7 第二章

 旅に出てから四日目の朝。静寂を掻き分けるように、レイセリーティアはぼんやりと上体を起こす。
 日が昇っている気配はなく、朝と呼ぶにはまだ早すぎるかもしれないけれど、彼女にとってはもう朝だった。
 最近は眠りがとても浅い。旅路で疲れているというのに眠れないのだから、日に日に体は疲弊していた。だけど今日も、暴走している魔力を整えなくてはいけない。
 正直、体だけでなく精神も疲弊していた。
 光も差さない闇の中、意識は朦朧とし、嘔吐感があり、体がギチギチと痛み、関節には熱が篭っている感じがする。
 徐々に免疫が出来ていくと言われたが、肉体と精神の疲労により、調整までにかかる時間は確実に伸びていた。
 このままでは、呪具に取り込まれてしまうのではないかという不安に押しつぶされそうになる。
 さらに――毎日のように見る夢。
 朝起きたときには内容を忘れてしまうのに、夢を見ていたことだけは覚えている。心がずたずたに切り裂かれたような気分になる、そんな夢を。
 一言でその夢を表すなら、悪夢。
 すべてを黒く塗りつぶすような悪夢。もがけども身動きの取れない氷の中に閉じ込められているような夢。
 このまま自分が自分ではなくなってしまうかもしれない。精神が剥離していくような感覚に襲われる。倒錯した頭が、どこかに吹き飛んでしまうような気がする。
 もう一時間経っているのに、まったく魔力が収まりそうに無い。このまま暴走が止まらなくて、破裂してしまったら、どうなってしまうのだろう。
 頼る人が誰もいない旅の地で、深遠の闇の中に捕われてしまうのではないか。
 苦しい……。
 冷静にならなければいけないのは解っているのに、思考が言うことを聞かない。
 まだ夢を見ている気分だった。頭が、心が、攀じれてしまいそう。
 暗がりの中に、ふと、その人影が浮かんだ。
「……ア……ルフ?」
 人影は頷いたが、しかし、その姿はアルフではなかった。
 女の人。一瞬お母様かとも思ったが、それも違う。その顔に見覚えはなかった。だけど、穏やかな笑みを浮かべて、こちらを見つめている。
 見守るように、慈しむように。ほの暗い部屋の中で、淡い光を放ち、手を差し伸べるように。
 いつの間にか、レイセリーティアは、その女性に身をゆだねていた。女性は、優しく彼女を包み込む。
 昔から、心の底から、ずっとずっと、思い焦がれていた物。望み、求めていた物。
「独りは……怖いよぉ……」
 溢れ行く感情は涙となり、ゆっくりと、彼女を眠りへと誘い込んだ。

(し、死にたい……)
 旅に出てから四日目の朝のこと。レイセリーティアはあまりにも恥ずかしくて、生まれてから初めて、このまま死んでしまいたいと心の底から思った。
 今はすでに宿屋を出払い、小さな料理店で朝食を食べているところ。小麦粉で作った生地に、野菜と肉をはさんだ簡素な食事をついばんでいる。一応平静を装っているが、心の中では羞恥心がぐるぐる渦巻いていた。
 顔から火が出るほど恥ずかしいその出来事は、朝起きた時にしでかした物なので、もう忘れた方が良いことは解っているのだが、思い出すたびに頭を抱えて悶絶したくなる。すると食事の手が止まってしまい、アルフがこちらを見るものだから、余計に死にたくなる。
 苦悩しているレイセリーティアとは裏腹に、予想以上に旅は順調に進んでいた。
 予定では、目的の地域に進むまでに、大体二十日は要すると踏んでいて、この町、ハイルメッシュまでは五日はかかるだろうと思っていたのだ。
