――――― ヨン ―――――
あれから数日が経った。
ほぼ毎日、午前十時頃あの病室に行き、宿題やテキストをやる。たまに休憩を入れて、そのときに天麻と会話をしたりする。紗枝の事がほとんどだったし、紗枝から話し掛ける事しかなかったが、最近では天麻の事も話すようになり、天麻から話し掛けるようにもなってきた。そして、午後四時ごろ、帰宅する。
それが日課のようになっていた。
勉強時間は、一日五時間という所だろう。たまにもの思いにふけてしまう時もあるので、実質は三、四時間かもしれない。でも上出来だ。家にいたら十分の一も出来ているかどうか。
一昨日は友達とプール行って、昨日は夏風邪でダウン。夏風邪は馬鹿がひくとか誰かが言っていたので、なにかしゃくだった。たぶん、寝ている間に冷えてしまったのが原因だったので、今日はとっくに回復。なのでいつも通り病院へ向かっていた。
夏休みも中盤を通り越し、残る所十五日ほど。
宿題はほとんど終わり、残る所は読書感想文と人権作文。
他の勉強もできて、宿題も終わっているなんてかつてあっただろうか?
紗枝はドアの前に立った。
ノックしようとして、動きを止める。
中から話し声が聴こえてきていた。
「……う…………なの……」
紗枝は周りを見渡して、誰もいないことを確認してからドアに耳を当てた。
「違……あんなの………だ」
「あら…うな……会って……みたいわ」
ドアの向こうから、天麻の声と女性の声が聴こえてくる。やっぱり声はよく聞き取れない。
「女?」
独りごちる。
「家族だよね……そうだよね……だって……ねぇ」
自分に言い聞かせるように言い、首を縦に振る。
今まで紗枝が来た時には誰も来なかった。なんでいるのだろうか?
首の動きが小さくなってきて、止まった。
紗枝は、ドアをノックして、返事を待たずにドアを開けた。
「あら」
一番先に声をあげたのは、その女性だった。三十半ばと言う所だろう。普通の女性だが、何か優しい感じのする女性だ。
「あの子が紗枝ちゃん?」
「うん。変わってるだろ?」
普通はノックしてから「入るよ」と言ってから入るのが筋だ。―――紗枝の場合は、それが筋じゃないのか。と、天麻は一人で納得した。
「天麻君の……お母さんですか?」
「ええ。いつもは夜来るのだけれどね……いつもあなたとすれ違いだったって、天麻に聴いたわ。今日はちょっと暇ができたのよ」
いったん口を閉じてから、紗枝を見る。
「可愛いじゃない」
「あ、有り難うございます」
紗枝は律儀すぎるほどお辞儀する。お母さんは微笑していた。
「天麻は、どう?」
「どうって?」
「つまり―――まぁ、天麻って他人には無口だから……」
紗枝は小さく、えっ、と声をあげてから、天麻を見やる。天麻は無関心を装い、マンガを読んでいた。同人誌系なのに何か嫌悪を覚えたが。同人誌系なんて、「同性愛者雑誌」と称しても何の違和感も無い―――。
とりあえず話を戻す。
「天麻君って……無口だったんですか?」
「前は大部屋に居たんだけどね…………天麻が辛そうで……」
天麻は、他の人と、視線すら合わせようとしなかったと言う。
「自分の空間作っちゃって……」
天麻が隣にいるというのに、こんな事を喋っていいのだろうか、と紗枝が疑問に思っていると、天麻が本を読み終わり、違う本に手を伸ばした。またどーじん……。人の趣味をとやかく言うつもりはないが。
「とりあえず、天麻はどう?」
「面白いですよ、格好いいし、彼氏にしたいタイプですね」
「あら、お世辞が上手いのね」
「でも……無口だったってのには、驚きましたけど……」
「そうね。あなたとは結構会話しているみたい……ね―――」
お母さんの目に、笑みが消えた。
「………………」
お母さんは何か言おうとしたが、俯いてしまった。
会話が途切れるのは一瞬だった。それに、悲壮に満ちた顔が見えたのも、一瞬だった。
言葉を頭の中で走らせても、言葉がでない。
―――今のお母さんの悲痛な顔。
それは、一気に記憶を逆流させた。
――――――――――『死』
そうだ、天麻君は――――――
ずっと一緒に居れる存在ではない。
押し殺していた。見ないふりをしていた。
怖いから、目の前からいなくなるのが怖いから。
「―――とりあえず、お母さん帰るわね」
お母さんはすっと立ち上がり、足早にこの場を後にした。
ドアが、妙に音を立てて開き、閉まる。足音が、ひどく耳に残る。
それは、紗枝と―――死を聴かされたときの紗枝と、酷似していた。
人の死から逃げた、紗枝みたいな、複雑な表情をして。
「大部屋を拒んだ訳」
天麻が、花言葉の本を手に持ちつつ、言う。
「え?」
「知りたい?」
天麻は紗枝を見据え、言った。
果てし無き深く、揺らぎもしないその瞳は、陽光と同じだった。
チョクシ、デキナイモノ。
人の目を見返せないときは、鼻か額を見ればいい。そうすれば、傍から見ると見つめ合っているように見える。
紗枝は、額を見た。
「―――紗枝さんも、結局逃げるんだ」
紗枝は、どきりとして、固まった。
「お母さんも、逃げる。他の人も、全員逃げる。誰も、俺の死を見てくれない。必ず逃げ道を探して、そっちを見るんだ。そりゃ逃避は必要だ。けどな……誰も、俺が死んだ時のことを、一秒たりとも考えない。空想ばかり見て、俺をろくに見ずに、逃げるんだ。今みたいに、俺の目を直視できない。それは、俺の死を受け入れたくないから、見たくないから」
紗枝は黙る。言っている事が、すべて的を得ているから。
逃げている。天麻の死から。末期ガンが治るなんて普通ありえない。ドラマやマンガや小説や、それらで治ることがあるが、それは奇跡とまぐれと偶然が重なって、さらにそこに幸運の女神とやらが降臨してこないと……降臨しても、難しい。
「誰も、俺の痛みを解かってくれない。解かろうともしてくれない」
何も、言えない。
逃げ出したかった。この場から。お母さんのように、現実から。
だが―――逃げ出して、何が残ろうか?
