涼宮ハルヒの憂鬱 二次作品。
涼宮ハルヒ
の
忘失
異変に気づいたのはいつも歩いているらしい延々と続く山道のような通学路――むしろハイキングコースを秋だというのに薄く汗をかきながら登りきったときだった。秋といっても小笠原気団が駄々をこねているらしく湿気の高いぐずついた曇天が続いており、オホーツク海気団とシベリア気団が困惑しているのが手に取るように解る。まあ俺は揚子江気団が大好きなんだがと、告白を全世界に向けて発信したところで朴念仁な雲が吹き飛んでくれるわけでもないし、当然ながら異変が収束するわけはなかった。
その異変に対する違和感は今日の朝、妹のダイビングエルボーを食らい目覚めたときから確かにあったのだが、今朝はいつにも増してぼんやりとしていてその違和感について追及している状態ではなかったので、猫に餌をやって朝食もそこそこにいつも通りの行動をとって家を出た。頭の回転がゼンマイの切れかけた時計のようにゆっくりとしていて、どこをどう歩いたかは覚えていない。
「よっ、キョン。昨日のテレビ見たか? あのお笑い芸人にドッキリ仕掛けるやつ。芸人だけにドッキリをかけるのかと思いきやそれは前置きで、本当は司会者に対するドッキリだったってのが驚きだよな」
と誰かが話し掛けてきたところで我に返り、俺が坂道を登っていることに気が付いた。スーパーボールが跳ねるが如く元気よく話しかけてきたのは俺と同じ制服を着たオールバックの男だ。
「驚きといえば昨日の夕方ごろ停電もあったよな。原因は雷らしかったんだけどよ、それがちょうどゲームしてたところでさ」
「データがとんだってことか?」
「そう、ニ時間分のデータが吹っ飛びやがったんだよ! それだけじゃなく見てくれよこのたんこぶ。暗い中で動いたらコードに引っかかって俺に助けを求めにきたかーちゃんと正面衝突しちまっていてーのなんの」
朝っぱらで憂鬱な坂道を登りながら、爽やかとは程遠い空の下でよくテンション高くいられるな。
この坂道を踏破するのに十秒チャージ二時間キープのゼリー何個分必要かを考えながら黙々と歩いていると、
「どうしたキョン、今日は調子が悪いのか」
「調子は悪くないが、気分は悪い」
「なんだそりゃ」
俺も知りたい。体の調子が悪いわけじゃないのに心のどこかにずっしりと漬物石みたいにのしかかっている違和感があるのだ。
「そうか大変だな」
そいつはさも他人事のようにアイボにも劣る感情の少ない口調で心配してくれた。そんな同情いらん。
そいつが垂れ流す架空の彼女と行きたいらしいデートスポットトップテンを聞きながら、俺は違和感について真剣に悩んでいた。その真剣さといえば日本刀を作り出す刀工もびっくりの真剣さだ。
トップワンの情報に差しかかったところで学校が見えてきた。公立の金が掛かってないしがない校舎だ――。
そういえば、隣を歩いている男の口調は知り合いあるいは友人に話し掛ける類のものである。しかもそこそこ仲のよい関係で、少なくとも毒舌オカマ双子ように犬猿の仲ではなさそうだ。
彼は俺を知っている。でも俺は彼を知らない
「ええと、お前の名前なんだっけ?」
「キョン、ついにボケが始まっちまったのか? 谷口だよ、谷口」
冷や汗が噴出し始めた。
「谷口、俺ら友達……だよな?」
「なっ、どうした? いきなり気持ちわりぃ」
眉をひそめた谷口を傍目に、俺はようやくこの違和感の正体に気づいた。
自分の年齢からしてどこかの高校に入っていることは然るべきだし、自分と同じ制服を着ている隣の男がこの高校の敷地に入ろうとしていることから俺もここの生徒であるはずなのだが、入学してから秋までの期間に、この学校で自分が誰とどんな友人関係を築いていたのか、どんな部活に入っていたのか、どんな青臭い青春を謳歌していたのか――何をしていたのかをこれっぽっちも思い出せない。
愕然とした。俺はこの高校に関するすべての記憶を失っていた。
自分がどこのクラスに所属しているのかも忘れていた俺は、谷口の後をそれとなく追い一つの教室に入った。問題なく入れたということは俺はこのクラスの一員だということだ。俺がいつも別のクラスに遊びに行くという人間だったら油断できないが。
