一日目。

 


 モノレールに乗っていた。
 浜松町から羽田空港まで続いているモノレール。モノレール自体の音はない。乗客のざわめきだけが耳に残る。ボックスシートに座ったのは失敗だったかもしれない。視線のやり場に困る。日本人は他人と視線を合わせるのが苦手らしい。そして、俺もその典型的な日本人だった。
 目のやり場に困り、窓から外を見やる。
 ただ、流れてゆく景色たち。
 一度視界に入っただけで、十中八九、二度と見る事は無いだろう。
 俺にとってそれだけの存在な風景たちに、少し哀れみを覚えた。
 俺は十五歳。高校受験が終わった。つまるところ春休みになっているわけである。無事合格も決定。頭のいい高校にしたので合格率は半々だったが(実際もっと少なかったけど)どうにか合格する事ができた。
 合格した事で親はたいそう感激し、俺にプレゼントをよこした。
 ――長崎への一人旅。
 もちろんツアーだ。近畿日本ツーリストの『メイト』という会社のツアーだ。一人旅というだけでも驚いていたのに、ツアーじゃなかったら卒倒していただろう。
 二泊三日。さっきも述べたが目的地は長崎。当然飛行機を使用する事となる。
 ただ、飛行機に乗るのも初めてなのだ。まったくもって経験なし。
 何気なく窓の外を見ていても、心臓が鐘を打っている。多分、初めてのお使いなどもこんな気持ちなのだろう。
 ――というか、モノレールって、意外と高いところを走っているんだな。
 俺は軽度の高所恐怖症だ。
 高いところにいるとき、横の景色は綺麗だ雄大だなどの感想を持てる。だけど下の景色となると意見が変わってくる。
 吸い込まれそう……落ちそう……。
 つまり『怖い』という感情が生まれてくるのだ。
 それと、高いところで外気に触れていれば横下関係なく怖い。極端に言えば、東京タワーから横を見るのはいいが、気球から横を見るのは駄目なのだ。
 何が原因でそうなったかは覚えていない。嫌な思い出を忘れるのは自己防衛機能だが、こういうことは覚えておいてもいいような気がする。
 一瞬で移り行く景色を見つめていると、モノレールは天王洲アイルに停車した。そこで込み合っていたモノレールは一気にガラガラになる。自分はいつもと違うことをしているというのに、世間はどうやらいつも通りらしい。
 だがそのおかげで、膝の上においてあったバッグを隣の空席へ下ろす事ができた。こうしても誰も立っていないから、マナーには反しないだろう。しかも目の前のシートも空いているのだから。
 その動作を行った後も特にする事が無く、やっぱり窓の外を見た。
 そこには小さな映画館が存在する。同じモノを映し出さない、透明なスクリーン。ガラス越しに映し出される、物達の演技。
 どすっと音がして、俺の前のシートに誰かが座った事がわかった。無駄ながらもスクリーンの反射を利用して、その人はどんな人だろうかと探りを入れる……。
 外が明るく成功しない。俺はため息をついてその人を一瞥した。
 女の子、だ。
 女の子はさきほどの俺と同じようにスクリーンを眺めていた。
 ―――ちっさい。失礼だが、そう思ってしまった。服装は高校生が着るようなものを着ている。だけど顔つきはどう見ても中学校一年。いや、小学校高学年のほうが妥当だろうか。150センチ、多分彼女の身長はこれぐらいだろう。176センチの俺にとって、彼女は人形みたいだ。美人、可愛いと、騒がれるほどの顔つきでもないが、好感は持てる。小さい輪郭は黒く長い髪の毛に隠されてはっきりとしていない。薄い唇に大きめの目。鼻も小振りである。腕や脚も細く、腕には時計。メタルバンドのだが、たいしたブランドでもなさそうだ。脚にはハイソックスと、小ぢんまりした革靴が添えてある。装飾品という装飾品はない。だが、無い方が似合っているといえば似合っているのかもしれない。
 童顔……なのだと、俺は思う。周りに家族らしき人がいないことから一人旅だろう。偏見が入っているが、つまり中学生以上なのは確かなのだ。服装から見ても、精神的には大人なのだろうと思うし……。
 ふと、目の前の少女と視線があう。一瞥だったつもりが、じっと見つめていたらしい。
「あの……何か用があるんですか?」
 とてもうざそうな声。どうやらじっと見られていたことに気付いていたらしい。見知らぬ人にじろじろ見られていていい気分という人はいないだろう。
「用はないけど……歳いくつかなぁって」
 何も考えずに発言した言葉は、自分の疑問を率直に述べすぎていた。確かに気になっているが、いきなり質問などは失礼だ。
 少々自己嫌悪に陥りながら彼女を見やると、あからさまに困惑の表情を浮かべていた。一拍間を置くと、その表情を消しつつ「いくつに見えますか?」と訊いてきた。
 彼女の目つきは真剣そのものだった。俺の答えによって生死が決まってしまうのではないかと疑うほど彼女は真剣だった。この問いは至極重要な問いらしい。
 じっくりと腕を組んで黙考し、顔を上げて答えた。
「十五?」
 もうちょっと幼いような気がしたのは確かだが、内面は少々大人が入っていると読んだので、そう答えたのだ。
「当たりっ!」
「まじっ? 俺と同い年? もっと幼いかと――」
 当たり、と嬉しそうに答えた彼女の表情は一瞬にして凍った。ついでに俺も凍った。慌ててつぐんだ口が虚しく痙攣している。
「もっと幼いかと……?」
 彼女の目には静かに炎が灯っていた。その双眸は完全に俺を捕らえる。
「もっと……幼いかと……?」
「いや……その……」
 視線をそらす。冷や汗が吹き出ているような気がする。
「幼いかと?」
 さらに繰り返した彼女に恐怖を覚えた俺は、口をもごもごさせながら「中一あたりかと思いました」と答えた。
 本当は、小学生高学年かと思ってたのだけれど……。
「はぁ……やっぱり……」絶望に満ちたため息がが聞こえる。
「わたしって童顔?」と訊いた彼女は、やっぱり真顔だった。
 こういう場合、本心を喋った方が良いのか否か。だが、ここで嘘をつこうと思っても、先ほどのやり取りの後なので嘘は言いづらい。
「童顔かな」さらに「背も小さいし、見方によっては小学生に見えなくない」正直に言った。
 淡々と語ったこの俺の一言によって彼女はひどくショックを受けていた。なんだか、ナイフでもあれば今にでも自殺を図りそうだ。
「気にしている事をズバズバと……」とぶつぶつと呪いの言霊のような声が聞こえる。青菜に塩をかけたようなしおれ具合だった。項垂れ、嘆いている。
「いいじゃん。子供料金でいろいろ出来て」
「それがヤなのっ!」
 突然クワッと顔を上げて叫ぶ。だが、周りの人の視線に気付くと、すぐに身を縮込ませた。
「十五なのに一回も十五に見られたこと無いんだ……。『今年受験なんです』って言ったら、『あら、中学受験? 頑張ってね』って、にこやかスマイルで……」
「そりゃ悲惨だな」
 年上に見られるよりはマシだと思うけどな。と心の中で付け足す。
 だけど、確かに嫌なのかもしれない。童顔というものは彼女にとってはコンプレックスなのだろう。プラスに考えれば童顔はそれなりの特性をもっているのだけど、彼女には負担で、大人びた女子が羨ましいのだろう。
「……まぁ、生きていればいいことあるさ」
 テキトウな励ましの言葉。いきなり考えたので、かなり無理やりだ。
「そう人生甘くないんだよ」
 彼女の諭すような、ため息のような声。
 当然といえば当然だ。生きていればいいことあるなんて、都合のいい事などない。もしかしたら幸運ばっかりかもしれないし、不運ばっかりかもしれないし。それに、人生甘かったら犯罪なんて起こらないだろう。
 そんな感じで話しをしていたら、終点『羽田空港』に辿り着いた。
 そして、二人同時に荷物を持って立ち上がった。
 なぜかお互いを見合う。視線を交錯させたままどちらも動こうとしない。
 どちらかが動かなければ事が動きそうに無いので、目線をはずして一歩進んだ。すると彼女も同時に一歩進んだ。
「……先どうぞ」
 なんだかくだらない事になりそうだったので先を譲る。
「いや、あなたが先にどうぞ」
 また視線が交わる。さっきより複雑に交わった。互いを牽制している。
 牽制時間が長すぎて、扉が閉まりそうになった。その時は二人とも急いでモノレールから出た。
 だが、モノレールを出てから、またお互いに見合う。
「先に動いて下さい」俺が敬語で言うと、
「そちらが御先に行ってください」彼女も敬語だ。
 くだらないが負けられない。ちんけなプライドが俺らの間で火花を立てている。
「……君の誕生日は?」
「――九月」
「俺は四月」
「だから?」
「俺のほうが五ヶ月先輩。後輩は先輩の言う事を聞くのが妥当だぞ」
「生まれた年度が同じだったら、先輩後輩は関係ないよ」
「じゃあ、レディーファーストだ。だから先に動け」
「レディーファーストだったら、わたしの意見を尊重して」
 膠着状態。今動いているのは心臓だけであろう。他はすべて停止している。
 どれぐらい経ったか。多分数分なのだと思う。こういう時の時間の流れは遅い。楽しい時は早いが、何も動かない時はとても長いのだ。
 すると、彼女が右手でグーを作った。殴られるのか? と思ったが、それは違った。
「ジャンケンは?」
「あ」
 最も簡単な勝負のつけ方を忘れていた。それほどいろいろ無駄に考えていたのだ。そんな自分が少し恥ずかしい。
 とりあえず、俺もグーを作った。
「最初はグーでいいのか?」
「うん」
「それと……首疲れないか?」俺はさっきから彼女を見下ろしっぱなし。
「何気に悪口を言うな」そして彼女は俺を見上げっぱなしだった。
 とにかく、またお互いに体勢を整えた。
「いくぞ」
 二人は構える。
 この一太刀ですべてが決まります! そんなアナウンスがこの状況にしっくりくる。
「最初はグーっ! ジャンケン―――」


