三日目。
しなければよかった……と、ひどく後悔。
最悪だ。こんな目覚めの悪い朝は初めてだ。
部屋を見渡して、誰も居ないことを確認し、あくび混じりのため息をつく。
少しは期待してしまうものだ。もしかしたら、みどりが部屋に侵入しているんじゃないかって。
ほのかな期待が破られ、小さなショックを受けながら、自分の頭を軽く殴った。
そんなこと、あるはずないと、分かっているのに。
不思議な感覚だ。
倦怠感。湧き上がる冷たい気持ち。激しい衝動。不安定な動悸。
ふらふらっと立ち上がると、顔を洗うべく洗面所に向った。
鏡を見た。自分の顔がとても情けなかった
昨日、ベッドに入ったのは十一時。シャワーを浴びてそのまま入った。寝付いたのは今日の午前六時。七時間もベッドでごろごろしていた事となる。寝たくても寝られなかった。やっと眠れるかと思ったら、なぜかまた目が冴えてしまうのだ。そんなこんなで、起きたのは八時。結局二時間しか寝ていない。寝たというより仮眠に近い。さらに最悪なのが、その間に、みどりにふられるという最悪な夢を見た。寝た気などしたもんじゃない。
鏡の中の自分は、ストレスが溜まったリーマンよりきついかもしれない。当然のように目にクマが出来ているし、頬もこけてるような気がする。目の焦点がうつろで、顔中の筋肉も締まっていない。風呂に入ってからすぐ寝たせいか、寝返りを打ちまくったせいか、スーパーサイヤ人の如く髪の毛がぼさぼさだ。
自分の、頭の中を象徴しているように見える………。
もう、彼女にはあえないのだろうか?
やっぱり……会いづらい。昨日あんな事があったのに……厳しい。
みどりのいない時間が、こんなに淋しく、やるせないものだなんて、微塵にも思っていなかった。
頭の中がもやもやしている。なぜ昨日、彼女が立ち去る時に、一言も言ってくれなかったのだろうか? 不可解な行動はなんなのだろうか?
いらいらする。渦を巻いている。俺の思考を狂わせる。
食欲なんて出なかった。軽く、吐き気がする。
顔は洗ったが髪は直さなかった。それから、力なくベッドに横になる。
「朝飯が勿体ねぇ……」
ボソリと、独りごちる。
体が言うことを聞かない。軋みを立てているような気がする。
ダルイ……
兎にも角にも、チェックアウトを済ませなくてはならない。それに、このまま部屋に居ても空気がどんよりしていそうだ。外に行こう。
身体に鞭打ち、荷物をまとめた後、外へ出た。
もちろん、髪の毛も整えてからだが。
時間がいつも通りに刻まれていき、今は一時。
そこら辺にあったベンチに座り込んで、たそがれている。
さすがにおなかが減ったので、パニーニとか言う食べ物を買った。こんな状況でも、体は正直で、何か憎かった。
十一時から始まったリックトーマスのマジックショーを見た。確かにすごかった。だけど、どうも見た気がしない。一人だけ浮いていたのじゃないかと、不安だった。
隣にいてくれる人がいない事が……ここまでムナシイなんて……。
今でさえ、彼女の存在が心の中で膨らんでいる。心という風船の中にはもう空気がパンパンで、いつ弾け飛んでしまうか分からない、不安定な状態。
それを必死に保とうとしている、滑稽な俺。
――もう、考えるのはよそう。どうせ、別れなければいけないのだ。どんな結末になろうとも、バッドでもハッピーでも、結局別れなければならないのだ。楽しい記憶で彼女をとどめておくより、ツライキオクデ……。
心の奥で、それを、激しく否定していた。
彼女に会いたい。
ただ、それだけなのに。
なんだか、泣きたくなって来た。
精神的に、彼女と面を向かい合わせる自信がない。素直に話せる自信がない。
会ったら、話したら、自分と……そして彼女をずたずたにしてしまいそうだ。取り返しの無いぐらいに、壊してしまいそうだ。
写真の中の彼女は、全部笑っているのだろう。そして俺も全部笑っている。
皮肉にも、今の気持ちとは、まったく正反対に……。相違点なんて認められないぐらい違いすぎている。
今、何となくかけている、あのペンダント。何の変哲もない、銀メッキの安物のペンダント。刻まれた俺の名前と、イレギュラーなLとVの字。
眩しいな……。
彼女は今、このペンダントをかけているのだろうか。