「おはよう、キョン、谷口」
中学生からの知り合いである国木田が話しかけてきた。おや? 俺は国木田のことを知っている、つまりここで一つ重要なことが解る。中学までの記憶は現存しているということだ。
おそらく友人らとの会話もそこそこに訊ねる。
「俺の席はどこだっけ?」
「やっぱボケてんのか?」
谷口が哀れんだ目で見たが今は気にしない。国木田が丁寧に席を教えてくれた。俺の席は窓際後ろから二番目という絶好の昼寝ポイント。記憶を失う前の俺はくじ運がなかなかよいらしい。ここが俺のクラスだということに安心しながら席についた。
さっそく学生カバンを開けて適当な教科書を取り出す。数学の教科書を開くと――授業中に何度も睡魔に襲われたのかシュレッダーに飲み込まれた紙のように知識が途切れ途切れだが、昔のお偉いさんが作った公式に見覚えはあった。つまりなるほど、この記憶喪失は甘酸っぱい青春スクールライフの部分だけが削られているとみたほうがいい。
それにしても俺はずいぶんと落ち着いているな。記憶を失うなんて即刻病院行きになってもよいのに、殺人現場慣れしちまった頭脳は大人以下略探偵のように平常心を保てている。記憶を失う前の俺は奇怪な状況に場慣れしてたってことになるが、だとしたら中学の漫然とした日々と違って奇抜な人生送ってんだな、俺。
窓の外を眺めながらこの根拠のない安心感はどこから湧き出るのだろうと考えていると、俺の後ろの席がガタリと揺れた。クラスメイトのご到着ってことか。席が近所なんだから知り合いなんだろうが、しまったな、当然名前が解らん。クラス名簿でも見ておけばよかった。
挨拶ぐらいしておくかと首をひねると、えらい美人がそこにいた。なぜか憮然としているが。
大きな目に均整の取れた顔立ち、髪の長さは肩に届くぐらいだろうが、後ろで一つに縛っている。ポニーテールにしたいのだと思うがこんな短い髪で結ってもちょんまげが垂れたようにしか見えないのが残念だ。――それよりそんな不機嫌そうな顔してたらせっかくの美人が台無しだぜ。まあ口には出さないが。
どうして憮然という言葉が今回のように間違った用法で使われるようになったのか考えながらそいつを暫く眺めていると、
「何よ」
不機嫌な表情がそのまま声になったようだ。知ってるか? しわってのは仏頂面を続けてるとリアス式海岸もびっくりの造型になってしまうんだぞ。
「どうでもいいわよ」
「老いてから後悔するぞ」
「うるさい」
フィヨルド確定。
いまさら挨拶するのもはばかられるので、そいつの顔を傍目に前を向いた。
やべ、重要なことを確認するのを忘れてた。俺は慌ててもう一度振り返る。
「なあ」
「なに」
ムスっとしているやつに言ったら殴られそうな言葉だが訊いておこう。至極単純ストレートなその疑問。
「お前さ、俺の知り合い?」
そいつの目がまん丸に見開かれて、一瞬寂しげな表情を向けた後、目を吊り上げ般若のような顔になった。反応からするとこいつと俺は知り合いかそれ以上の関係であったことはうかがい知れる。それにしても見てて飽きない一人百面相だな。スライドショーにしたら少なくとも俺は笑ってやる。
ちなみに、予想通り殴られた。
友人との会話とは適当な相槌を打つだけだし、授業の知識は覚えていたので拍子抜けするほど普通のスクールライフを送れてしまい、光陰が矢も驚くほどの早さで放課後になってしまった。
後ろの女は休み時間ごとに消えて、放課後になるとまたすぐに姿を消した。不思議なヤツで興味もあったが、わざわざ首を突っ込んでさらに厄介ごとを背負うのは馬鹿らしいだろうと、朝以降声は一度もかけなかった。
相変わらず一抹の不安も覚えないという奇怪な精神のまま帰ろうと思ってると、谷口が話しかけてきた。
「おっ、今日は帰るのか?」
今日は? ってことは俺はこの気だるい放課後にいつも足しげく通っている場所があるということか。それは一体全体どこなんだ?
「どこって、今日は本格的にボケてるな。いつも文芸部? の部室にいりたびってるじゃねーかよ」
この俺が文芸部だって。いったい何のために?