 冷静に考えれば、くだらない勝負だった。なぜあんな事で張り合っていたのかが分からない。
 結果、俺の負け。
 微妙に悔しかったが、諦めて俺が初めに動き出したのだ。
 だけど、本当にお互いに強情だったな……。もうちょっと大人になったほうが良かったね。
 空港は広い。そう思わずにいられないほど広がった空間だった。
 電光掲示板に離着陸の時刻が刻まれている。多分あのカウンターが搭乗受付だ。後々はそこに向かうのだが、まずはツアーの受付をしなくてはならない。
 そのカウンターの位置をを案内板で探してから、その方向へ歩き出した。
 こつコこコつこコつコこつコこコつこコつコこつコこコつこコつ―――――
 俺の足音の間に入りこんで来る別の足音。甲高いその足音は、革靴と床が生み出す音だ。
 ――後ろから、近づいてくる。いや、近からず遠からずか。どちらでもいい、とりあえず、後ろから誰かがついてきている……。
「なんでついてくる?」
 俺は立ち止まる。それと同時にその足音も停止した。
 振り返ると、きょとんとして彼女が立ち止まっていた。
「なぜって……団体受付こっちじゃん。行き先が同じだけじゃないの?」
 一瞬にして言い返す言葉が無くなる。いわゆる絶句状態。
「ゴメン」とただ素直に謝った。
 すると、突然彼女が破顔する。周りにはばかることなく笑い出す彼女。「何素直に謝ってんの?」と途中にはさんで俺を馬鹿にしている。少しむっときたので「うるせぇ」と言い捨て、身を翻し歩き出した。
 やっぱり、コ、コ、コ、という革靴の音がついてくる。ついでに笑い声も。
「素直だねぇ」
 明らかに馬鹿にした口調。無視を決め込む。
「こんなにすぐ謝った人初めて見た」
「面白い面白い」
「素直すぎだよねぇ」
 横から響いてくる揶揄嘲弄がうるさい。流石の俺も反論に出る。
「人間素直が一番だぞ」もう一言。「素直じゃないから、背が伸びないんだ」
 刹那、背筋を悪寒が支配した。死が直前まで迫っているかのごとく息苦しい。氷の刃が背中に次々と飛来する。俺の足は床にへばりついていた。
 恐る恐る、勇気を振り絞って隣を見た。
 その笑顔、天使の如く。そのオーラ、悪鬼の如く。
「身体的特徴やら、その人の弱点やらの悪口は、非人道的行為に当たるってこと、知っていますか? 本日三度目ですよ」
「……三度も言ったか?」
「今のと、首疲れないか? と、会った初めの方のやりとり」
「よ……よく覚えてるな……」
 俺ですら忘れていたのに、目ざとく数えていた事に恐怖を覚える。
「うふふ」
 今の笑いにより、俺の表情が完全に固まった。のどの渇きが酷い。服の下では冷や汗が止めどなく流れている。
「君……さ、何か武道やってる?」
「どーしても聞きたい?」
「いえ、答えたくないのなら聞きませ――」
「合気道、かなり深く知ってる。ふふ、本当は制すなんだけど、倒してあげる」
 彼女が言い終わるが早いか、俺は逃げ出していた。
 合気道は護身術としては最適なものだ。ただ危険なので試合が無いのが現実。プロ同士なら怪我はないそうだが、アマがやると脱臼など常時だ。
「あはは……まちなさいよ」
 言葉には力が宿る。言霊は俺を包み込もうとしていた。
 笑顔は可愛かったのに、今は畏怖の対象だ。
「悪かった! マジで! 謝るから、なんでもするから!」
 苦し紛れに発した言葉。とたん、彼女が立ち止まる。
「なんでも?」
「え……?」
「何でもしてくれるの?」
 念を押している彼女。目がらんらんと輝いていた。
 ――はやとちった。
 そう思わずにはいられなかった。だがもうここで別れるんだ。そんなにたいしたことはできないだろう。
「豚箱に入らないことだったらな……一回きりだ」
「二回」
 極上の笑みは、最高の脅しでもあった。
「わ、分かった」
 YESと答えなければ殺される勢いがあった。この若さでは死にたくない。前途ある若者なら賢明な答えだ。
 したり顔になった彼女。やはり畏怖の対象だ。今、彼女は何をお願いしようか考えているのだろう。何を言われるか想像がつかない。
 悲観と嫌悪で放心状態になっていると、彼女が顔を上げる。
「ねぇ、今から旅行でしょ? 目的地はどこ?」
「ん? 長崎だけど?」
「あ、一緒なんだ」
「へっ?」
 思考が、停止する。身体が、はげしい軋みを奏でる。
「わたし、近畿日本ツーリストのメイトってところでなんだけど……同じ?」
 俺は黙っていた。というより、石と化していた。
 それを肯定ととったのだろう。彼女はにやりと笑みを浮かべていた。
「よろしく」
「あ……ああ」
 約束は軽率だった。今頃気がついても遅かった。
 気のせいかもしれないが、嫌な予感は、脳裏を何度も往復していた。


