるわよ」
 予想だにしない答えが返ってきてオクターは喫驚する。同じ色のドラゴンが同時に二体いると世界が歪んでしまうのではなかっただろうか。その疑問を読み取ったようにシーニアは答えてくれた。
「成竜以上の同じドラゴンが二体いると、世界のバランスが崩れるのよ。若竜は成竜ほど大きな力を持っていないから、世界を歪ませるまでには至らないの。でもそうね、やっぱりそれなりに穴はできるらしくて、ドラゴンが生まれ成竜になるまでは動乱が起きる確率は高かったりするわ」
 歴史を紐解いてみると、世界大戦や疫病の発生時期は、すべてと言っていいほど幼竜が生まれ成竜になるまでの時期と重なる。他にも悪政が横行したり革命が起きたりと、世界史に名を連ねる出来事が多発するのだ。
「コトリが成竜になると同時に、前のドラゴンは消えてしまうということか?」
「ええ。詳らかに言うならば、同時じゃなくて少し前だけれど」
 そう言って、シーニアは少し寂しそうに笑った。その笑みが何を意味するのかオクターには解らない。
「さて、私が知ってるのはこれぐらいね。何故この場所が必要なのか、何故ドラゴンが生まれて死に行くのか、それを決めているのは何なのか、そう言ったものは解らないわ。他に質問はある?」
「……ちょっと待ってくれ。整理するから」
 初めて聞いたエデンの情報をじっくり吟味して、頭の引き出しにしまいこんでいく。知らないことを知るのはなかなか難しいものだが、何とか合点のいく場所に落ち着いた。
「次の質問をしていいか?」
「ええ、どうぞ」
 オクターはシーニアをじっと見据えた。彼女の答えから、必然を見極めるために。
「あんたは、何者だ?」
 彼女は、表情を変えない。
「ずいぶんと直球ね」
「的確でいい質問だろ?」
「そうね……さて、貴方は私が何者だと思う?」
 ここに来るまでに、自分の中で一つの結論は出していた。
 シーニアは銀髪銀眼をしておらず、コトリの前のホワイトドラゴンではない。竜の主は儀式で死んでしまうし、ならば彼女は。
「ここの番人、このエデンの番人ってのはどうだ。このエデンに資格のない人間が入り込まないようにし、竜の主を迎え入れ、ドラゴンに成竜の証を与える――。そう俺は考えている。違うか?」
 この推測が合っているかは解らない。彼女が答えを出す前に解を得ようと、じっとシーニアの瞳を覗き込む。
 彼女の瞳は一つも揺れない。表情に隙がない。ただ、美しく微笑むだけ。
「だいたいそんなものね。貴方の言っていることは間違ってないわ。私はシナリオ上、そう在るべきだものね」
「シナリオ上?」
「ええ。貴方も何度か耳にしたでしょう? 『必然』というシナリオの上よ。私は不本意ながら、今からそのシナリオの上で番人を演じることになる」
「そのシナリオの上で、俺はどんな役を演じればコトリが成竜になれるんだ?」
 ドラゴンが成竜になるために、竜の主を引き連れてここに訪れることが必要なら、それが必然だとしたら、フィナーレを迎えるためには何かをやり遂げる必要がある。
 結末が死であろうとも、だ。
「もう訊くの? それを聞いたら後には引けなくなるわよ」
「構わないさ。覚悟はできるからな」
 オクターの決意が本物であることを確かめると、シーニアは立ち上がった。
「剣を抜きなさい」
 今までの優しい口調ではない、体の髄に直接叩きつけるような命令だ。シーニアの覇気に驚くように立ち上がってしまったオクターだが、そのままでは癪なので、怯える自分を叱咤し、剣は抜かずにシーニアの出方を見る。
「剣を抜かないの?」
「丸腰の相手に剣を抜くのもためらわれるからな」
「確かにその通りね」
 それだけ言い残すと、彼女は今まで浮かべていた笑みを消し軽やかに跳躍した。鳥が羽ばたくような、蝶が舞うような美しい残像に目を奪われ、シーニアが何をしているのかを判断するのが一瞬遅れ――それが致命的になった。