「いつもドンちゃん騒ぎやってんだろ? ま、俺は帰るから、じゃあな」
俺のたぶん友人は帰っていった。これから文芸部室に行けばいいってことは解ったが、それからどうすりゃいいんだろうな。文芸部でドンちゃん騒ぎってどういうことだ。誰か知っていたら教えてくれ。
最近家にハードカバーの本があると思ったらそれが原因なのかと歩いていると文芸部室にたどり着いた。
コンコンとノックをしたが何も返ってこないのでそっと扉を開けてみる。半開きの状態で部室を覗き、まず初めに目がついたのは脇のほうに積まれている大量のノートパソコンだった。最新型っぽいノートパソコンが隅に追いやられてるなんて、関係ないが出る杭は打たれるという理不尽なことわざを思い出した。更に扉を開けると大量のハードカバーがひしめいている本棚に、壁にかかったメイドとかナースとか妙にマニアックな大量の服、学習机の上に載っているデスクトップパソコンと団長と仰々しく書かれた三角錐を見つけた。ここは文芸部とコスプレ部と応援団か混合してるのか? それになんとなく部屋が散らかっていた。といってもゴミの類いが散乱してるわけではなく、本来は中央にまとまっていそうな学習机たちが強く蹴っ飛ばされたのか、ビリヤードのブレイクショットでも受けたかのようにばらばらになっている。誰だか知らないが直しておけよな。
完全に扉が開いた。俺は一瞬ぎょっとしてしまった。誰もいないと思っていた文芸部の隅っこに、分厚いハードカバーの本を広げた髪の短い女子がどこにでもあるパイプ椅子にちょこんと腰掛けていたのだ。眼鏡でもかけてりゃ文芸少女に見えるが、俺に眼鏡属性はないのでこっちの方がいいな。
この部屋の住人である少女に対して、この部に所属している俺が顔見知りでないわけはない。雰囲気的に同学年、ということで、俺は笑顔を作って手をあげて軽快に挨拶することにした。
「よっ」
「……」
返事はない。ただの屍のようだ。俺は笑みを浮かべたまま固まるしかなかった。
振り上げた友好の手はどこに下ろせばいいのだろうね。誰かが手を差し出してくれたら涙を流して手を取るぞ。
石像になっていたら、だしぬけに無表情の少女が首を動かし俺を見た。闇ガラスのような瞳に見つめられびくりとしてしまう。
「長門有希」
少女が喋ったのはいいとして、主語はなんだろうね?
「お前の名前か?」
長門有希という少女はナノ単位で首を縦に動かした。それだけで、また沈黙の妖精がひらひらと踊りだす。頼む、黙ったままならせめて目を反らしてくれないだろうか?
この無口な少女とこの部室でたそがれてなくちゃいけないのかと悩んでいると、長門有希がゆっくりと口を開いた。
「時空断裂性記憶忘失症状」
何だって?
「時空断裂性記憶忘失症状」
繰り返されても困る。俺の名前はそんなんじゃないし、あだ名はおばがつけて妹が定着させたキョンだ。
阿呆面の俺を無視して長門有希は話を先に進めた。
「昨日夕方に涼宮ハルヒの錯乱が確認された。その脆弱になった抑制力の状態で見た夢が引き金になり改変能力が微量ながら放出され、あなたの時空にずれが生じ局部記憶の忘失に至った。ただし不安定な改変であるために時空断裂性記憶忘失症状は一過性のもなので無闇に干渉しこれ以上時空を乱す必要はないと思われる」
「待ってくれ」
狼狽したまま俺は言う。
「正直言おう。お前が何を言ってるのか、俺にはさっぱり解らない」
長門は少し困ったような表情をして――ほとんど変化していない表情の奥にある感情をを読み取れた俺はこいつと相当親しかったんだな――告げた。
「記憶の障害はもうすぐ解消される。安心していい」
「これは治るのか?」
「大丈夫」
長門有希はひとしきり言うとまた読書に戻ってしまった。何が大丈夫なのか解らんが、こいつに大丈夫と言われたら根拠のない安心感が二乗にまで膨れ上がったのは確かなので、ひとまず喧嘩してる机たちを仲良く並べた。さて何をしよう。本を読むのも億劫だったので団長席においてあるデスクトップパソコンをいじくることにした。
っと、電源コードが抜けてるな。しかもプラグがあらぬところに吹っ飛んでいる。机といいパソコンといい、物は大事に扱うべきだぜ。まさかこの大人しそうなこいつが狼藉を働いたんじゃないよなと長門を見た瞬間、一つの疑問が思い浮かんだ。
どうして長門有希は俺が記憶喪失だということを知っていたんだ? 正式名称、時空断裂なんとか症状だということを誰かに話した記憶はないぞ。俺はもしかして時空断裂なんとか症状と同時に先天性R型脳梁変成症(サトラレ)にもなってしまったのか?