 しかし、毎日お天気で、風も吹かず雨も降らず、小さなトラブルすらまったく起こらず、セーラ川に沿うようにして敷かれている街道が、最近整備されたのか馬を走らせやすくなっていた事で、予定を短縮し、三日でハイルメッシュに着いてしまった。このまま行けば、予定していた日数を大幅に軽減して目的の地域に着けそうだ。
 その地域に着いてからが大変なのは重々承知している。指輪に浮かび上がる紋章を家紋としている家の分布地域が判明しているだけなので、死地をつぶさに調べ上げていくことになる。
 そこで苦労するだろうことは解っているから、順調に旅が進んでいる事は良い事なのだけど、本当はもう少しアクシデントを期待していたのだ。
 呪具を身につけてしまい、家出同然で始まったこの旅。
 小さい頃、王都に連れて行ってもらったことはあるが、大きくなってからは町を出ていない。しかも西側は連れて行ってもらったことはなく、今回が初めての体験だった。
 不幸の連続から始まった、初めてづくしのアルフとの二人旅。もう少し驚きのイベントがあってもバチがあたらないと思うのだが。
 たった今、空に雲が掛かり始めて来たので、このまま雨が降ったらこれが町を出てから初めてのイベントなる。何となく、寂しい感じがした。
 今回の旅の中で、唯一苦労していたのは朝の魔力調整。
 呪具を身につけたことによる、魔力の暴走。就寝中は大量の魔力の制御ができない為、朝起きた時には魔力が錯乱しており、すこぶる気分が悪くなるのだ。
 一日目二日目は小さな宿屋をとり、アルフとは別々の部屋にしたのだが、三日目はアルフと同じ部屋で寝ることになった。
 別にこれが恥ずかしかった訳ではない。本当ならばずっと一つの部屋しか取らない予定だったのだが、一人部屋しか余っていなかったため、別の部屋になっただけのこと。旅ではお金を節約しなければいけないのだから、同じ部屋で寝ることは恥ずかしくない。
 なにより、アルフが変なことを起こす可能性は無いに等しいし。
 まぁ、それはそれで、悲しいような気もするのだけれど。
 とにかく、これが彼女に死にたいとまで思わせた理由ではない。
 それは四日目の朝のこと。
 アルフのベッドの上で、アルフの腕の中で、アルフにしがみついたまま、レイセリーティアは眠っていた。
 目覚めた時にそれを知り、さっぱりと状況が飲み込めず、彼女はそのまま放心状態になってしまった。
 こうなった理由が解らない。同室であってもベッドは離れているから、寝相が悪くてこうなった訳ではないだろう。寝ぼけてこの状態になったとしても、ならばどうして自分はアルフから離れないように、しっかりと彼の服を握りしめているのだろうか。
 レイセリーティアが硬直していると、アルフが目を覚まし、相変わらずの表情でおはようと告げると、ようやく彼女はベッドから跳ね起きたのだ。
(なんでアルフはいつも通りなのよ!)
 やつ当たり気味に、心の中で抗議してみる。
 自分はこんなに苦悩しているのに、アルフは意にも介さない様子。一人相撲を取っているようで、馬鹿らしくなってくる。
 そういえば、と、あれやこれや考えているうちに、疑問点が浮かび上がった。
 どうしたことか、朝起きた時に、今日はまったく気分が悪くなかったのだ。
 いつもならば呪具の副作用で苦しむはずだったのに、今日だけは以前と同じく、すんなり起床する事ができた。起き上がったときの眩暈も吐き気もなかった。起きた時間も遅くて、爽やかな朝だった。
 アルフに聞けばこの謎が解決するかもしれないが、その為にはあの恥ずかしい出来事を思い出しながら訊ねる事になりそうなので憚られる。
 まだ半分も食べ終わっていないレイセリーティアに対し、アルフはすでに朝食を食べ終わり、食後のコーヒーを飲んでいる。こんな事悩むのは止めて、早く朝食を終わらせた方が良いのだろうか?