小さく、だけど重いため息をつく。そして、仰ぐようにして空を見つめた。
青い空に、雲と混じってルフティーバルーンが浮かんでいる。ドムトールンもそびえ立っている。すべてが気持ちよさそうに、空に浮いている。
だけど、青空に流れゆく雲は、とても切ない感じがして。
ただ、彼女の笑顔が見たいだけなのに。あの、無垢な笑顔を見たいだけなのに。
弱い自分をなじりながら、心の中で自嘲。情けなくなり、居た堪れない気分になる。
そんな弱い自分なのに、彼女の事を、いつまでも強く想っている……。
身長、何センチなんだろうな。そんなくだらない疑問が頭をよぎる。
俺って、あいつのこと……何も知らない。あれだけ一緒にいて、好きにもなって。
―――そうだよ。
―――何も知らないまま別れたら、
―――絶対後悔する。
このままで別れるのは、自分の心を崩壊させてしまう。
もう、自分に我慢できない。耐えられない。
あいつに……彼女に……みどりにあいたい。
俺なんて壊れてしまえばいい。俺だけ壊し、彼女を護ればいい。
すっくと、ベンチから立ち上がる。もう、迷いはない。
「あっ」
情けない声を出し、重大な事に気付いた。
「どこにいるのか分かんない……」
見当がつかない。手の出しようが無い。予測すら立てられない。
だけど、そんなことは、どうでもよかった。
俺は走り出した。
がむしゃらにがむしゃらに、みどりを探すためだけに。
そして三十分後、ついに……
「見つかるはずがない……」
すごい表情で、肩で息をしながらベンチに座り込む。走りつづけたせいで、脚が棒になっている。
見つかるはずが無かった。TDLよりは狭いものの、結局は広い。店やアトラクション。さらにはこの人ごみ。見つけるのは無謀に等しい。
たった一人の人を、いくら大切な人だからって、こんな所から……。
絶望。一言だけだった。
船や飛行機の中では会える。だけれど、そんな所で会ったって、何もできずに気まずいまま終わってしまうと思う。席も離れているし、確実に無理だ。
「くそ……」思わず声が出てしまう。
気ばかりが焦る。浮き足立ってしまう。
どこそこの推理少年なんかではないので、どこにいるなんて分からない。
項垂れる。せっかく決心がついたのに見つからなくては意味が無い。
行き場の無いいらだちが込み上げてくる。
こんな事だったら、無理をしてでも一緒にルフティーバルーンに乗ればよかった……展望台にも行けばよかった。今さら考えても、もう遅い。意味をなさない―――
展望台………か。
「行ってみるか」
力なく立ち上がり、一応行く当てができたので、展望台のあるドムトールンへと向かった。
ドムトールン。
オランダでもっとも高い教会の塔を再現した、高さ105mのシンボルタワー。エレベーターで地上80mの展望台へ上り、町並みや大村湾を一望することができます。
と、パンフに記入されている。
80メートル。少しぞっとする。もちろん具体的には分からないけど、数字が嫌だ。でも大丈夫、下を見なければ。俺の高所恐怖症はそんな性質だ。
そんな関係ない考えと、脈を打っている複雑な気持ち。
エレベーターに乗り込む。エレベーターはぐんぐん上昇していく。
もしいなくても、上から見下ろせば見つかるかもしれない。
もしいなかったら……それは、無理やりな言い訳になってしまう。
会いたいけど、いないで欲しいのが現実で、矛自分に追い討ちをかける。
心揺らぐ中、エレベーターが地上八十メートルまで上がり、扉が開く。
狭い。イメージしていた展望台とは結構違うものがあった。
見渡して…………みどりの姿は、ない。
人生そんなに甘くないか……。
そのとおりだな。
だけど、そのことに少しほっとしている自分がいたのも、認めなければならない事実だった。
ここの展望台は180度のパノラマだ。なぜ360度じゃないのか考えながら、左に歩いていき、窓から遠くを見渡した。
遠くまで広がり、青い水晶のような輝きを見せている大村湾。その水晶に浮かんでいる、数々の船。青の紙の上に気持ちよさそうに浮かんでいる雲。
澄み切っていた。自分の心とは、まったく正反対に。
下を見ると、人が小さく、行き交ってい……。
立ちくらみ。
下は見るものじゃないな。よく皆は平気なものだ。