長門に訊ねようとしたら扉がノックされた。おいおい、タイミングよすぎるだろ。
他の部員でもやってきたのかと思い、どうぞと告げると扉が勢いよく開く。
「やっほーキョン君、長門っちお久しぶり〜」
空を覆っている雲が一斉に吹き飛んでいきそうなハイテンションで女子が侵入してきた。さらっとした長い髪をもち、時期はずれだが向日葵のような笑顔をしている。
「キョン君こんにちは」
その後ろから一人女子が入ってくる。今の女子とは対照的なおしとやかで気の弱そうな美少女だ。小柄で童顔な彼女は下手したら小学生のように見える。ゆるくウェーブのかかった栗色の髪が童顔に似合わない大きさを持つ胸の上に乗っかってるのは犯罪ですね、俺はちょいとくらりと来てしまいましたよ。
「おっとキョン君、あたしの許可なしにみくるを見つめちゃダメだよっ。何たってみくるは全校生徒のアイドルなんだから、ボディガードのあたしを通さないと指一本触れさせないのさっ。だからあたしは触り放題なんだけどねっ」
「つ、鶴屋さんち、ちょっと、ひゃぁ!」
鶴屋さんらしき人がみくるさんらしき人の体をまさぐり始めた。可愛い声をあげるみくるさんと、楽しそうに悪代官を演じる鶴屋さんらしき人。絡み合う美少女と美少女、すこぶるよろしい。
さて、この人たちは同学年なのか先輩なのか。鶴屋さんは先輩っぽいのだが、みくるさんは先輩と呼ぶには童顔すぎる。悩んでいても仕方ないので話しかけるときは敬語にしよう。変な顔されたらタメ口にすればいい。残る懸案事項はみくるさんの苗字だ。いくらなんでも記憶を失う前の俺は、こんな麗しき女性を下の名前で呼ぶほど節操なしではなかったはずだ。解るまでは呼ばないようにしよう。
「ところでキョン君、ハルにゃんはまだかい? 古泉くんもまだみたいだね」
鶴屋さんはみくるさんをいじくりながら言った。ハルにゃんって誰だ? 古泉って誰だ? とりあえずここには長門と俺しかいなかったのでまだですと答えておいた。
「そっかー残念。実はハルにゃん好みの子を連れてきたんだけどねっ」
ハルにゃん好みとはどんな子なんだ? どこにいるのかと探してみるとそいつは俺の目の前にいた。いや、足元にいた。容姿は鶴屋さんに似ているのだが身長は俺の足の長さもない。全身から辺りを脱力させるオーラを放出していて、何かを一生懸命はむはむと食べている。何食べてるんだろう。スモークチーズ?
そいつがスモークチーズを食べ終わると、俺のズボンの裾をくいくいと引っ張った。
「キョンくんキョンくん、スモークチーズはあるかい?」
「……さっきもう食べたでしょ」
ソレはにょろーんと不可解な擬音とともにしょんぼりしてしまった。なんだか愛玩動物を虐待してしまったみたいで非常に後味が悪い。肉食の動物愛護団体よりは確実にタチが悪いぜ。
「鶴屋さん、これ誰なんですか?」
ていうか人間なんですか?
「ちゅるやさんだよっ。あたしの分身なのさっ」
鶴屋さんはみくるさんを解放し、自らの分身ちゅるやさんを抱きかかえた。分身だけあってすっげぇ雰囲気が似てる。ここはあえて分身って何です? と訊くような無粋な真似はしない。それが美学ってもんだ。
「この子めがっさかわゆいっしょっ。みくるには敵わないけどねっ!」
俺もそう思います。
鶴屋さんに体を弄ばれてしまいすっかり顔を赤くしているみくるさんは俺に可愛らしい包装が施してあるプレゼントをくれた。手作りクッキーとかだったら俺は嬉しくて卒倒してしまうなとウキウキしながら包装を解くと、スモークチーズだった。予想してたけどね。
「この子はスモークチーズが好きなんですよ」
みくるさんに言われるまでもなく解る。ちゅるやさんにスモークチーズを渡すと「キョンくんありがとう」と言われた。なるほど、こういうのがシュールレアリズムってヤツか。
「本当はこの前の文化祭のときにも連れてきてたんだけど、あたしも忙しかったしハルにゃんも文化祭を満喫してたみたいで会わせる機会がなくてさっ、せっかくだから今日ハルにゃんに見せようと思ったんだけどいないなら仕方ないかなっ。今日はちゅるやさんがいるから早く帰らないといけないからねっ。今日がダメでもまた機会はあるだろうから、残念だけどあたしはこれで帰ることにするさっ。みんなじゃあね!」