 搭乗ロビー。荷物に別れを告げた後、ここへやってきた。
 初め、何が登場するのかと思ったのだが、漢字が漢字なので、その考えは即座に否定された。
 次のフライトへ向けての整備中をしているため、搭乗受付までにはまだ時間がある。なので椅子に座る事にした。飛行場が一望できる大きい窓があったので、その前に座る。
 彼女は、俺の右側に座った。
「どこまでついてくる気だ?」
「二つの願い事を叶えて貰うまで」無邪気な笑みを浮かべる。「どうせ一緒のツアーなんだからさ、ずっとついて行ってもかまわない訳でしょ? 気にしない気にしない」
「まぁ、それはそうなんだけど……」
「わたしね、一人旅って初めてでさぁ……一人でいると心細くって」
「……俺も初めてだぞ?」
「え? ―――ちっ」
「なんだ? 『ちっ』て」
「気にしない気にしない」
「……俺が旅なれた人かと思ったんだろ?」
「どーかなー、そうだったら良かったけど、あまりそういう風には見えなかったから期待はしてなかったよ」
「じゃあ『ちっ』ってなんだ?」
「なに? 女の考えを覗こうっての? エッチ」
「―――お前、あっちいけ」
「やだ。願い事使えなくなるじゃん」
 何があっても叶えて貰うまで離れない気だ。
 ため息をついた後、窓の外に視線を置いた。
 外ではたくさんの飛行機が離着陸していた。なぜあんなに重い金属の固まりが飛ぶのだろう。不思議に思う。天候が少し悪くてもかまわず飛べるし、あの時速千キロのジェット気流まで利用してしまう。感心する事ばかりだ。
 乗る時は窓際がいい……そう思っている。
 高所恐怖症とはいえ、下を見なければ関係ない。横に広がる雲海を一望してみたいのだ。
 搭乗券はまだ見ていない。ここに来るまでに何度か取り出さなければならなかったが、座席は見ないでおいた。その時に見て、宝くじみたいなスリルを味わいたい。
「あ」
 彼女が声を上げた。
 その視線は俺の左側の席に注がれていた。俺もその左側の席に目を注ぐ。
 飴――よくコンビニで売っている長方形の包装紙に包まれたやつ――が置いてある。しかも未開封だ。
「とって」手を伸ばしながら彼女が言った。
「……あまり芳しくない行為だと思うんだけど……。ちょっとした犯罪でもあるし」
「誰も気にしないって」
 懇願する彼女に負け――張り合う気も無かったけど――その飴を取ってあげた。
 彼女はいそいそとそれを剥いている。そして飴が剥き出しになると、それを口にほおばる。
 ――小動物みたい。失礼ながらもそう思ってしまった。一つ一つの動作が、ちまちましていてなんだか可愛らしい。
「……食べる?」
 飴が差し出されていた。俺が彼女の方を見ていたので勘違いしたのだろう。
本当のことを言うと撲殺される可能性があるから、「サンキュ」といいながら受け取った。
 しかし……関係ない男女でも、こんな風に会話をしていたらカップルに見えるのだろうか。
 多分見えるだろう。俺がこの光景を後ろから見れば、必ずそう見える。
 仲睦まじい、二人の男女……。このシチュエーションなら、二人で旅行に行くところと見られるだろうし……。
 そう考えていると、少し恥ずかしくなってきた。
 ふと彼女を見ると、もう二個目の飴に手をかけていた。
「……もう二個目?」
 彼女は「普通じゃないの?」と言いながら、また飴をほおばる。
「飴、かんだのか?」
「かんだけど?」
「お前さぁ……飴はなめるためにあるんだろ?」
「いーや、噛むためだと思う。そのほうが美味しいじゃん」
「噛むといっぱい食べる事になるだろ。そしたら太るぞ」
「太ったことないもん」
「俺も確かにないけど」
「だったらいいじゃん」
「内臓脂肪は見えないところにつくんだぞ」
「見えなきゃいいもん」
 互いが睨み合う。さっきから何度睨み合っただろうか。
 ややあって、二人とも同時に吹き出してしまった。
「はは、馬鹿みたいな言い争いだな」
「あはは、そうだね」
 笑いが一通りおさまると、彼女はぽんっと手を鳴らす。
「おっと、忘れてた」
「何を?」
「飴食べたんだから、共犯ね」
「……ほら、飛行機のるぞ」
 搭乗受付が開始された。俺は逃げるようにしてそちらに向う。彼女はくすりと笑いながら俺の後についてきた。
 受付を済ませ、そして、初めての飛行機へと乗り込む。

 飛行機の中は思っていたより広くない。エコノミークラスからかもしれないが、外見より小さく感じる。ビジネスやファーストクラスが気になるのだが、いつも遥か頭上を飛んでいる飛行機の中に入れたのだから、文句はもう言うまい。
 予定フライト時間は一時間半だと言っていた。ならば、エコノミー症候群を心配する必要は無いだろう。
 深呼吸をして、ついに、搭乗券を見た。
『50 K』
 50は一番後ろ。Kは窓際だった。
 俺はガキだ。窓際だった事にすごい興奮を覚えている。初めての飛行機という事でさえ興奮していたので、ダブルで嬉しい。
 俺は座席を確認して、悠々と腰をおろした。
 窓からの景色がとても清々しく見える。翼が大きく、エンジンも見える。いかにも馬力がありそうなエンジンだが、やはりどうして飛ぶのかがいまいち分からない。
「なんでこんな物が飛ぶんだろうねー」この声の発生源は、すぐ横だった。
「なぜここから見てる?」
 顔を横に向けると、そこには彼女がいた。隣の席から首をにゅっと伸ばしている。
「わたし、50のHだから、となりだよ」
 この飛行機の座席は変わっている。
 前の方の座席は『3 3 3』となっているのだが、後ろのほうだけ『2 4 2』となり座席のアルファベッドが『ACDEFGHK』なのだ。なぜかと不思議に思う。
 つまり、HはKの隣だ。
「俺のとなり?」
「そうだよ。だから……」彼女は俺の肩をつかんだ。微笑みながら続ける。「窓際譲って」
「やだ」ほぼ反射に近い形で否定を告げた。「俺は飛行機乗るの初めてなんだよ。窓際がいいんだよ」
「わたしだって初めてだから、窓際がいいの」
「俺の席だ。譲る譲らないの権限は俺にある。だから譲らない」
「じゃあ、ジャンケン」
「なぜに?」
「公平にするため」
「俺が損だろ」
 せっかくの窓際。絶対に譲りたくない。言い合いは絶対俺が勝てる。俺のチケットがこの席を示していたのだ。彼女に譲る道理はない。
 しかし、次の彼女の口から出た一言で、俺は見るも無残に崩れ去った。
「じゃあ、お願い一つ目」血も涙も無かった。「譲れ」

 結局譲る羽目になり、一瞬やさぐれようかと思った。
 一応彼女は外を見せてくれた。それで俺の機嫌が直るとでも思ったんだろう。まぁ、ある程度回復したのは確かなのだけど。
 発進時のエンジン音に感動し、Gの重さにも感動した。旋回する時にかなり機体を傾けていたので、下を覗く羽目になり、危うく失神するところだった。よくこんなに傾けて墜落しないものだと、少々感心した。
 しばらくしてからシートベルト着用サインが消え、乗客はシートベルトをはずし始める。だけど、俺はシートベルトをはずさなかった。
 いくら安全と分かっていても、墜落とかハイジャックとかを想像してしまう。
 だが、そんな考えをもっていたのは俺だけのようで、とっくに彼女はシートベルトをはずし、大きなあくびをしていた。
「肩貸して……結構朝早かったんだ……」
 言うなり、俺の了承なしに頭を預けてくる。頭は二の腕辺りに置かれた。
 一瞬にして顔が朱色に染まった。
「あの……」
 返答は寝息だった。
 彼女を起こさないように頭を動かし、彼女の顔を見てみる。幼めの純粋無垢な寝顔がすぐ目の前にあった。紅潮している顔を隠そうと、俺は空いている左手で覆い隠す。それだけでは落ち着かないので、軽く俯いた。
 俯きながら、ふとある事実に思い当たった。
「……彼女の名前……訊いてなかった……」
 失態だ。名前も知らない人と一緒にいたなんて普通じゃありえない。注意不足の自分に少し嫌悪する。
「まぁ……いっか、後で」
 俺も朝は早かった。体が眠いと訴え、あくびが出る。
 飛行機が飛び上がったという感動が引いてきたところで睡魔が襲ってきて、そのまま俺は身をゆだねた。