 悶々としながら聞き倦んでいると、アルフが話しかけて来た。
「レイティア、最近夢って見る?」
 今までの疑問と、当たらずとも遠からずの質問に小首をかしげながらも、答える。
「見てることは確かなの。だけど、覚えてないと言うか、すぐ忘れると言うか……」
 身を引き裂かれるような夢を見ているのは覚えているのだけど、内容はまったく覚えていない。毎日こうなのだから薄気味悪い。
「その夢がどうしたの?」
「その夢は、呪具の夢の可能性が高いんだ」
「呪具の夢?」
「うん。呪具の魂の記憶と言えばいいのかな。眠っている時は魔力が制御できない、つまり呪具の魔力が体の中を無造作にめぐる事になって、魂の夢を見ることができる。だから、少しでも夢の内容を覚えていれば、死地の手がかりになるんだ。でも、忘れやすいのがその夢の特徴でね。自分で見ているのではなく、見せられている夢だから、記憶に留まりにくいんだ。それで、少しでもいいから、覚えてる事はない?」
「何となく、怖い夢って事は覚えてる」
「怖い夢?」
「そう。心が引き裂かれそうな感覚の夢なの。朝起きた時に汗かいてるし、心臓がバクバク言ってるし……」
 必死に夢を思い出そうとするが、これぐらいしか思い浮かばない。記憶に留まりにくい夢とは言え、強烈な恐怖と言う印象を持つ夢を、簡単に忘れてしまうのだろうか。
「でもね、今日見た夢は、……暖かい夢だった気がする」
 羽に包まれるようなあたたかい夢。やっぱり内容は覚えていないけど、今日だけは、なぜか違う類いの夢を見た。
 はっと、レイセリーティアは一つだけ夢の内容を思い出し、顔を上げる。
「そう言えば、女の人が出てきたわ。歳は二十代半ば、黒い髪で……それ以上は思い出せないけど、その女性はとても優しい瞳をしてた。それで、抱き締められて、とっても温かくて……。でも、これだけじゃ何の手がかりにもならないわよね」
「そんな事ないよ。何か一つ思い出せば、連鎖的に思い出す可能性が高いから、まずはそれだけで十分だよ」
 十分と言われても、多少の負い目を感じている彼女にとっては物足りない。
 まだ終わっていない朝食を再開するが、夢を思い出そうと躍起になっているのでペースは遅い。せめて、あの女性の周りの風景だけでも思い出したい。
 アルフはそんなレイセリーティアを見ながら、少しだけ考え込むような仕草を見せた後、口を開いた。
「朝の出来事覚えてる?」
 思案に耽っていた彼女は、すぐにはその問いの意味が解らなかった。が、次の瞬間その意味に気付いて、飲んでいたお茶が気管に入り思い切りむせてしまった。
「大丈夫?」
「え、ええ」
 むせた事自体はもう問題ないが、内心はまったく大丈夫じゃなかった。来るべき物が来てしまっただけなのだが、タイミングが悪すぎる。
「朝の出来事って……その……」顔が自然と熱くなる。「私が、アルフのベッドに、あの……」
「そう、レイティアが俺のベッドに来たまでの経過、覚えてる?」
 事も無げにあっさりと言ったアルフを、本気で恨みそうになった。
「……覚えてないわ」
 覚えていたらここまで苦悩する事もなかったと思う。
 仮に、家を離れ人肌が無性に恋しくなって、アルフに一緒に寝てと頼んだことが解っていたとしたら――いや、それこそ大問題になってしまうのだけど。
 アルフはその答えを聞いて、そっかと頷き、また何かを考え始めた。何を話し始めるのかと、期待しながらしばらく待っていたが、アルフは何も喋らない。
「ちょっと! 何かあるんじゃないの?」
 あまりにもじれったくて聞いた。アルフはあっさりと答えた。