鶴屋さんは一方的にまくし立てるとちゅるやさんを抱えて立ち去った。スラム街ですら天国のような雰囲気にしてしまいそうな底抜けに明るい人だったな。ああいう人間が全世界に分布してれば世界はもっと明るい話題に包まれるんだろう。
それにしても鶴屋さんはこの部活のメンバーではないのか。キュートなみくるさんは部員っぽいので、思わずやに下がった顔になってしまうのは男として当然だろう。
男という生物の罪深さをジャンセニズムに則して考えていると、
「そういえば、キョン君は昨日何時ごろに帰ったんですか?」
みくるさんの可愛らしい声とは裏腹に俺は固まってしまう。さあ、何時なんでしょうね? 記憶を失う前の俺に聞いてください。
話せれば楽なんだろうがなんとなくこの人には心配をかけたくないので、可能な限り場に適した言葉を模索する。
「ええと、ちょっと遅くなりましたが、無事に帰れました」
苦心して搾り出した台詞はなかなか高評価、みくるさんは納得してくれたようだ。
「停電したときまでいたんですか? 何かパソコンで作業してたみたいだから大変じゃなかった?」
停電、そういえば朝に谷口もゲームデータが吹っ飛んだとか何とか言ってたな。もし俺がその時間にパソコンで作業していたのなら当然データが吹っ飛んで大変なことになっているに相違ないのだが、残念ながら昨日の記憶は谷口のゲームデータと同じくありませんでして。なんて答えられるわけはなく話題の矛先を変えてしまうことにした。
「そちらはどうでしたか? 停電して大変だったことありました?」
「わたしは大丈夫です、家でくつろいでただけだから。ちょっと怖かったけど」
怖いなら俺がいくらでも抱きしめてあげますよ。みくるさんのためならブラジルにいようと海の上走ってでも駆けつけます。
このあと二言三言会話をして一段落した。停電の話をダストシュートに放り込んだ俺の話術も捨てたもんじゃないね。
このあと何をしようかと思案しているとみくるさんは壁にかかっているコスプレ服――どう見てもメイドの服がかかったハンガーを取り出した。まさかこの天使のように愛らしいみくるさんがコスプレイヤーだったとは! 俺の周りの世界は確実に芳しいことになってるな。よくやった、記憶を失う前の俺。
「あの、今から着替えるんで、その……」
「はい」
喜び慎み外で待機させていただきます。
部室の外でみくるさんのメイド服はどれほどの破壊力を持つのかと妄想していると、人気のない部室棟に足跡がひとつ聞こえてきた。首を向けるとそこには人畜無害な笑みを浮かべたさわやかなスポーツマンみたいな容姿を持った男子生徒が立っていた。
「朝比奈さんが着替え中ですか?」
訳知り顔で話しかけてきたからにはこいつはここの部員なんだろう。だとしたら部屋の中で着替えているみくるさんは朝比奈さんという苗字で、朝比奈さんが着替えているときに俺らが部室の外で待機するのも日常茶飯事だということになる。我ながら頭を使ってるね。男の質問に「ああ」とだけ短く答えた。なんとなくこいつには敬語を使う必要はなさそうだ。
さて、こいつの名前はなんだろう。今まで出てきた名前で、誰の名札にもなってない男の名前といえば、
「なあ古泉」
「なんでしょうか?」
「いやなんでもない」
こいつの名前は古泉か。これだけ解ってくれば記憶がなくても日常生活に支障をきたすことはなさそうだ。あとの気がかりはハルにゃんの正体と俺が昨日の放課後に何をしたかだな。だがこの話題を回避できればあと数時間で記憶が戻る。それまでの辛抱だ。
「ところで昨日の仕事は終わりましたか?」
さわやか好青年め、いきなり本題か。朝比奈さんや古泉が訊ねてきたからには昨日の仕事はとんでもないものだったんだろうな。
「われわれは半ば追い出される形で部室を後にしましたが、涼宮さんは映画を成功させてそのあとコンピ妍に勝利したことでご満悦だったはずなので、かなり無理なことを要求されたのではありませんか?」
知らん。ていうか涼宮さんって誰だ?