もう、この場所に、戻る事ができようか?
―――――天麻と、一緒にいることが、できようか?
紗枝は、震えながら、天麻の目を見た。
なぜか、震えは止まらなかった。逆に、増した。
「……初めて、かな」
天麻は微笑した。今までで、初めて見た笑い。
「こんな話してる時に俺の目を、直視した人」
「―――逃げたら、天麻君の痛み、解かれない……でしょ?」
「――――ほんと、変わりもんだな」
「自分でもそう思う」
いまだに、体は震えていた。極度の緊張が襲う。
「逃げたいもの。ここから。今すぐ。天麻君のこと考えなくていいような場所へ」
「―――まぁ、それが普通だろうな」
今までの、大人が、すべてそうだった。
「だけど、逃げたら、後味悪いでしょ?」
「やっぱり変わり者」
天麻の目は、いつもの目に戻った。紗枝は、緊張の糸が切れたように、ベットに腰掛ける。
「で、聴く? 大部屋」
「うん」
今度は、紗枝から天麻を見た。天麻は、逡巡することなく見つめ返し、言った。
「―――……一言でいうと、嫉妬だ」
「嫉妬?」
「そう、生あるものへの、嫉妬」
―――地獄だった。
あの和気藹藹としたところに、天麻の入り込む余地などなかった。
あの中に、死を見ているものなど、どこにもいなかった。
初めは入り込もうとした。だけど、自分が『末期ガン』と病名を告げたとたん、病室内の、自分を見る目が変わった。
―――同情、哀れみ。そして、逃避。
「大丈夫だよ」「治るよ」
と、声をかけてきた。なんか、当然の反応だと思いつつ、それらを聴いていた。
大丈夫なはずが無いのに、治るはずが無いのに、皆が皆、同じ言葉を発する。
―――だれも、自分の死を、見ようとしなかった。見ているふりでことを済まそうとしていた。
「だから、紗枝さんにはいろいろ驚かされた」
……死ぬの……怖くないの?
あんな事、訊かれたのは初めてだった。初めはちょっとむっとしたが、後から考えると、それが、望んでいた言葉だった。
部屋の者は、次第に自分に関わる事を避け、そして、自分は殻を作った。
「―――大部屋は、辛かった。何だか、哀れみの目で―――解かろうともしないのに、そんな哀れみの視線が注がれている所に、居たくは無かった」
紗枝と関わると、―――別れるのが辛くなるから、紗枝が去った時、悲しみたくなかったから。
「誰も死を受け入れてなかったけど、それが嫌だったけど―――」
天麻は、顔を下に向け、ベッドシーツを、掴む。ぎゅっと、ぎゅっと。
「紗枝さんと関わって、いろいろわかった。俺も―――自分の死から―――必至になって―――躍起になって―――逃げてたんだ――――――」
シーツに雨が降る。
哀しい雨だった。その粒は、宝石と見間違えるほど、陽光に照らされ、光っていた。
「天麻君……」
「ははは……なんだかなぁ……可笑しくてしょうがない」
泣いていた。自分の前で、初めて弱みを見せた。痛かった。心が、天麻との別れが近づいているという事を考えると、胸が締め付けられた。
「天麻君……私、どうすればいい?」
「……………………菊」
「え?」
「赤菊、まだ生けてあるから、とって」
紗枝は、その赤菊を手にとり、天麻に渡す。花は、凄く生き生きとしていた。今さらになって、この花を持ってきたことを悔いた。
「これ、俺の気持ち」
天麻は、紗枝にその赤菊を渡す。目も、赤かった。
「―――死ねと?」
「そう思ってくれても構わないけどな……」
「相変わらず、無愛想」
「そうか?」
二人は笑っていた。お互いに吹っ切れたように、何かを、待っていたように、大声で、笑っていた…………
………………紗枝の頬を、涙がぬらした。
天麻が笑んだのは、今日で、最初で最後だった。
HR
まぁ……こんなもんでいかがですか。
さぁ、5へ行きましょう。
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