 約一時間半のフライトを経て、俺は長崎の地へと降り立った。
 降り立った、とは言うものの実感が湧かない。一瞬本当にここが長崎かと疑った。車とか電車とかは、景色が動いているのが確認できるので、移動しているんだなぁ、と感じる事ができるのだけれど、飛行機じゃ下のほうがよく見えないし――見ようとも思わないけど――雲海が広がっていたりするので、景色があまり変わらないのだ。
 ただ俺は、ほとんどの時間を寝て過ごしていた。それが一番の原因であろうと、いろいろ考えた後に思う。
 目の前には大村湾が広がっていた。空と交わりどこまでも広がっている蒼い景色の中に、両手を上げて「ついたー」と言っている彼女の姿があった。
 綺麗だね、と同意を求めてきた彼女に、軽く相づちを打った。
 不思議だ。
 俺は人付き合いがあまり上手くない。絶対にセールスマンにはなるものかと心に決めている。だけど、さっき出合った女の子と共に行動しているのだ。
 メイトの旗を持っているガイドさんを見つけ、この旅に必要な物を貰ってバスへと乗り込む。彼女は極自然に俺の隣へと座る。そして変哲も無くバスは走り出した。
 変哲が無さ過ぎて、何か違和感を覚える。重要な何か……。
「あ、百円館」
 走り出してから数分後、彼女が声を上げた。
 バスの中では俺が窓際となっている。少しばかり飛行機のでの事で負い目を感じていたらしい。
「わざわざ長崎に来て百円で買い物するのかよ」ハッと軽く嘲笑う。
「気になっただけじゃん」俺を睨んだその顔には、五月蝿いと記されている。
 その表情のまま、また窓の外を見だした。
 なんだか、俺の顔が見られているような気がして仕方がない。こんなんだったら窓際を譲ればよかった。
 とりあえず、俺も窓の外に視線を移した。
 知らない地域の映画館。初めて見る景色は飽きる事が無い。
「あ、わたしの駐車場」彼女が呟く。
 そのとき、俺の視界の中心にあったのは『みどり駐車場』だ。
 わたしの駐車場。わたしの……わたし……。
「そうだっ」
 俺と彼女の言葉がハモった。二人とも苦笑を浮かべつつ、お互いに見合う。
「お前の名前、聞いてない」俺が言った。
「ホント、全然忘れてた」
 彼女も違和感を覚えていたらしい。お互いに気になっていたのに、今までどちらも忘れていたのだから滑稽だ。
「じゃ、俺から」
 ショルダーバックからメモ帳とペンを取り出して、『冴雅 竜吾 さえが りゅうご』と書いた。 「うあ、苗字が贅沢だね……」
 冴と雅。名前に使われてればよかったのにと思ったことは何度かある。だけどそうなると、悲しい事に名前と人物がそぐわなくなる。美麗と名づけられた女性がブスだったりするのと同じ感じだ。
「じゃ、今度はわたし」
 彼女は俺のメモ帳とペンを奪って、『初永 みどり はつなが みどり』こう書いた。
「みどりにルビふる必要性はないんじゃないか?」
「確かに無いね……」
 口には出さないでおくが、みどりという名前は少し古風な感じがする。居酒屋にもありそうな名前だ。
「なぁ、今さら、『さん』付けするのは、相当違和感があるんだが」
「わたしも、今さら『君』付けするのに違和感がある」
 そんな意見を交わした後、俺は彼女を『みどり』、彼女は俺を『竜吾』と呼ぶ事が決定した。
 だって、お前って呼んでいた奴に対して、改まってさん付けするのはおかしいような気がするだろう。そうしたら、立場を対等ににするために彼女も呼び捨てなのだ。
「よろしく、みどり」
「ねぇねぇ、ちょっと頼まれて」
「願い事ってこと?」
「うんっ」
 彼女は大きく頷き、にやりと笑った。
「あのね……」
「いや、なんか嫌な予感するからそれ以上何も言うな」
 あまり敏感でないはずの俺の第六感が告げているのだから、相当危険な事に違いない。
「何でも聞いてくれるって言ったでしょ?」
「……まぁ……な」ぐっと気持ちをこらえ、「じゃあ、言ってみろ」
「願い事、残り一回から三回に増やして」
 全身に電流が走った。全身が硬直した。ぎぎぎ……と音を立てながら俺の首は回り、窓の外へと向けられる。
「ソラがアオいなァ」
「現実逃避するな」
 顔がひきつっているのを感じながら、彼女へと視線を戻す。
「どこの屁理屈野郎の願い事だ」
 ようやく出た反論の言葉。搾り出すように言った後、彼女を睨む。だが、その睨みがとても弱い。 「なんでもしてくれるって言ったのになぁ」
 そう言いながら、彼女は自分の髪を指に絡ませていじくっている。その動作にはドキリとさせられたが、急にキッと目を吊り上げ俺を睨み返す。その威圧にたじろぐ。
「それとも、気絶する?」
「うわ、最低な脅迫だな」
 強者が弱者をいたぶっているだけじゃないか。暴力反対っ。
 心の中でしか反撃できない俺が情けない。
「――分かりました」苦汁をなめる思いで承諾した。「だけど!」彼女に向って指をさす。
「もうその願い事を増やす願いは禁止な」
「分かりました。じゃ、よろしくね、竜吾」
 そう言いながら怪しげな表情を浮かべるみどり。俺はただただ、苦笑することしかできなかった。