 シーニアの右足がオクターの左顔面を捉えようとしていた。遅まきながら腕を入れたオクターだが、不完全なガードの上から痛打が襲い掛かり、彼の体は大きく吹き飛ばされ大地へと叩き付けられた。何とか受身を取ったがシーニアはすでに次の行動に移っている。彼が起き上がる前に、彼女はいつの間にか持ち上げていた椅子を彼に向かって投擲していた。
(くそっ)
 剣を抜かなかったことを悔いたが、今更嘆いても意味がない。
 起き上がる暇もなく体を横に転がして椅子を避けた。しかしまだシーニアの攻撃は終わらない。椅子が着弾した時には彼女の姿が彼の視界から消えていた。
 背筋から殺気が飛んでくる。オクターは転がり向きを反転させると、シーニアの蹴りが倒れているオクターの腹部目掛けて突き刺さろうとしていた。オクターはぐっと腹筋を固め、そこにシーニアの重い蹴りが炸裂。激痛が走ったが構わずシーニアの両足を抱え込み引きずり倒そうと力を込める。シーニアは自ら後ろに倒れると、倒れた勢いをそのまま利用し足を高く持ち上げた。必死にしがみついていたオクターにはたまったものではない。足が頂点に達したときに手が離れてしまい、投石器の石のように放り投げられた。
 今度は受身など取れない。背中から落下し地面を何度も転がり、木の幹にぶつかるとようやく動きを止めた。
「だから、剣を抜きなさいって言ったでしょう」
 わがままな子供をあやすような口調で、シーニアは語りかける。
 オクターは体に走る激痛と朦朧とする意識を切り捨て、木に背中をすり合わせるようにして何とか立ち上がり、ようやく剣を抜くことができた。だが体が思うように動かず、剣を正面に構えることができない。
「あんたと戦うことが、俺の役割なのか?」
 とりあえず今は時間が欲しい。体を動かせるようになるまでの時間をだ。
「そうよ。そして、これは若竜が成竜になるためのテストでもあるの」
「テストだって?」
「ドラゴンが選んだ主が本物なのかどうか。ドラゴンの選定が本当に正しかったのか。それを確かめるためのテストよ。そして、ここではもう必然は通用しない。貴方がテストを通過するか否かは貴方の実力によって定められる。すべて貴方次第」
「俺がシーニアに勝てば合格なのか?」
「貴方が私に勝つのは無理よ。なんたって年季が違うもの。だから条件はもっと簡単。ほんの一回でいいから、私に有効打を与えればいい。当然ながら服や髪だけに当たっても意味がないわ。貴方が意図した攻撃で私に痛覚を味わわせればいいのよ」
 こちらは剣を持っているが相手は丸腰。状況だけ見れば馬鹿にされたような軽い条件だが、それは途方もないことのような気がした。
「失敗したらどうなる?」
「貴方は犬死。そして貴方を選んでしまったコトリは竜眼の精度が低いと言うことになり、ドラゴンとして不適とみなされ、消えるわ。そういう最悪のシナリオが待ち受けているわよ」
 指を一本ずつ動かしていく。小指、薬指、中指、人差し指、親指。握力は回復している。使い慣れた愛用の剣をぎゅっと握り締めることができた。
「……質問がある。もし俺があんたに攻撃を当てられたとしても、俺は死ぬのか?」
 彼女は静かに首を縦にふった。
「シナリオ上ではそうなってるわ。貴方の洗練された生の光が糧となり、ドラゴンを成長させるの。残念ながら、ね」
「なるほど――良かった。妙な期待を背負わされなくて」
「どうして?」
「理由は簡単さ」
 意識がはっきりと戻った。体の痛みも引いてきた。
「どちらにせよ死ぬと解っていれば、心置きなく剣を振れるだろ!」
 今度はオクターが先手を打った。奇襲のはずだったのだが、シーニアは特に驚く様子もなく彼を迎えていた。
 オクターは右上から左下へ剣を振り下ろす。空気を切り裂くような素早い一閃は、しかしシーニアが僅かに体を引くと掠ることなく逸れていく。だがこれは想定の範囲内。すぐさま剣の切っ先を翻すと左から右へ横薙ぎの一撃を繰り出そうとした、が。
 繰り出す前に、剣が何かに突き刺さった。驚き目を見開くと、いつの間にか体の左側に木が現れていた。剣は木の幹に深々と突き刺さり微動だにしなくなる。突然のことに思考が追いつかず、シーニアの繰り出した掌打が人中に突き刺さった。いや、咄嗟に急所をずらしたため気絶は免れたが、またもや無残にも地に転がることになってしまった。