「レイティアが恥ずかしそうだったから、これ以上言及するのは止めようかと思ったんだけど」
「恥ずかしくない!」
 ムキになり、机を叩きながら怒鳴る。アルフは少しだけ面食らったが、やっぱり、あっさりと答えた。
「そうなの? 俺はちょっと恥ずかしかったよ」
 レイセリーティアは金魚のように口をパクパクさせながら、唖然としてしまった。
(私、馬鹿みたいじゃないの……)
 これが多分、俗に言う大人の余裕だ。恥ずかしくても、決して言葉や態度に表さない強さ。自分も成長したつもりでいたけれど、八歳の差はここまで精神面に差をつけてしまうものなのか。
 意気消沈しながらも、アルフに本題を進めてくれと促した。
 アルフが少々特異な性格をしている事を勘定に入れなかったのは、彼女のミスである。
「レイティアの夢の話を聞いて、いろいろ仮説を立ててたんだけど……。その前に、今日の朝、と言ってもまだ暗い時間帯だけど、君が一度起きたのを覚えてる?」
「起きた? 私が?」
「そう。いつものようにレイティアは朝の副作用と戦ってて、俺は監視のために起きていて域の魔法で君を見ていたんだけど、今日はいつも以上に魔力が混乱がしていて、まったく収まりそうに無かったんだ。長い間辛そうなままで、そうしたら君は俺の方を見て、抱きついてきて……その後、レイティアはすぐに寝ちゃったんだけど、君を離そうとしても服を掴んでて離れないし、握る力も強いし面倒だしで、俺もまだ眠かったからそのままベッドにゴロン――という経過だったんだ」
 全然、覚えていない。けど、アルフが嘘をつくわけがない。
「それでね。抱きついてくる直前に、君は俺に『アルフ?』って訊いて来たんだ。俺は頷いたんだけど、君は納得いかないような不思議そうな顔をしたんだ。そしてその時のレイティアの目線は、俺に焦点があっていなかった」
「つまり、どういうこと?」
「その時に見たのが、君がさっき言った女性で――俺の影に、その女性を見たんじゃないか、と言うのが推測。その女性が呪具の魂にとっての家族だったのか大切な人だったか、そこまでは解らないけどね」
「ねぇ、本当に、私からアルフに抱きついたの?」
「うん。結構急だったからビックリしたよ。あ、そうだ。その後『独りは怖いよ』って、泣きながら言ったのも、覚えてないよね?」
「……本当に私? 私がそんな事言った?」
 いつもだったらあまりの恥ずかしさに、このまま小動物のように隅っこに縮こまるのだろうが、今のレイセリーティアは一味違った。
「解った、私は呪具に操られてたのね!」
 弱音を吐くなんて、普通の自分だったら絶対にしない。いくら怖くて寂しくても、抱きついて涙を流す事はしない。アルフにだったらと思ってしまうこともあるが、そんなことはプライドが許さないのだ。操られたとしなければ行動の説明がつかない。  と、自分の発言の意味に気付いて、ほんのりと赤かった顔から、急速に血が引いていく。
「私、操られてた……の?」
「その瞬間だけは操られてたのかもしれないね。幻影を見せられた事が操られた事になるかどうかは別として、呪具の力が直接体に反映した可能性は高いし、なによりレイティアと呪具の魂が、……レイティア、落ち着いて」
「うん、だ、大丈夫」
 言いつつも、あからさまに駄目そうな表情。
 レイセリーティアは心霊の類いは特に苦手ではないが、実害が出る可能性があるとなると別問題になる。
 さらに、ほんの少しの感情の変化でも、呪具の作用で起伏が増大してしまうため、彼女の動揺は大きくなってしまうのだ。