少し気分が悪くなった俺は、外の景色に背を向けるため振り返る。
―――氷結。
……いた。
彼女が。
さっきのエレベーターの所から、ちょうど死角になっている場所に彼女はいた。
心臓が高鳴る。
何を言えばいいんだろうか。どう動けばいいのだろうか。
整理つかない頭とは反対に、体は勝手に動いていた。
二、三歩動いたところで、みどりがこちらに振り向く。視線が交錯し、みどりは曖昧な表情を浮かべた。俺はかまわず近づき、手前二メートルのところで止まった。
いたるところで流れているBGMが、止んだような気がした。
暑くないのに、暑さを感じる。
のどが渇いた。
彼女は、無言のまま俺を見て、何か言おうと口を開いたが、結局何も言わず、口を結んでうつむく。
俺も何も言えないでいた。
何を言っていいのか分からない。なぜか焦る。
そのとき、彼女が、無言のまま俺の横を通り過ぎた。彼女の服と、長い髪が、俺の腕をかすめる。
唐突で、頭が理解しない。俺は呆然としたが、すぐに振り返り、彼女の手をとった。
彼女は立ち止まる。
昨日のように、彼女はむこうを向いて、抵抗もしない。
何でだ? 彼女が分からない。ここで何がしたいのだか俺自身もわからなくなっていた。
嫌だ、何もかもが荒れて見える。
「わかんないんだよ!」
叫ぶ。突然出た叫びに自分も少し戸惑いながら、続ける。
「嫌いだったら、嫌いって、……言ってくれ。もう、会いたいとも思わない。会わない。思い出さない。ペンダントも捨てる。嫌いって言いづらかったら、そういう対象に見ていないとかっ! なんでもいいから言ってくれよっ!」
次々と出る言葉。嘘かもしれない。でまかせかもしれない。だけど、何か悔しかった。みどりに対してか自分に対してか分からなかったけど、淋しさをぶちまけるように言葉を並べていた。
「……好きじゃない……んだろ?」
覚悟して訊いた。一言で諦めがつく。もう去ってくれたってどうなってもいい。
何も答えなかった。だけど、後ろからでも、動揺していたのははっきりと分かった。
彼女の手をずっと握り締めていた。答えてくれるまで、絶対放さない。
お互いに何もしゃべらない時間。沈黙が刺さる。
彼女は、下を向いて震えていた。
「嫌いなわけないじゃん!」
突然彼女が叫ぶ。俺に腕を握り締められたまま叫んでいた。
「好きだよ! 竜吾のことが……好きで……すきで……すきで……大好きで、自分でもわけ分からないぐらいに好きになっちゃって……竜吾がいないときもさ、ずっと気持ち大きくなっちゃって、抑え効かなくなっちゃって、昨日竜吾とわかれてから、ずっと泣いてて……嫌になるぐらい、自分が馬鹿みたいで……こんなになっちゃったから、もうこれ以上竜吾と一緒にいて、楽しい思い出創っちゃったら……別れるのが―――」
痛々しい彼女の言葉に、無意識のうちに彼女を引き寄せ、キスをした。彼女は、一瞬何が起こっているか分からないみたいだったが、すぐに、理解したみたいだ。
これでいいのか分からない。これが最善であることを願って、抱きしめて、彼女も抱きしめ返して。
ファーストキスの味は、とても切なく、塩辛い味がした。
キスしたまま、離れようとしなかった。離れたら、消えてなくなってしまうのではないか、一炊の夢だったのじゃないかと不安だった。
だが、いつまでもそうしていられるはずはなく、最後にぎゅっときつく抱きしめた後、ゆっくりと、唇と唇を離した。
「泣くなよ……」
指で、彼女の涙をすくう。ずっと泣いていたのだ。彼女も俺と同じ気持ちだったのだろう。どうせ別れてしまうのなら―――と。
最終的な行動が違っただけで、彼女の心は張り詰めていたのだ。その思いが、今涙となってこぼれだしているのだろう。
「ばかぁ……こういう時は『泣いて良いよ』っていってよ……」
泣きじゃくりながらそう言った彼女を、抱きしめる。今さら言葉を変えるわけにもいかず、ただきつく、いろいろな想いを馳せながら、包み込んでいた。
数分後。
みどりは涙をこぼすのはやめたが、まだ心が落ち着いていないらしく、たまにしゃくりあげながら俺にしがみついている。それを、無言で優しく抱きしめ返していた。お互いに心が疲れている。こうすることで、お互いに慰めあっていた。