「しかし今日の涼宮さんはどこか不機嫌そうな顔をしていました。僕が推測するにあなたが何かをやらかしたと考えるのですが」
何かやらかしたなら記憶がこのままでいい気もするけどな。
「ただしその場合あなたが一切動揺していないのが解りません。だんまりでいるのをみると涼宮さん待ちということでよろしいでしょうか?」
話が一切読めないが勝手に勘違いしてくれるのは助かる。どうやら古泉は自分の考えを喋るのが好きなようだ。
「まあ、涼宮さんはその功績を全世界に広めようとしていた、あなたにパソコンの操作を強制していた、この二点からだいたい想像はつくのですが、僕は楽しみに待っていますよ」
女性なら多少惹かれてしまいそうな爽やかな笑顔を俺に向けた。あいにく俺は男だがな。
「なあ古泉、聞きたいことがあるんだが、その涼宮は――」
古泉がおやと声を上げた。
「珍しいですね。いつもは彼女のことをハルヒと呼んでいるのに、何か心境の変化があったのですか?」
新しい玩具を見つけたような興味津々な瞳を向けるな、単に記憶がないだけだよ。にしてもそういうことか、ハルにゃんはハルヒで、涼宮ハルヒということだな。そいつがどんな女だか知らないが、鶴屋さんが連れてきた摩訶不思議なちゅるやさんを気に入りそうな性格で、昨日は俺をこき使うという暴挙を犯したやつだ。きっと国会の牛歩戦術を思いついたやつのようにろくでもない性格に違いない。
「で、そのハルヒだが、今日は何時ごろにここに来ると思う?」
「詳しくは解りません。いつもならそろそろでしょうけど、たまにこない日もありますから」
どうしてそんな質問を? と訊きたそうな表情の古泉だが、俺はそれ以上何も言わなかった。俺だって納得できねーよ。特別な理由はないけど強烈に気になってしまったからなんてな。
間もなく扉の向こうから朝比奈さんのどうぞという声が聞こえた。朝比奈さんのメイド姿を拝めるなんて俺は世界一の幸せもんだ。見る前から満足していた俺だが、本物の朝比奈さんを見てさらに歓喜したね。紛うことなきメイドさんがいた。エプロンドレスを着込んだ朝比奈さんが俺の荒んだ心を癒してくれる笑顔で迎えてくれたのだ。世界中のメイドと朝比奈さんメイドとどちらを取るかと問われたら、わざと迷ったふりをして朝比奈さんを心配させてから颯爽と朝比奈さんを選ぶ。
「あ、あのそ、そんなに見ないで下さい」
頬を染めた朝比奈さん。無茶苦茶可愛い、これで見ないって方が無理あるだろ。古泉だってそう思うよな?
「確かにそう思いますが、毎日過剰反応しては疲れてしまいますよ」
どうやら朝比奈さんはこの部室専属のメイドらしい。朝比奈さんが入れてくれるお茶ならどんな安茶葉でも玉露並みの喜びを得られそうだ。
長門が相変わらず部屋の隅で読書を続けていた。朝比奈さんはお湯を沸かし始め、古泉が変なものを取り出した。
「バックギャモンやりませんか?」
「ルール知らんぞ」
「僕も触った程度です。ルールブックを見ながらやりましょう」
この部活、少なくとも応援団ではなさそうだな。
朝比奈さんが用意してくれたお茶は玉露をはるか通り越して甘露だった。そして古泉は自分から勝負を挑んできたくせに実に弱かった。
「それにしても涼宮さん来ませんね」
バックギャモンを片しながら古泉が言った。
俺はふと団長とマジックペンで書かれた三角錐が鎮座している机を見た。多分、恐らく、きっと、何となく確証を持って言えるが、そこに涼宮ハルヒが座るのだろう。自ら団長を名乗るなんて、自己顕示欲は人並みはずれて強そうだ。
そういえば先程パソコンを起動させようとして放置していたことを思い出し、抜けたままのプラグを差し込んで起動ボタンを押した。パソコンが立ち上がりデスクトップが表示される。そして気になるファイルが二つ。『朝比奈ミクルの冒険 エピソード00』『SOS団と準団員による調印書』。さらに『mikuru』と書かれたフォルダがあり、これも興味深い、電光石火でダブルクリックさせてもらう。パスワード入力画面が出てきたのでいつもどおり入力すると朝比奈さんの麗しい姿が収められた写真が何枚も現れた。
これはいつ見ても目の保養になるね。目の前で働いている実物も当然ながら、写真の限られた枠組みの中から今のも動きそうな朝比奈さんのメイド姿も素晴らしい。昨日も作業してたときにこのフォルダ開いて疲れを癒してたってもんだ。ただハルヒにばれそうになって焦って消そうとしたときに運が良いのか悪いのか――。
「って、記憶戻ってるじゃねーか!?」
さすが朝比奈さん、俺に降りかかる邪気を一瞬にして振り払ってくれるなんてな。
にしても今まで記憶を失っていたというのに情緒もへったくれもない記憶の戻り方だな。ハルヒのヤツもこんな中途半端な改変するぐらいだったら一年間丸まる改変しちまうようなとんでもない事件でも起こしてくれた方がつっつきがいがあるってもんだ。
さてどうするかな。朝っぱらに知り合いか? なんて訊ねちまったから余計に気まずい。だいたい昨日のあれぐらいで記憶操作行うか? そういや長門は夢が引き金とか言っていたような気もするがそんなことは関係ない。羞恥心があるのはいいが周りに迷惑をかけるようなことはしないで欲しいね。客観的に考えればあれはお約束の部類であってそこまで動揺するもんじゃないだろ。
いやな、俺も動揺したといえばしたんだけどな、どうせ事故だろ。