「大丈夫、普通の人が呪具を装備したら、日常生活中にすら支障が出てくるんだから。君はそういう人に比べたら軽症だよ。むしろ、今までにこれだけしか症状が出なかったことが不思議なぐらいだから。レイティアは大丈夫」
 何度も聞かされた話だ。そう、自分の症状は大したことがない。むしろ心配するは症状が軽すぎることなのだ。
 自分に言い聞かせて、深呼吸をして。心の乱れは、直接呪具の暴走に繋がってしまうから、じっくりと気持ちを落ち着かせていく。
「……大丈夫。続きを言って」
 今度は大丈夫。感情のコントロールは、この数日間で随分慣れてきた。
 アルフはレイセリーティアの状態を見守りつつ、話を進める。
「ええと……朝の出来事は、呪具の力が体に反映したことは確かだけど、操られた訳じゃなくて、レイティアと呪具の魂がシンクロしたからじゃないかな、って思うんだ」
「シンクロ? それって、操られたのとは違うの?」
「うーん、なんて言えばいいのかな。例えば、操られている場合、一方通行なんだ。操られている本人の意思とは全く関係なくいじくり回されるわけだから、記憶も残ってなければ、体の魔力がいつもと違う動きをすることになって気分も優れない。操られる事は支配される事と一緒で、その支配から早く逃れないと、呪具を使用した場合の最悪のパターンになる訳。だけど、シンクロは違う。魂の持っている記憶と装備者の記憶が類似した時、または魂の経験した状況と装備者の状況が酷似した時、魂と装備者の性格の一致や、感情の一致……とにかく、何かリンクする状態になった時にシンクロが起こり、装備者は意識をもった状態で魂の感覚を観る事ができ、魔力を共有することができるんだ。その場合、体内の魔力を荒らされた訳ではなく、呪具の魔力を極自然な形で取り入れているから、気分も悪くならない。呪具を使いこなしてきた昔の偉人たちもシンクロを上手に使いこなして、呪具の魔力を自由自在に行使していたみたいだよ」
「えっと、つまり?」
「装備者の意識の有無……かな。シンクロの場合、ほとんど装備者主体の行動だから。シンクロの場合害はないし、魔力が乱れる事もない」
 よく解らないが、朝起きたときの気分が良かったのは、夜中シンクロしたために、魔力が落ち着いたからだと言うことなのか。
「シンクロだと、装備者の記憶に呪具の記憶が残りやすいから、手がかりになる可能性が高いんだけど、シンクロする条件は数多もの数があって俺も解らないから、どうしようもできないんだけどね」
 夜中の出来事がシンクロだとしても、これ以上思い出せないのだから意味は無いのかもしれない。夢とシンクロ、両方を上手に手繰って、情報を引き出さないといけないのだろう。
「シンクロね……」
 シンクロが巧く使えれば、魔力のキャパが大幅に増える事になる。なにより、死地の手がかりが掴めるのだから、是非とも習得してみたい。しかし、容易に条件が見つかるものではないみたいだ。
 アルフに抱きついた直前の自分の状態がリンクポイントだと思うのだけど、再現しろと言われてもできるものではない。その上、シンクロした後は装備者主体の行動だと言っていたが、いまいちその感覚が掴めていない彼女には未知の物であり、ためらいがある。
 ここでまた彼女は、気がつかなくてもいい事に気が付いてしまった。
「――シンクロ後の行動は、装備者主体?」
「うん、基本的にはそうだね」
 と言うことは、いくら呪具寄りの行動であっても、自分の考えが優先される訳で。
 と言うことは、あの朝の出来事も、自分主体の行動であって。
 と言うことは、私がアルフに抱きついたのは、呪具による強制的なものではなくて。
 と言うことは?