じょじょにだがBGMが戻ってきた。緊張が緩んだおかげか、心が休まってきたおかげか、とりあえず、終止符。
BGMに混ざって、何か雑音が聞こえる。それと、周りからの多数の何か―――
目の前に広がっている風景を見て、俺の目は完全に見開かれた。
「なぁ……みどり?」その表情のまま視線を落とした。
「ん?」と、目が赤いまま、顔を上に向ける。怪訝そうにしていたが、ややあって、はっとした表情になる。
ひしひしと感じられる、周りからの突き刺さるような視線。ミーハー族な日本人特有の視線。
その視線の向け場は、言うまでもなく俺らだった。さきほどより人口密度が上昇しているのは確かだろう。いつもはエレベーターで上がってくる人と下りる人の数は大体一緒なのだが、俺らを見るために下りる人が激減したみたいだ。
目を瞑り、ここで俺らが行った事を振り返ってみる。俺だったら、それをどう思って見るだろう。
すごく意味深な会話を繰り広げて、キスして、数分間抱き合って………。
―――かなり、訳ありカップル。というか若い男女が繰り広げる下手な昼ドラ。野次馬どもにはもってこいの余興。
「みどり……」
「何……?」
「どう動こうか?」
「えと……お姫様抱っこ」
「ちゃうわっ!」
竜吾十五歳。この状況下においてボケるのは一種の才能だと確信する。これは末代まで伝えられていく逸話となりうるであろう。
次の瞬間、野次馬の一人が叫んだ。
「エレベーター貸しきりにしてあげようぜ!」
その意見にみんな次々と便乗し、一瞬のうちに貸しきりが決定した。
「マジっすか……」
唖然。公共の場で私物化を行って良いのだろうか? 多分今、口があんぐりと開けられている。
「りゅーご。お姫様抱っこして」
彼女は、少し顔を赤らめながら、無邪気に微笑む。
「マジっすか……」
呆然。彼女は厚顔無恥なんだろうか?
「っ……しょうがないな……」
ここまで来たら腹をくくるしかない。
彼女を抱き上げる。思ったより軽く、ふわりと持ち上がった。体が小さいのでそれは当然だろうけど。
この状態ではにかんだ笑みをうかべると、みどりが俺の頬をつつく。
「もっと嬉しそうにしなさい」
まだ目が赤かったが、もうほとんど収まったようだ。
「わかりましたよ。ワガママなお姫様。ミニサイズだけど」
みどりの目を見ると『後でパンチね』と言ってそうな目線だった。俺はとりあえず、歩き出すことでそれを回避する。
歩き出すと、野次馬どもは拍手喝采。
エレベーターが上がって来て、客が降りる。そこに俺とみどりが乗り込む。エレベーターガールはいたが、貸切同然だろう。
エレベーターガールも一応俺らのやり取りを見ていたらしく、快く諒解していた。
それでいいのか?
まぁ、いっか。今はいろいろ悩む必要など無い。悩むとしたら、みどりの攻撃をどう避けるかぐらいだ。
とりあえず、人があまりいない静かな所に移動する事を決意した。
「あー、恥ずかしかった……」
決意どおり静かな所にやってきた。やってきて第一声を発したのはみどりである。ベンチに座りながら俺は呆れた。
「お前……楽しんでなかったか?」
「ちょっとね……」
明るかった表情は、また沈む。
「わたしさ……遠距離恋愛って、無理だと思うんだよね……」
「俺もそう思う……」
前にも述べた通り、無理だと思う。厳しいだろう。
いくらハイテク時代だって、恋にハイもローもない。離れていれば、よほどの劇的な気持ちが無い限り、想いは曇り、冷める。いくら伝達手段があろうと、姿が見えなければ魔も差す。それを知る由もなく、崩れ逝く。
せめて大学生だったら、まだ何となくできそうな気がするのにな……。
「あー、もう!」イライラしてきたので叫ぶ。「いいか、もう未来形は使わない事。あと、お互いの住所とか訊かないこと。訊いたら未練タラタラになるだろ? 辛気臭いのは嫌だからな。現実は、替えられない。な」
彼女は暗い表情のまま俯いていたが、ゆっくりと顔を上げ、分かったと言った。
「よーし、じゃあ、残り二つのお願いを言いましょう」
「うわ、全然忘れてた」
記憶から完全に飛んでいた。記憶の嫌な部分の引出しを開けられ、苦笑する。
「えっと、今日は、わたしと一緒に……隣にいてくれる彼氏でいてくれること」
「それは当たり前の事じゃないか?」