冷静になったところで顔を上げると、叫んだから当然だな、朝比奈さんと古泉の視線が俺に集中していた。長門は相変わらず読書タイムだが、こうも注目されたら記憶喪失だったことを隠しきれそうにない。自業自得だ。
「長門、ハルヒがどこにいるか解るか?」
長門は顔を上げずに答えた。
「部室棟の階段」
もう少しで部室に来るってことか。ここで顔を合わせるのもきついな。
「あとで説明します」
慇懃に、特に朝比奈さんに向かって言うや否や部室を飛び出し階段に向かって走り出すと、数メートルも走らずにハルヒと鉢合わせした。唐突に出現した俺に目を丸くしたハルヒだがすぐに不機嫌かつどこか拗ねたような面になる。朝も言ったろ、そんな顔してたらインド人もビックリな致命的なシワが残るぞ。
「なに、あたしに用があるの?」
ハルヒはじろりと俺を睨みつけた。朝からずっと俺が他人行儀だったのが災いし、根は日本海溝より深くなってるようだ。チャレンジャー海淵にならないうちに事態を収束させようと次の言葉を模索する。
「あー、あれだ。昨日は事故とはいえ悪かった。それに、要領は得たしパーツはそろってるから今日中にホームページの更新は行う。まさか二日連続停電が起こるわけもないだろうし、明日には他のやつらを驚かせることができるだろうさ」
今まで殺伐としていた雰囲気が一変した。ハルヒはいつもの強気な口調で、
「そんなの当たり前でしょ。だいたい決心するのが遅いのよ。殊勝な団員なら昨日の夜にでも携帯で土下座ばりの誠意を見せるべきね。まあ、あたしに言われる前にやるって言い出したのは点数高いわ。そこは褒めてあげる」
ようやくハルヒらしいハルヒになった。まったく、感情の起伏が激しすぎるんだよ。さて、あと一つ言うべき言葉があるんだが、どうしようね。
「まだ言いたいことがあるの? あたし今日はもう帰るからその旨を伝えにきただけなのよ。キョンが来たならあたしが部室まで行く必要はないわね。帰りたいから用があるなら早くして」
帰るなら好都合か。他の団員に説明もしやすいし、この台詞も言いやすい。
「ええと、ハルヒ」
辺りを見渡し誰もいないことを、特に文芸部室の扉が閉まってることを確認し言った。
その髪型、
「似合ってるぞ」
一人部室に戻った俺は、朝比奈さんと古泉に事のあらましを説明することになった。それは昨日の朝っぱらからハルヒのテンションが高く、どうせろくなことを考えてないんだろうなとの俺の予想を裏切ることなく二百パーセント増量スマイルを浮かべながらのたまったことから始まる。
「映画作成の大成功、さらにコンピ研との死闘で勝利を収めたあたしたちの功績を世に知らしめるべきじゃない? あたしたちの偉業を公開してくださいと言わんばかりに情報化社会が確立されてるんだから!」
別にお前のためだけにインターネットが普及してるわけじゃないぞ。
「似たようなもんよ。それじゃ一両日中にやりましょう!」
誰が? 具体的に何を?
「やるもの考えるのもキョンに決まってるでしょ。でも考えるのはあたしもやってあげるわ!」
居残り確定。俺の反論を聞き入れてくれるほどハルヒの耳は良くないのさ。
やることは陳述するだけなら単純で、作成した映画のPR動画をHPに公開し、コンピ研と結んだ調印書を部長同士の拇印付きでアップ、二つだけである。
後者だけならデジカメで調印書を撮影すればよかったが前者はそうもいかず、映画をさらに編集して五分ほどに縮めなくてはならなかったり、テロップをいれようとかそれ以前に気にくわないとか、ハルヒのわがまま節が炸裂して長時間労働を強いられることになった。
朝比奈さんの茶を飲みながら作業できればこの苦行も耐えられようが、部室には俺とハルヒしか残っていなかった。ハルヒは他の団員を驚かすからと提案しくさってからに、他の部員は早々に帰宅してしまったのだ。
映像の切り張りは結局俺だけが行うことになって、どうせハルヒはまた寝るんだろと思っていたが今回はきちんと起きていた。
「終わりそう?」
「際どいところだな。お前が手伝ってくれるならもっと早くできそうなもんだが」
「まあ、ゆっくりでいいわよ」
手伝えよ。
で、空は秋の日のつるべ落としを実践しあっという間に暗くなった頃、PR動画がほぼ完成にまでこぎつけたので、俺は疲れを癒すために『mikuru』フォルダを開いて安らぎを得ていたんだが(この部分は朝比奈さんには話さなかったが)、突然親の敵でも討つのかというぐらい激しく雨が降ってきやがって、ハルヒが窓際に寄ってきたわけだ。
『mikuru』フォルダを消さなくてはと急いだのだが間に合いそうになく、見られた後どうやって切り抜けようかと考え、むしろ諦めの境地に入ったところで一閃、雷がここら一帯の電力を奪い尽くした。
やっつけ仕事だったのでろくに保存をしておらず、俺は一人暗闇の中で愕然するしかなかったという事態に見舞われたわけだ。
で、俺はそのまま帰っちまったから、ハルヒはイライラしてたんだろうよ。それが原因で嫌な夢を見て、何の勘違いか俺の高校生活の記憶をばっさり切ってしまったということだ。
「ふぁー、そうだったんですか」
可愛らしい声を上げたのは朝比奈さん。俺の的を射ない説明に納得してくれたようでなによりです。
対して古泉はなにやら思案顔になっている。今回は俺だけの問題だから、お前がこれ以上何か考える必要はないんだぞ。神人とやらも発生しなかっただろ?