 バスに数分間乗り、俺らは平和祈念公園へとやってきた。
 バスから降り、平和祈念像の前で、ガイドさんから像のことや周りにある建造物の説明を聞いた後、自由行動となった。
 自由行動といっても、する事は公園を一周することしかない。奥の方に噴水があるらしいので、それを見に行くとしようと歩き出したところで、みどりが俺の裾を掴んだ。
「どうした?」
「ねぇ……あれ何かな? ほら、あの右手人差し指の先っぽ」
 彼女はその部分を指でさした。みどりの言葉と指を頼りに、その部位を探す。
 像の右手は天に高々と伸ばされている。その人差し指に何かを見つけた。
 黒い棒としか言いようのないそれ。大きさはたいした大きさではない。
「鳥……ではないよな」
「あんなに細い鳥はいないでしょ?」
「みどりは何だと思う?」
「うーん……避雷針」
「像がぶっ壊れるよ」
「だよねぇ……」
 気になる。なぜ黒い物がちょこんと顔を覗かせているのだろう。
 俺らはその事について十分ほど悩んでしまい、無駄な時間を費やした事に苦笑しつつ公園を一周した。
 像の前に戻ってきて、「そうだ、竜吾、写真撮ろ」とみどりが持ちかける。
 像の前には、ちょうど写真撮影用のベンチが置いてある。もちろん団体客用のだ。
「そうだな、インスタントカメラもたくさんあるし」
 親が無駄に三個も持たせてくれたのだ。とりあえず今は一つだけを所持している。他はボストンバッグ行き。
 彼女が撮ってくれると言うので、カメラを渡してベンチに座った。
「同じポーズとって」
「は?」
「祈念像と同じポーズ」
「普通でいいだろ」
「せっかくなんだからさ。ほら、こんな機会二度とないだろうから」
 確かに、もう長崎に来る機会なんて無いと思ったほうがいい。
 だけど、右手を上げ、左手を地面と平行に横に伸ばし、右足はあぐらをかいているようにして、左足は椅子から垂れ下ろす。説明し難いが、とりあえず恥ずかしいポーズなのだ。そんな格好で撮るのは嫌だ。
 俺は立ち上がり、つかつかと彼女に近づいて二つのカメラを奪った。
「なんだよ」とか声が聞こえたような気がしたが、それを無視して通りすがりの人に「すみません。写真撮ってもらえませんか?」と言った。了解を得たのでカメラを手渡たす。
「彼女との写真ですか?」
「……ええ……まぁ……」
 否定する時の言葉が面倒臭かったで、一応そう言っておいた。こっちはこっちで根性が必要だったけど。
 みどりのもとに戻ると、何か不満そうにしていた。
 とりあえずベンチに腰掛ける。二人の間に微妙な隙間があった。当然といえば当然なのだけど。
「つまんない」
「俺がポーズ取らなかったからか?」
「うん。後でつまみにしようと思ったのに」
「なんのだよ」
 そう言いながら、彼女の頭を小突く。みどりはこっちをキッと睨んだような気がしたけど、それを無視して続ける。
「俺は恥ずかしいポーズはしたくない。それに、二人で撮らないと記念にならないだろ?」
「記念と祈念で……シャレ?」
 俺は答えなかった。やっぱり、隙間が気になる。
 無言のまま彼女の肩を引き寄せる。小さな体は簡単に俺の方に倒れてきた。自分でした事ながら、顔が紅潮する。
「はい、撮りますよー」
 パシャ。カメラを持ち替えてもう一回パシャ。
 おサルみたいに真っ赤になっていただろう状態を、そのまま撮られてしまった。
 引き寄せた手をパッと放し、御礼を言ってカメラを返してもらった。
 顔が赤いまま、彼女を見やる。俺と同じように耳たぶまで真っ赤になっていた。
「ほら」と、カメラを返す。
「うん……」小さい声でそう言って、カメラを受け取った。
 気まずい。やっぱり行動に移さないほうが良かったかもしれない。でももう後の祭りだ。
 彼女が何か言おうとベンチに座ったまま俺を見上げる。
 視線が絡む。
 またお互いの顔が燃え上がり、すぐに視線ははずされた。
 それから彼女は、気まずさを紛らわそうと右を向く。
「あっ」彼女が声を上げた。
「どうした」
 やっと気まずい雰囲気が払われ、ほっと胸をなでおろす。それから彼女の視線の先に目を向けた。
 屋台で、百円のソフトクリームが売られていた。
 彼女は立ち上がり「えっと……遠回しと、単刀直入。どっちがいい?」
 何が言いたいかなんて、押して知るべしだ。
「遠回しだと?」一応訊いておく。
「えと、冬だけど今日は何だか暑いなぁ。冷たい物が食べたいなぁ。初めに『ソ』が付いて、最後に『ム』が付くもので、わたしの視界内にあって、百円で売られてるものが食べたいけど、お金がもったいないしなぁ。気前のいい誰かが買ってきてくれないかなぁ」彼女は上目遣いで俺を見る。
「単直だと?」
「ソフトクリーム奢れ」
 にこりと微笑みながら放ったその言葉は、飾りっ気もない予想通りの言葉だった。
「百円なんだから、自分で出せばいいだろ?」
「百円だからこそ、もったいないような気がするの」
「どんな理屈だよ」
「そう思わない? 財布の中から百円玉を取り出す瞬間、切なくならない?」
「ならない」
「竜吾がおかしいんじゃないの?」
「それだけは否定しておくよ。それに、アイスって……冬に食うもんじゃないだろ?」
「今は春だよ」
「さっき冬って言ってなかったか?」
「気のせい。とにかく今は春だよ」
「暦上はそうかもしれないけど、寒いのには変わりないだろ」
「桜だって咲いてるじゃん」
「……関係あるか?」
「うん」
「根拠」
「ない」
「おい」
「だけどね、うちの家訓では『桜が咲いたらもう春ですねぇ』という言葉があって……」
「言っておくが、言葉遣いが何かおかしいぞ」
 一瞬みどりの言葉が途切れた。言い返す言葉が消えたのであろう。だが、次の瞬間には「どうでもいいから、アイス奢ってよ!」と、開き直る。
「いやだって」
「じゃあ、ジャンケン」
「だから―――」
 ふと、言葉を止める。このパターンどこかで経験した。デジャビュだ。それはそう、飛行機の中での出来事……。
 ――嫌な予感がよぎる。
「じゃあお願い」
 心臓が極限まで跳ね上がった。
「えっと、ある程度のことだったら、ジャンケンですべてを決める事」
「ずっとか?」
「うん」
 予想していた言葉とは違う事だった。だけど、この願い事はいろいろと俺に不利になるのではないか。ある程度とは彼女が決める事なのだろうから、余計に不安になる。
「じゃあ、ジャンケンね」
「仕方ないな……これで勝てば奢らなくて済むんだろ?」
「そういうこと」
 両者は拳を握り締め、燃えていた。
 無論、御金のために。
「ジャンケン―――」

 祈念公園の見学も終わり、バスへと乗り込む。
 つくづく思う。俺は勝負事に弱いのだろうか?
 また負けた。奢る羽目になってしまった。彼女の言っていたことは正論かもしれない。百円玉を二枚出す時、とてつもなくセンチになった。
 二度あることは三度ある。勢い的に次も負けそうだ。三度目の正直って言うことわざもあるけど、信用できない。なんてネガティブなのだろう。もっとポジティブに行こうよ。
 くだらないことを言い聞かせている間に、バスは原爆資料館へとやって来た。
 建物を見上げながら思う。
 俺の場合、原爆といえばどうしても広島が先に浮かんでしまう。だが、長崎も甚大な被害を与えられた県の一つなのだ。

 1945年8月9日11時2分。死の爆弾『原子爆弾』通称『ファットマン』が投下された。その悪魔の化身は地上五百メートルの高さで爆発。その一発は、73,884人の死者、74,909人の負傷者を生み出した。最終的な原爆の被害者はそれ以上となる。爆発に伴った放射能の被害者だ。
 キノコ雲。これは、爆発により衝撃波が発生し、それによって中心の気圧が低くなり、そこに一気に空気が流れ込んで煙を持ち上げるために出来上がるのだ。傍から見れば壮大な光景だろう。ただ、その直下にいた人はすでに絶命しており、少し離れたところではもがき苦しんでいる人が後万といる。
 その苦しんでいる人の映像が、モノクロで流れている。酷い光景だった。カラーだったら一体どんな映像となるのだろう。
 ――想像もしたくない。熱線で焼け爛れた人、死にきれず苦しんでいる人。残酷だった。悲惨だった。
 いくつかあった原爆投下予定都市。その中の一つに長崎があり、広島と共に選ばれてしまった。厳密に言えば、福岡に落とす予定だったのだ。だが、福岡上空の天気が不良だったため、長崎へと変更されたのだ。
 たった三秒。一瞬で目の前の光景が一変する。想像もできない。まばたきをしたと思ったらいつもの生活が送れなくなり、無残に消えていく。何の変わりも無い生活が消え去る。灰燼へと化す。ただ一発の、原爆で。
 誰が悪い?
 その答えは一生出ない。いくら討論しても、袋小路に行き着いてしまう。簡単に彷徨ってしまう。
 双方に正当な理由があるのだ。無駄に人の命を奪った、だけど、落とさなければ本土決戦となり、もっと死んでいた。
 是非が問えない。
 誰にも不平不満を言えずに逝去していった人達。平和は長崎からと掲げた意味が分かるような気がする。
 戦争など、もうそんな惨い事など起こすべきではない。
 そんな考えを簡単に挫くかのように、大きな戦争がなくなった今でさえ、紛争が起きテロが起き、犯罪は絶え間なく起こり、争いは絶えない。争いを止めることなど不可能だ。人間は争い無く存在できない。だからせめて、最小限に喰い止めることが大切なのだ。
 だが、それも難しい。それが現実だ。
 とりあえず今は、原爆で命を失った人々、戦争で命を失った人々の冥福を祈り、合掌しておく。
「ふぁ…………ヒマ」
 そして、この感傷的な話も、彼女の一言で一瞬にして消え去った。
「竜吾はこんなの見てて楽しいの?」あくび交じりだ。
「あのな、ヒマだったら先に行けばいいだろ?」
「でも、何か頼みたい事あったら困るし」
「俺的には、離れていて頼み事されない方が嬉しいんだけどね」
 言ってから違和感を抱く。逆の事を言いたかったのではないか。近くにいて欲しいと、そう思っていたんではないかと……。
 その考えを吹き飛ばすように首を振った。
「それより、感傷的なものを感じないのか?」
「例えば?」偽り無く、本当に疑問形。
「例えばって……可哀想とか、戦争って酷いなとか……」
「なるほど」
 みどりの感性に呆れながらも、もう集合時間ぎりぎりだったので、最後の方はほとんど見ずにバスへと乗り込んだ。


『平和を』
平和を祈るものは針一本も隠し持ってはならぬ。
武器を持っていては平和を祈る資格はない。


『如己愛人』
なんじの近き者を己の如く愛すべし



 原爆資料館にあった、永井隆さんの作品。この二つが展示されていた。
 永井隆さんは名誉市民となっている、素晴らしい人だ。
 なんじの近き者を己の如く愛すべし、絶対意味は違うと思うが、これを読んだ後彼女を見て、赤くなってしまった。


 バスの中での会話はいつも通りのそつないものだった。だけど、とても楽しい気持ちにさせられた。
 ―――なんだろうか、この親近感。
 彼女は、普通に隣に座っている。どんな思いで隣に座っているのだろう。
 願い事のため? それとも……―――
 ここに、後者を願っている、俺がいた。