何があろうと、今日は彼女の側を離れないつもりでいたし。トイレは別として。
「じゃあ、もう一つ違う願い事していいって事?」きらきらと目を輝かせながら。
「う、さっきの言葉聞き流して」
彼女は、屈託無く微笑んだ。この笑顔が、ずっと見たかった。
無邪気で純粋無垢で、限りなく眩しい笑顔。
衝動的に、彼女を抱きしめてしまう。みどりは何も言わずに、身をゆだねた。
「俺……ロリコンだと思われなかったかな?」
「……何気に悪口言うな」
攻撃する時の口調ではなかった。優しくとろんとていた。
「なぁ、お前って何センチ? キスする時結構しゃがんだんだけど」
「……149.3」
思案して、次の言葉を捜す。ここは……
「ミニモニ入れるじゃん」
「馬鹿! アホ!」
みどりは俺を押しのけ、そっぽを向いてしまった。
「おこんなよ……」
笑いをこらえながら、彼女をなだめる。何か違う話題を探す。
「そうだ、マジックショー見た?」
「見たよ」
すぐに返答してくれた。少し拗ねていただけだった。顔をこちらに向けて、
「すごかったよね。全然わかんなかった」
「そうだな、アシのお姉さん美人だったしな」
「彼女と居る時に言うセリフ?」睨みつけてくる。
「ばーか、お前は美人系というより、癒し系か可愛い系なんだよ」
少し照れながら言った。美人と言ってしまうとどうも雰囲気があわない。だけど今じゃ誰よりも可愛いと思える。
「よーく分かってるじゃん」
「少しは謙遜になれ」
だけど、俺はそんな素直なところに惹かれていたのだろう。いや、素直とは少し違うか。
その時、目の前に一組の男女が横切っていった。
左側に男、右側に女。男は右手を女の肩に回し、女は左手を男の腰に回し、その女の左手を男は左手で掴む。という随分絡まった腕の組方をしていた。
それを彼女は物欲しげに見つめ、目で追っていた。
「竜吾、お願い二つ目」
もう大体、何がお願い事かは解かって―――
「ルフティーバルーンのろー」
すべての機能が停止した感じを覚えた。脳みそが凍り付いて、どうすればいいのかが分からない。人という字を手のひらに三回書き込んで、味を確かめるようにしながら飲み込む。
ぴくぴくと、顔がひきつっていた。
「……あんな風に腕を組もうじゃないのか?」
「腕組むのは決定事項でしょ?」
俺の動揺を楽しんでいる口調だった。多分、心から楽しんでいる。
「……身体的特徴やら、その人の弱点やらの悪口は、非人道的行為に当たるんじゃなかったか?」必死の抵抗。
「そんな事言ったっけ?」
悪魔だ。表情は惚けているが、目は正直に笑っている。
「お前を好きになったの先走ったかな……」
「はい、もう取り返しはつきません。死ぬわけじゃないし、ほら立った」
俺は絶望感を覚えながら、ほぼ強制的に立たされる。
「腕どう組む?」
「さっきの」
「お前小さいから無理。想像してみろ」
その言葉の通り、彼女は想像を始める。ついでに俺も。
「できるじゃん」
「出来たな……」
自分で考えても出来てしまった。
「レッツゴー」
俺らはあの不思議な組み方で歩き出した。少し試行錯誤をして、しっくりくる組方に持ってきた。
彼女は小さいけれど、とても暖かく、とても優しく。
ルフティーバルーンに乗ると仮定されていなければもっと顔がほころぶんだろうなーとか思いながら。
ふと右を見て、彼女の首元に、銀の鎖がかけられているのを見て、ほっと、胸をなでおろした。
別れるときだけ、哀しもう。
初めてできた、大切な人との想い出を、最高にするために。
一生忘れないために。
本当に、憎らしいほど早いものだ。時が経つというのは。
あの後ルフティーバルーンに乗ることになった。降りた後、気分が悪くて三十分間は動けなかった。その間、彼女は心配そうにしながら、だけど笑っていた。
この気分の悪さは、笑顔に比べれば安いものだ。とか、くさいセリフを考えたりして。
あっという間に過ぎ去っていった時間。その一欠片ずつが、心に大事に収められている。
ハウステンボスでの時間は終わり、船に乗って長崎空港に向かう。着いて、飛行機に乗り込む。彼女と席は離れていたが、ちょうど俺の隣が空いていたので、彼女が隣に座った。
眠たかったが起きていた。寝たら、一緒に居る時間が減ってしまう。