「貴方の力はそんなもの?」
 シーニアは木に突き刺さったままの剣を引き抜くと、倒れたオクターの前に投げた。
 貴方の振るう剣など私の前には何の役にも立たない。無言の圧力がオクターの足を竦ませる。
「くそっ!」
 オクターは恐怖を振り払い剣を構えた。いつもは戦いの最中でさえ冷静なオクターが今は激情で荒れ狂っている。自分でも感情に流されていることは解っているが、この慟哭は止められない。
 無造作に地面を蹴り上げた。土が舞い空中に飛散する。彼女の姿が土ぼこりで隠れたと同時に彼女の死角から懐に飛び込んでいった。
 彼女の死角が死角ではなくなったとき、オクターはシーニアの目の前まで迫っていた。だが彼女は慌てない。自分の死角を理解しているから、彼が死角から襲い掛かってくることは明白だったのだ。すっと足を動かすと、油断していたオクターに足払いが決まる。勢いに任せて前方につんのめりそうになったオクターだが、崩れる態勢の中で剣を振った。
 まただ。
 何もなかった場所に今度は岩が現れた。思い切り振った剣が岩を削り衝撃が掌に襲い掛かる。今度は剣を離してはならないと地面に倒れながらも死守した。
 今回は倒れた隙を見逃してくれない。何とか跳ね起きたオクターだが剣を構えている暇はなく、彼女の攻撃を追うので手一杯だった。シーニアの攻撃は正確無比な上段への回し蹴り。似たような攻撃を何度も喰らうわけにはいかないと、さきほどのような中途半端なガードではなく堅固なガードを築き、その上に攻撃が激突した。堅牢なガードの上からなのにぐらりと体が後ろに持っていかれそうになる。上半身に電気が流れたような痛みが走る。
 ふっとシーニアの姿が消えた。否、彼女は回し蹴りの勢いをそのままにしゃがむと今度は下段への回し蹴りを放ったのだ。
 避けられずに足が宙へと持ち上がった。顔から地面に落ちると思い全身を強張らせたが、すでにシーニアの次の攻撃は始まっていた。
 下から上への単純な蹴り上げ。落下するオクターの腹部に重い一撃が突き刺さる。無防備な彼の体への攻撃は内臓をことごとく破壊した。
「がはっ――」
 血が口から噴き出した。腹部に激痛が走った。それでもオクターは立ち上がり剣を振り上げる。だが体の中心に力を入れることのできなかった上から下への斬り下ろしは、シーニアに弄ぶかのように避けられると、あごに彼女の容赦ない裏拳が炸裂し、視界が一気に横へと流れた。
 堅固なガードも中途半端なガードですらも構えることができない。三度目の正直、彼女の強烈な回し蹴りが、彼の頭部を完璧に捉えた。彼の体はぼろきれのように吹き飛ばされ、力なく地に倒れた。
 朦朧としていながらも意識を保っていられたのは奇跡としか言いようがない。腹の辺りがじくじくと痛むが、意識が混濁しているおかげで激痛と呼べる痛みではない。全身が同じように悲鳴をあげているのでそんな事は慰めにしかならないが。
 強すぎる。何一つ敵うものがない。体格差なんてあってないようなもの。体力、筋力、敏捷性、技術力、自分はすべてにおいて格下だ。筋力ぐらいなら勝てるかもと思っていた自分の甘さは、容赦なく自分の闘魂を抉り取っていく。
 それでも、彼は微かに残る意志を糧に、剣を地面に突き刺し杖代わりにして、全身の力を込めて立ち上がろうとした。しかしふっと意識が途切れそうになり、地面に倒れこんでしまう。
「ボロボロなのに、立ち上がろうとするの?」
 シーニアは言い聞かせるように、遠くから彼へと語りかける。
「よく考えてみて。貴方はこのテストに合格するしないに関わらず死んでしまうのよ。貴方がここでどんなに頑張ろうが手に入るものは何もない。ならばいっそすべてを放棄して、苦痛から逃れたいとは思わない?」
 それはなんて、甘い誘惑だろうか。