 グラバー園に辿り着いた。
 降りた所からグラバー園までには、周りに小店携えた坂がある。試食できる所が無いかと探ってみたのだが、該当箇所は見た限りゼロだった。
 途中、国宝になっている大浦天主堂を見学した後、グラバー園の見学となった。
「屋外エスカレーターか」
「わたし初めて見た」
 グラバー園に向かう途中でエスカレーターを見つけた。それだけだったらなんら変わりないのだが、路面に剥き出しになっていて屋根もついていない。つまり、完全に風雨にさらされている訳だ。
 奇妙なものがあるものだと、なぜか感心しながら進んでいくと、グラバー園の一番高い所――つまり見晴らしがいい所――から、また奇妙なものが見えた。
「あ、ミカン」彼女が驚嘆の声を上げた。
「ミカン?」
 彼女の声に反応し、俺も同じ方向を見てみる。
「うわ、なんだあれ?」俺も驚嘆の声をあげていた。
 ミカンと呼ばれた物体Xについて説明しよう。それは視覚的に緑色のビニルハウスの上に載っているような感じで存在している。つまり実際は違うと思われる。その色は鮮やかなオレンジ色で、見事なまでに球状である。
 これを奇妙と思わずに何を奇妙と思うだろう。町中に顕在しているソレは、周りの色に溶け込めず異様なほどに際立っている。
「ミカンってのはどうかと思うけど……」
「へたが付いてたらミカンじゃん」
 二人してこの謎の物体Xを見つめていたのだが、結局正体は暗中に潜ったままだった。

 奇妙な建造物を二つも見たのだが、極めつけがこれだ。

「ヒマ……」
「今度は俺も面白くないな」
 二人してぼやきながら道を歩いていた。
 人物ないし家の構造に興味を持っている人でないと、ここは面白くないだろう。
 唯一有意義だったのは町を一望できた景色だけだ。ミカンもあったし。
「あっ」二人同時に声を上げて立ち止まった。
 二人の視線の先には『安田』と書かれた表札。しかも門の中にはきちんと家が存在している。
「安田さんちだよな」
「安田さんちだよね」
 二人でもってしてもこれだけしか意見が出なかった。
 なぜここに安田さんちがあるのだろう。パンフを見てみたが安田さんちが上記されていないことから、ここは見学場所でない事がわかる。
 しかし……謎だ。俺らの中で、グラバー園には『奇妙』というイメージが一生付きまとうだろう。

 それ以外に興味をそそられるものはなく、なんとなく見学が終わってしまった。
 こう思っているのは俺だけかもしれないが、原爆資料館の見学時間を長くして欲しかった。
 一日目にお土産を買う気にはなれず、バスに戻ろうと坂道を下っていた。その途中、不意に嫌な予感が脳裏を横切る。
「ねぇねぇ」みどりが俺の裾を引っ張る。「なんだ?」と渋々止まった。
 俺が見たもの。それは一つ千五百円のアクセサリーを売っている露店だった。『名前彫ります』と看板が掲げられている。魅力的だったのが、一つ買ったらもう一つがただになるということだ。つまるところ一つ七百五十円になる。
「買いたいのか?」
「うん。よく分かってんじゃん」
 彼女はにこりと微笑んだ。
 ああそうか、こうやって女は男をそそのかすのだな。理解していても騙されそうな笑顔だけど。
 そう考えてからにこりと微笑み返し、急に表情を無くしてすたすたとそこを立ち去ろうとした。が、 「すみません。これ下さい」
 後ろから声が響いてきて、戻らざるを得なかった。
「何を買っている?」彼女を睨みつける。
「大丈夫だよ、ワリカンで出すから」
「勝手に決めるんじゃない」
「じゃあ竜吾、手のひら見せて」
 突然のことにいぶかりながら、言われた通り手のひらを見せる。
 すると、彼女はピースを目の前に突き出した。
「はい、わたしの勝ち。買うからね」
 意味が分からず数秒間立ち尽くし、理解し終わったころには、彼女はもう買うアクセサリーを決め終わっていた。意味を咀嚼するまでに時間がかかりすぎた。
「竜吾、メモ帳貸して」
 彼女の強引さにため息をつきながら、仕方なくメモ帳を差し出した。
 選んだのは、銀色で、縦が長い長方形の角が丸まっているプレートだ。それに鎖も取り付けられている。
「えっと……これ、できますか?」メモ帳にデザインを描いたようだ。
「ええ、できますよ」
 店員さんはそういうと、メモ帳と二つのペンダントを持って、近くにある文字を彫る機械の前に立った。
 俺は彼女の隣に並ぶ。
「どんなデザインなんだ?」
「できてからのお楽しみー」
 期待と不安が入り混じった心境の中、二、三分が経過する。
「はいどうぞ」と、店員さんがみどりにペンダントを手渡した。
 彼女はバッグをごそごそとあさりだす。俺も財布を取り出した。
「あー……」
 みどりが複雑な表情を浮かべてこちらを見た。どちらかというと、悲愴の色が濃い。
「財布、バスの中に忘れてきちゃった」
「マジ?」
 旅行中に貴重品を身につけておかないのは危険だと思うのだけど……。
「しかたないな……ここは俺が出すけど、あとで七百五十円返せよ。それと、今後気をつけるように」
「うん」
 本当に分かったのか定かではないが、俺が代金を支払った。
 しかし、千五百円は痛い。宣言した通り、絶対七百五十円返してもらおうと心に固く誓った時、彼女が片方のペンダントを差し出した。
 受け取り、デザインを見る。
 長方形の真ん中に『Ryugo Saega』と横向きで彫られている。それから、その俺の名前を上下から挟み込むようにして『L』『V』の文字が刻まれていた。
「なあみどり、このLとVってなんだ?」
 名前はわかる。だけどLVの意味が分からない。レベルって訳では無いだろうし。
「わたしのも見れば分かるんじゃない?」そう言って、もう片方を差し出した。
 二つを見比べてみる。レイアウトはほぼ同じ。俺の名前と同じ場所に『Midori Hatsunaga』と彫られていて、LVが彫ってある場所と同じ所に『O』『E』と彫られていた。
「………………」黙考。そして、
「『L』『O』『V』『E』ってことか?」
「そっ」
 あっさりと肯定の言葉を受け取り、反応に困る。だがじょじょに顔が紅潮してくるのが分かった。 「普通さ……片方にLOで、もう片方にVEってしないか?」平静を装う。
「それじゃ普通じゃん。ちょっとアレンジを加えてみました」
 さぞ当たり前のように笑っている。見ただけで理解できてしまうようなLOと書かれているより、LVのほうが良いといえば良いのだけれど……。
「でも、LOVEってのは……」
 やっぱり、恥ずかしい。
「気にしない気にしない。ペアってのは、気分的にこういうのが書いてあった方がそれっぽいじゃん」
 微妙な変化ではあるが、彼女の顔が朱色に染まった。
 またどちらも押し黙り、気まずい雰囲気になってしまいそうだったので、俺はみどりのペンダントをかけてやった。それから自分のも首にかける。何となく恥ずかしかったので、自分は服の中に入れてしまった。
「ほら、行くぞ」
 俺は幼気な彼女の手をとった。すぐに前を向いてしまったので、彼女がどんな表情をしているのかは分からなかった。
 ただ――小さな手はとても暖かく、ずっと握っていたい。
 ――――そう思った。