そんなこんなで今日の騒動は終わり。鬱陶しい野球や延々と繰り返す夏休みや突飛な映画撮影なんかと比べたら世界中の誰もがうらやむ普通の一日が過ぎ去ろうとしていた。
この記憶喪失で解ったことは、俺はやはり変な団体に属してしまっているのだということと、それは案外楽しいことだと再確認できたことだな。
俺は今日の仕事、HP更新というたるい作業を思い出し、長門の石よりは柔くなってきた無表情を眺め、朝比奈さんの献身的で心癒されるようなメイド姿を堪能し、古泉の真面目な顔つきを一瞥した後、ここで言わなきゃどこで言う、それを呟いておくことにした。
やれやれ。
以上、大団円。
まあ大半の読者が解ってると思うが、そうとは問屋、おもに古泉が申さなかった。
「一ついいでしょうか?」
古泉は俺だけに聞こえるように小声で言った。このときばかりは古泉を恨んだね。お前は大団円のどこが不満なんだ? 謎なしオチなしで素晴らしい一日の終わりじゃないか。
「涼宮さんがあなたの記憶を奪った、それはつまり、昨日涼宮さんがあなたに忘れて欲しい出来事があったはずです。しかし今の話を聞いてると、最近の大人しくなってきている涼宮さんにしてはあまりにも異常です。いくら涼宮さんでも停電というアクシデントがありあなたのやる気がなくなったのを理解できたはずで、それぐらいのことで涼宮さんが取り立て文句を言うとは思えないのですよ。HP更新をそこまで急いでいたわけでも無さそうでしたからね。そしてそもそもあなたが先に帰ってしまったという行動が不可解です。喧嘩別れをしたならともかくその様子も見られない、だけど涼宮さんはあなたの記憶を無意識のうちに奪った。さて、どうしてでしょうか」
訊くな、それは訊くな。
「例えばそうですね、あなたが先に帰ってしまった辺りの話はでっちあげということが考えられます。邪推でありお約束感がありますけれど、部室に二人きり、暗闇という状況を考えてみて、まず思いつくのは――」
「解った、説明する。痛くもない腹を探られても不愉快だからな」
「本当に痛くないんですか?」
古泉は爽やかな笑みを浮かべた。ああ、本当は痛いさ。いまいましい。
昨日の出来事、追加説明。別段、複雑なことはない。
停電し真っ暗になった部屋の中で俺が「データ吹っ飛んだかもな」と呟いたらハルヒが「電力会社に直訴してくるわ」と無謀なことを言い出しやがったので止めようと立ち上がりハルヒの腕を掴んだ瞬間、ハルヒの体が崩れ――そのときは気づかなかったがパソコンの電源コードに突っかかったのだろう――机の集団に突っ込むところだったので俺は慌てて腕を引っ張ったわけだ。慌てていたせいか俺のバランスも崩れてしまい二人ともども机に突っ込むことになったが、何とかハルヒの頭は死守することができた。でだな、ほら、そういうことだ。
もういいだろ? これ以上の説明は体を固定され額に水滴を落とされる拷問よりつらい。『お約束』ってやつだよ。しかも一番軽いやつで、電気が復旧した後ハルヒが脱兎の如く部室を去って終わりさ。言っておくが事故だぞ、トラウマの再燃だぞ、俺が望んだわけじゃないからな?
どうせなら忘失したままの方が恒久的永続的、俺的に平和だったのさ。
「そういうことにしておきましょうか」
ええい古泉、ポタージュが冷めたような目で俺を見るな。お前のニヒルで爽やか笑顔を見てるくらいなら、オスの三毛猫なみの稀少価値を誇る、真っ赤になったハルヒの顔を思い出したほうが幾ばくか有意義なんだよ。
HR
冬コミに載せた原稿だいたいそのままUPです。
後半は手抜きです。古泉出て来た辺りからやるきがなくなったためこんな結果になりましたとさ。
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