「死は難しくないわ。生を司るこの場所で死を与えられれば、貴方はこのエデンの源になり、未来へと繋がっていくのよ。貴方が先に進もうと、そこで止まろうと、剣を振るおうと、諦めようと、役割を果たそうと、何もできず力尽きようと。迎えうるのは、死」
 オクターはもう一度剣を地面に突き刺して、足を振るわせながらも立ち上がろうとする。生まれたての子ヤギのように、しかし決定的に違うのは、子ヤギのように美しい姿ではないということ。
「貴方が一言諦めると言えば、苦痛に身を喘がせることなく逝けるのよ。心を蝕む現実から解放されるのよ。大丈夫。難しくない。そっと体の力を抜けばいいの。白濁する意識に身を任せればいいのよ」
「シーニア……あんたさ……」
 立ち上がり、瞳を見開き、目の前に立ちはだかる敵を見据える。
「俺が、そんな説得に流されるとでも思ってるのか? ……いや、それ以前に……」
 何故だろう、彼女のそれは。
「……それは、自分に言い聞かせてるんじゃないのか?」
「意味が、解らないわね」
 彼女の表情に変化はない。
「……そうか」
 意識が戻ってきた。先ほどよりも冷静ないつもの思考が戻ってきた。しかし戻ってくると同時に、体中の痛みが神経を通して襲い掛かってくる。直接打撃を受けた腹部や頭部以外にも、倒れたときにぶつけたのであろう腕や足にも激痛が走っている。
 だが動けなくはない。剣を握れる。
 彼は口の中に溜まった血を外へと吐き出した。すると驚くことに、血の固まりが空中にへばりついたのだ。
 オクターは目を丸くする。ここには何もない、だけど確実に目に見えない何かが在る。これはもしかすると、先ほど彼の視界に突如出現した木や岩と関係があるのではないだろうか。
「気づいたかしら?」
 彼としては意外と重要なことに気づいたと思ったのだが、シーニアの口調から判断すると、ようやく気づいたのねと軽いニュアンスでしかない。
「生の波動は真っ白で、本来なら私たちには乳白色の光しか届かないのよ。それを補っているのが私たちの先入観、想像力、感じる力ね。私たちが見ている色は後付けなのよ」
「……俺が見えないものがあるのは、俺の認識する力が弱いからか?」
「そうね。貴方はこの世界を観る力をほとんど持っていないから、自分で調節して見ることはできない。でも今、貴方はエデンを普通に見ることができるでしょう? それは私が貴方へ向かう光を私の先入観で染めてあげているからなのよ。つまり、とある物体が貴方に放っている光を透明に染めてしまえば、貴方には何も見えなくなるというわけ。今は簡単に言ったけど、二人分操作するのは疲れるのよ。私一人だけだったら無意識のうちにできるんだけど」
 彼は目を皿のようにして血のついた場所を凝視するが、血が浮いているだけで何も解らない。
「そこにある物を見ても駄目。物が発する光を直接身体で感じなくちゃいけないのよ」
 目を開いているとどうしても視覚に頼ってしまう。そう思ったオクターは瞼を閉じた。
 今までに浴びてきた生の光を改めて体で受け止める。心が狂いそうになる躍動した光を肌で感じ取る。その光は温かい物だった。漠然と感じていた熱量を、心の奥が感じ取っていた。
 心に刻み込んだ温もりを維持しつつ、彼はそっと目を開く。血のついた場所に何か在るのが認識できた。そこに在る物体の輪郭がぼやけて出ているのだ。
「ふふ、ちょっとは観えたみたいね」
「思ってたよりあっさり見えたな。いいのか? この程度でも何が在るのかを解るようになったら、今までのように障害物を利用できなくなるぞ」
 いや――冷静に考えれば、今までシーニアはオクターが見ることのできない物体を的確に利用するために立ち回っていたのだ。それをわざわざ彼の目の前に見えない物を置いたということは、彼女は彼にこのことを教えたがっていたということ。
「今から何をする気だ?」
 彼女は、微笑んだ。
「逆よ。私はもう、何もしないの」

前へ  TOPへ  次へ



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送