 本日ご宿泊するホテル、長崎ビューホテルへとたどり着く。
 グラバー園からこのホテルまで五分とかからなかった。実際は二、三分だったのかもしれない。
 チェックインをして自分の部屋へと入る。飯の時間まで小一時間あったので、ペンダントをはずしてから温泉に入り時間を潰した。出てから、浴衣があったのでそれに着替える。浴衣の問題点は朝起きた時に着崩れている事だ。それが無ければ快適な服なのに。だけどそれでも着たいという衝動に駆られるのは、やはり浴衣は日本人の心を掴んでいるのだろう。
 しっかりと浴衣を着てから、夕食を食べる所に移動した。
 少し遅めに来たので、半分ぐらいの組がもう料理を食べていた。うまそうだなぁと料理を観察しながら自分の席を探す。
「こっちこっち」
 先に来ていたみどりが声をかけた。みどりももう温泉に入ったらしく、浴衣姿になっている。
 ………なんか妙に似合っている。いや、何と言うか……色っぽいというか……。
 自分の頬を軽く叩いて考えを追い出してから、自分の席を見た。俺とみどりは相席となっている。お互いに一人旅。わざわざ机を二つ使うのは勿体無いのだろう。
「つくづく縁があるな」そう言いながら、椅子を引いて座る。彼女の向かい側だ。
「そだね」
 彼女はもう豪華えび料理を半分ほど食べ終わっていた。
 俺はいただきますと小声で呟いてから、料理へと箸を伸ばす。
「そーいやーさー」俺はえびの刺身をほおばりながら言う。
「何?」
「何で一人旅なの?」
「え、ただ行く人いなかったし、家族が『一人で行け』って言ったから、何となく」
「なんだ、もっと複雑な理由を期待してたんだけど……」俺はつまんなそうにため息を付く。
「どんな?」
 みどりは俺の反応にむっとしていた。
「例えば生き別れの兄弟が長崎にいるとか、傷心旅行とか」
「生き別れの兄弟探しに来るためにツアーで来る? 普通?」
「こない。来たらただのアホだな」
 探すためにツアーで来るなんて、気違いしかしないだろう。
「それに傷心する前に彼氏もいないし、好きな人もいないし」ため息をつく。
「俺と同じだな」俺も薄く空笑いを浮かべた。
「そりゃ竜吾に彼氏がいたら変でしょ」
「ごめん。あえてつっこまない」
「嗚呼、つっこんでよ」
 嘆いた後、彼女は俺の飯に視線を落とした。
「うわ……早……」驚愕の表情を浮かべている。
 俺はもうエビ尽くし料理を食べ終わっていた。後は揚げ物とデザートを待つのみだ。
「お前が遅いんじゃないか?」
「絶対竜吾が早い」
 俺は普通なのだが、反論するとまた言い争いが起こりそうだったので、
「俺が早いかもしれないけど、みどりは遅いな。さっき半分だったのに、四分の一しか進んでないだろ」
「そうかなぁ……味わって食べればこれぐらいだと思うんだけど……」
 すると、揚げ物がやってきた。えびの揚げ物や、花の揚げたやつなど、四つぐらい種類があった。俺はそれを約15秒で平らげる。
「もっと味わおうと思わないの?」彼女は驚愕していた。
「味わってるよ。これで遅いほうかな」
 この言葉に彼女は数秒間固まっていたが、また飯を食べ始めた。
 俺は椅子に寄りかかりながら、デザートを待つ。
「そうだ、話戻すけど」
 俺がぼうっとしていると、彼女は思い出したように言った。
「竜吾はどうして一人旅なの?」
 そう訊きながら、みどりは巻き貝の中身を取り出そうと奮闘していた。俺もさっき苦戦したな。
「みどりとほぼ同じ。ほぼって言うか、まったく同じかな」
「一緒に行く人いないんだー」笑いながら、からかい口調。
「おめーもだろ。俺はいなくてもいいもん。つーか、誰かを好きになった時もない。女関係ゼロだ」
「うわー淋しい人生、って言いたいけど、わたしもそうだしな……」
「お互いに淋しい人生送ってるって事か……」
 ややあって、二人とも吹き出してしまった。
 なぜ笑ってしまったのだろう。彼女と居ると、どうも心が緩くなる。ベッドの中にいるときと似ているような気がする。暖かい空気に包まれて幸せな気分になって、安心して……とても、居心地がいい。
 なぜ? 問われても困る。ただ、それだけだ。……別に、違う……。
「ああ!」彼女が突然叫ぶ。
「なんだ?」
「竜吾、ペンダントしてないでしょ!」
 周りに迷惑がかからない程度で罵声をとばす。
「ああ、さっきはずした。よく気づいたな」
 どうして気づいたのだろう? かけていた時は服の下にかけておいたのだ。つまり、首元を見ないと、ペンダントの有無は分からないはずだ。
 ――目ざといというか、細かいというか。
「つけてなさい」
 彼女ははまだ巻き貝の中身が取れない怒りからか、俺をきつい目で睨んでくる。八つ当たりもほどほどにして欲しい。
「恥ずかしいだろ、あんなの」
 意味が分かっているから尚更だ。
「せっかくみどりちゃんからのプレゼントなんだから、ちゃんと着用してなさい」
 プレゼントと言っても、金を払ったのは俺だ。早く金を返してもらわなければ……と思ったが、彼女の気迫に圧されてそれが切り出せない。
「あー……ワカリマシタ」
 たどたどしい言葉で曖昧に返答した。
 しかし、その曖昧な返答が彼女のしゃくに触れたようだ。
「いーよーだ。嫌だったら着けなくても」
 一睨みをしたあと、むすっとしてまた御飯を食べ始めた。いや、巻き貝と戦い始めた。
「悪かった。つけるよ、部屋帰ったらすぐに」
 怒らせるのは危険だと、ここは素直に謝る。
「それでよろしい。あ、やっと取れたー」
 無邪気に喜び、喜色満面になっていた。
 そんな彼女を見ながら、ふと、考えた。
 さっきの言葉……何となく発しただけだけど……謝っただけだけど……。
 本当は、彼女との接点が、どんな些細なことでも良いから、欲しかっただけなのかもしれない。


 デザートも食べ終わり、みどりが食べ終わるのを待ってからお互いの部屋に戻った。
 みどりに言われた通り、ペンダントを首に下げる。
 今は便所にいた。洋式のトイレットは、ホテルながらの白さを放っている。
 用もたし終わり、ノズルを回す。手を洗うために、タンクの上に付いているU字型のパイプの下に手を待機させる。
 ――水が出ない。
 タンクに水が溜まっている音は確かにしている。その音がどんどん高くなっているので、量も増加している。
 なのに、水が出ない。
 こうなったら意地だ。出るまで待ってやる―――――

 約一分後。

 結局トイレの外にある洗面所で手を洗う事になった。
「変わってんな……」ボソリと呟く。
「何が?」
「斯く斯く云々」
「だよね。なんでトイレの中で手が洗えないんだろうね。結局外で手を洗うんだもん。ねぇねぇ、お茶煎れてよ」
 二つの湯飲みに、それぞれお茶のパックを入れてお湯を注ぎ込む。
 それらを机に置いた。半ば、叩きつけるように。
「ふぅ……」大きく息を吸い込んで……。
「なんでここにいるんだ! そしてなんで斯く斯く云々で意味がわかった!」
「鍵が開いてたからと、山勘」
「あ、なるほど……じゃない!」
 危うくみどりのペースに巻き込まれそうになり、慌てて叫んだ。
「不法侵入だぞ!」
「大丈夫、鍵かけて来たから」
「意味分からん!」
「もっと発想を膨らませて」
「ああ……もういい、疲れた」
 叫び疲れて、俺は彼女の隣に座り込んだ。彼女はそんなやつれている俺を見て、満足そうに微笑んでいる。
「で、なんでここに来たんだ?」
 もういいかげん彼女の性格に振り回されないようにしないと、たった三日でも過労死してしまいそうだ。
「ヒマだったから」
「あっそ……」
 もう抵抗する気も起きない。起こしても、どうせかわされるだけだ。
「でも、普通さぁ……男の部屋に女が自分から入ってくるか? 俺が襲う可能性はゼロじゃないんだぞ?」
「平気。竜吾はそんな人じゃないと思うし」一度お茶をすすり、「そうでしょ?」
「まぁ……確かにな……」頷いて、「やっぱり避妊具がないと……」
 刹那、彼女の瞳に軽蔑の色が浮かんだ。というか、全身が俺を避けている。
「女関係ゼロって嘘でしょ……」
「冗談だって! それぐらい察してくれよ……」
 慌てて弁解してから、なんだか弁解した俺が情けなくなった。
「でも、もし襲われたって対処法はいっぱいあるし」
「例えば?」
 後に、訊いたことを後悔した。
「男の急所なんてがら空きじゃん。一握り、一潰しで終わるよ」
 みどりは、うふふふふと怖い笑みを浮かべて右手の拳を握り締める。
 その言動が妙に生々しく、背中にこそばゆいものが走った。
「で、何かある?」拳の戒めを解くと共に彼女が言った。
「何かって?」
「ほら、えーと、二人で遊べそうな道具。でもトランプは却下ね。二人でやるとしたらスピードぐらいしかないから」
「そうだな……」
 何かあったような気がしたのだけど……。
「そうだ」頭上に40Wの電球が灯された。
 俺は大き目のボストンバックを開けると、中からあるものを取り出した。
「……な……なんでそんなもの持って来てんの……?」
 こめかみに手を当てて、信じられない、とでも言いたそうな(ほぼ言っているけど)表情を浮かべる。
「一人じゃ暇だろうと思って持ってきたんだよ」
 俺が取り出したのは、プレイステーション。コントローラーも二つあるという用意周到さだ。
 2もONEも出ている今、俺は普通の灰色プレステを使っている。
 ……親が2買うの許してくれないんだよ……。
「何やる? ソフト約20本入ってるけど」
「うわー……ただの馬鹿だね」ふっ、とせせら笑った。
「じゃあいいよ。俺一人でやるから」俺がふいっと顔を背ける。
「嘘、嘘。やるやる!」
 みどりはちゃっかりとコントローラーを握り締めていた。
 散々馬鹿にして、しかもセッティングを手伝わない気だな、このやろう。
 ―――言葉に出せない、俺が情けない。