別れ。
脳裏のそのまた奥に追いやっていた言葉。
空港に降り立ち、荷物を受け取る。
羽田空港。出会いと、別れの地。
彼女は電車で、俺はバスで帰る。
そして、その分岐点まで、やってきた。
お別れ―――だ。
お互いに顔を見合わせ、どちらも喋ろうとしなかった。
どちらも、気持ちの整理がつかないのだろう。
彼女を離したくない気持ちはある。ずっと一緒に居たい気持ちが強い。
だけど、もうその夢のような時間は終わり、消え去ろうとしている。
「おわ……かれだな……」
消え入ってしまいそうな、そんな声で、ようやく出した言葉。
「……うん……」
俺にぎりぎり聞き取れるぐらいの、小さな、かすれた声。
会話が続かなかった。
しゃべれなかった。
いつも通り、笑いながら。
でも、彼女の笑顔を見て、去りたい。
「みどり」
何となく発した声。無理やり言葉を繋げようとする。
俺は、自分のペンダントをはずし、みどりの手に握らせた。
「お前が持ってろ。俺は、お前が誰を好きになってもかまわない。そして、次にできた彼氏に、このペンダント渡して、捨ててもらえ。『これは元彼のです。思いを断ち切るために捨ててください』とか言ってな」
無理に笑いながら言った言葉。
本当にそれをされたら、嫉妬で狂いそうだ。だけど、それが一番いい。よく言うじゃないか。過去にとらわれてはいけない。前を向いていけ。
彼女も自分のペンダントを俺に渡す。
「竜吾が持ってて。わたしも、竜吾が誰を好きになってもかまわない。彼女に、捨ててもらって」
彼女も無理に笑っていた。見てて、胸を締め付ける笑顔。
その愛くるしい顔に、涙をうっすらと浮かべ……。
そっと彼女を引き寄せ、抱きしめる。
「泣いて……いいぞ……」
「ばか……そんな言葉かかけられたら本当に泣いちゃうじゃん……」
そう言って、俺にすがりつき、泣き始める。
「どっちがいいんだよ……」
そんな事を言いながらも、彼女をきゅっと抱きしめる。
離したくない。
離したら、もう彼女は他人になってしまう。
そっと放し、顔を彼女の顔に近づけ、目をつぶる。彼女も目をつぶった。
…………………………。
「やめた」
目を開ける。
「……しないの?」
うっすらと目を開けた。まだ目が赤い。
「ああ。ファーストは俺だったから……な、セカンドキスは、次の彼氏にしてやれ」
今度は、きちんと笑って言えた。無理やりな笑顔じゃなく、気持ちの整理をつけて、最後に彼女に送る笑顔。
「わかった」
そして、彼女も、俺に、最高の笑顔を見せてくれた。……魅せる……かな?
「竜吾、最後にジャンケン」
彼女の意図が解からないまま、俺らはジャンケンをした。やっぱり、俺が負け。
「七百五十円、帳消しでいい?」
些細なことですら、
「ああ」
未練を残さないために。
「本当に……いいよね?」
落ち着きの無い今を、
「ああ……OKだ」
そつない会話で終わらせるために。
逢ったその日のようであるように。
悔いの無いように。
お互いに見つめあい、そして、同時に呟く。
「じゃあな」
「じゃあね」
二人とも荷物を持ち、後ろを向く。
背中合わせになると、俺らは振り返らずに、歩き出した。
お互いを、一歩一歩胸に刻みつつ、その場を去っていった。
バスの中。
手の中には、ずっと彼女のペンダントがある。
今さら、住所とか携帯の番号とかを聞けばよかったなとか思ってしまう。
もう、彼女とは、逢える訳が無いのに……。
バスの窓の外に、観覧車があった。綺麗にライトアップされていて、ネオンが光り輝いて―――
ふと、ハウステンボスで見た、花火を、一番最後の花火を思い出した。
――ソレに、この恋を重ねる事が出来る。
上がり、輝き、そして……消える。
俺はずっとずっと、窓の外を、頬杖をつきながら見つめていた。
モノレールから見えた風景とはまったく違うけれど、流れてゆくのはおんなじだった。一瞬で、景色が変わる事は……。
鮮明な、想い出。ちっぽけな、人間。
流れていくスクリーンを見ながら、そっと呟く。
「絶対……忘れない……」
――このペンダントを手放すのは、……ずっと後になりそうだ………。
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