「これでオレの勝ち越しだな」
「くやしー、くそう……じゃ、次は……」
 みどりはやっきになってソフトを選ぶ。
 落ちゲーをさっきからやっているのだが、俺とみどりはなかなかいい勝負だ。
 テトリス40回、とっかえだま43回、パズルボブル38回を終えて、俺が一勝だけ勝ち越しているところだ。
「よっし、これね」
 みどりが選んだのはぷよぷよ。四作目のぷよぷよーんパーティーだ。
「ほほう……わしにぷよぷよで挑んでこようと?」
「う……竜吾、言葉遣い変わってる……」

 52戦目

『えいっ、ファイヤー、アイスストーム、ダイヤキュート、ブレインダスト、ジュゲム、ばっよえーん、ばっよえーん、ばっよえーん』
 テレビから、酷く情けないが、意味の分かるものにとって残酷な声が響き渡る。
「おお、九連鎖は珍しい」
「いじめだー!」
 みどりが叫ぶ。それと同時に、どんっ、と大量のおじゃまぷよが降り注いだ。
 画面が容赦なく揺れ、彼女の方、2Pのキャラが泣いていた。
 俺のキャラクターはアルル。みどりはルルーだ。サタン様をめぐる(?)争いと言ったところであろう。
『真・女王乱舞!』
 みどり側の画面が反転。そして、おじゃまぷよが一掃される。運良く四連鎖が起こり、ある程度のぷよを相殺した。しかしまだまだおじゃぷよのストックはある。
 ドン! ドン!
 二回おじゃぷよが振ってくるとほとんどスペースがなくなる。
『真・女王乱舞!』
 たまらずみどりは必殺技を発動。またお邪魔ぷよは消えた。
「随分と抵抗するな」
「へっへん。あと一回必殺技残ってるから、助かるかもよ」
 どんっどんっ! また画面がおじゃぷよでいっぱいになる。
『真・女王乱舞!』
 おじゃぷよは一掃。まだおじゃぷよのストックがあったが、一回みどりの画面に降り注いだところでストックが消えた。
「助かった! よし逆転してやる」
あと二段ぐらいだが何とかスペースがあった。彼女だったら二段もあれば復帰可能だろう。俺だったら、絶対可能だけどな。
 そして、俺はいつも通りの戦法、右側に積んでいくやつ(俺的愛称ファイヤーの素)を実行する。普通に連鎖を組んでもいいのだが、それでは圧勝になってしまうので面白くない。
何気なく積んでいると、四個の同じ色のぷよがくっつき、消えた。そこから出た一つの光がみどりの画面の真上へと移動していく。ストックのところにおじゃぷよ一つと表示された。
 ぽてっ。
 おじゃぷよ一個なので、音がしょぼい。
 しかし、落ちた場所が悪かった。それは、上が一つしか空いていなかった、左から三番目の列……。 「あ」
「きゃー!」
 彼女は死んだ。ばたんきゅーと言う文字とともに。
「終わり方しょぼかったな」彼女の肩をぽんと叩く。
「竜吾ぷよぷよ強すぎ」
「だから、必殺技が弱いアルルでやってやったんだろ?」
 アルルの必殺技は弱い。主人公なのに可哀想だ。おじゃまぷよが降って来るのを十五秒間食い止めるだけ。対してルルーは、おジャまぷよを完全に消し去る事ができる。
「ハンディキャップつけてよ」
「付けると、かなり厳しいんだよ。一個ずらすだけでいつも快勝のやつに勝てなくなる時だってあるんだから」
 昔、ハンディをつけたら惨敗した思い出がある。
「いやーでも、みどりも結構強いよ。もう一回リベンジするか?」
「うー……」
 ばちり! そんな音を立てて、みどりはプレイステーションの電源を切った。大敗した事によって気分を少々害したようだ。
「はぁあ……」ため息をついた後、「よし、竜吾、次は何やる?」
 一変、声が明るくなる。気の変わりがとことんはやい。
「プレステ以外にはトランプしかないぞ」
「トランプは駄目なんだって。さっきも言ったけどスピード以外に無いから」
「そしたら、プレステの電源切ったら何もできなくないぞ」
 みどりは何か黙考を始めた。視線を泳がせて、最後に俺を見た。
「じゃあ、会話しよ」
「今までのは会話といわないのかよ」
 みどりが何やらむすっとしてしまったので、慌てて話しを切りだす。
「……でもよ、会話って、しようとしてできるものか?」
「根性」
「一言で片付けるな」
「今何時?」
「そらすなよ」
 つっこみつつ、ふと時計を見やった。
『2:03』と時計に表示されている。
 時計を見た後、もう一回みどりのことを見てみると大きなあくびをしていた。
「ふぁふ……どうりで眠かったわけだ……」
 その言葉の後、みどりはこてんとその場に横になる。目を瞑ったまま手を動かし、座布団を探り当てるとそれを枕にした。
「じゃ、わたし先に寝るからね……」
 俺も目が疲れて実は眠い。
 テレビの電源を切り、プレステを端に寄せて、掛け布団をとりだそうとして……
 はっと、顔をみどりに向けた。
「馬鹿! 自分の部屋で寝ろ―――って……早いな」
 聞こえてくるのは彼女の寝息だった。
 こめかみを押さえつつ、蒲団をかけてやる。
「……俺は、みどりの部屋で寝るのか?」
 呟いてからそれは不可能だと気づく。鍵を締めたとか言っていた。あれは自分の部屋のことを言っているのであろう。さらに、昼間財布を忘れたという事実があるので、そういうことに関しては厳しくなったはずだ。
「つまり……」
 そういうことに、なるのだろう。
 みどりは無防備すぎだ。純粋すぎる。無垢すぎる。そんな彼女の表情や動作や言葉や……すべてが心の中に居続けようとして……。
 逢ってから、たった一日だ。一日でなぜこんな気持ちになっているのだろう。
 この気持ちは……やっぱり……。
 もう、自分に素直になろう。認めてしまおう。
 俺は、みどりが……彼女のことが……好きに、なって、しまった。に………違いない……。
 好き、なのだろう。どうしようもないぐらい、どうにもできないぐらい。ずっと一緒にいたくて、ずっと見ていたくて、ずっと会話したくて、ずっと触れていたくて。
 小さくて幼く見える彼女は……俺の中でとても大きくて……。
 好きな人いないってのは、前言撤回……させていただきたいと、思います。
 モーニングコールをセットして彼女を一瞥した後、俺は床についた。
 ……俺って……いろんな意味でロリコンかなぁ……。

 

 

 

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