 彼女の顔に大量の紅葉が散り、そのまま思考停止になってしまった。アルフが『大丈夫?』と聞いてくるが、すでに彼女の耳には届いていない。
 旅に出てから四日目の朝のこと。レイセリーティアはあまりにも恥ずかしくて、生まれてから二回目、このまま死んでしまいたいと心の底から思った。

 雨が降り出し、しかし二人はハイルメッシュを後にした。
 止む事を忘れたかのように降る雨の中、ディン山脈の麓の町へ到着する。

    8

 ディン山脈は南北に連なる、比較的高度の低いなだらかな山脈である。
 セーラ川を東西に分かつその山脈は、複雑な地形を持つ為に小規模な街道すらできておらず、セーラ川を渡り、南からへ大きく迂回して山脈の反対側に向かうのが多く取られている方法だ。
 山脈横断の方が直線距離は短いものの、安全面や効率面からこの行程を選ぶ者は少ない。山脈を横断する者は物好きか特別な理由を抱えている者だけだ。
 近年、この山脈に街道を敷設する計画もあるのだが、野生獣の多さも問題だし、特に資金面が折り合わず、頓挫しているのが現状である。
「ディン山脈はガッザニールが作ったと言われてるのは知ってる?」
 アルフがレイセリーティアに問うた。
「知ってるわよ。だから、山脈名はディンバー=ガッザニールの名前から取ったのよね」
 この国を統一した初代皇帝ガッザニールは、腕を一振りすれば山も大地も海も砕けるという逸話が残っており、古今に渡り最強の人物と呼ばれている。
 彼はこの国を統一する際の戦争で、周辺の地形を大幅に変えてしまった。山を吹き飛ばし、平野を穿ち、敵と共に空を吹き飛ばした。
 その激しい戦争の時にできた代表的なものがこの山脈だという。その説の証拠までとはならないが、王都ストックレインからディン山脈まですべて平野であり、一切の丘すら存在しない。
「では、セーラ川の名前の由来は?」
「ガッザニールの后……じゃなくて、娘の名前」
「あたり。后の名前はリンシャ。彼女は美しく才知にも優れたけど、体が弱く、統一してからすぐに亡くなってしまったんだ。娘のセーラと引き換えにね」
 リンシャが亡くなり、ガッザニールは嘆き悲しんだ。しかし、国を統一してから間もなく、いつまでも悲愴にくれているわけにはいかない彼は、政に力を入れながら、同じぐらいに娘のセーラを溺愛し、その証を大地に刻んだ。それがセーラ川。
 ディン山脈から東に流れるセーラ川は無限の可能性がある海へと。西に流れるセーラ川は、母、リンシャ湖へと繋がっている。
 リンシャ湖とはディン山脈の西側、裾野の終わりにある広大な湖である。その大きさは大陸一を誇り、付近の住民にとっては大切な生活用水源になる。
 今でさえ大陸一と呼ばれるリンシャ湖だが、昔は大した広さを持っておらず、ガッザニールがセーラ川を創ったと同時に湖を広げたと言う話もあるが、真偽は定かではない。
「アルフはよくそんないろいろなことを知ってるわね」
「職業柄、歴史に詳しい方が便利だからね」
 特殊魔具は年代によっても少しずつ性格を変える。新しければ新しいほど念入りに手入れをしてやらなくてはならず、しかも性格が激しい。逆に古ければ古いほど落ち着いており、手入れの回数は少なくて済むし、性格は穏やか。初心者が扱うのなら、年代の古い物の方が扱いやすい。
 ただし、戦争などの歴史が魔具生成時期に重なると、これまた魔具の性格が変化してくるので、事件が起きた年代や場所を勉強しておけば、イレギュラーにも対応できるという訳だ。
「それにしても……」
 レイセリーティアは、うんざりとした表情で山の頂を仰ぎ見た。
「ガッザニールも迷惑な事してくれたわよね」
 彼女の愛馬シディも、同意と言わんばかりに鼻を鳴らす。
「いくらなだらかと言っても、標高千五百はある山だからね。簡単には抜けられないよ」
 アルフも頷いて、ため息をついた。
 二人はディン山脈を越えるため、鬱蒼と茂る森の中を歩いていた。
 物好きか特別な理由を持つ者しか通らない山脈の獣道は、お世辞にも道として機能しているとは思えず、時折、馬から降りて、飛び出している枝を払わなければならない。
 初めはディン山脈越えをする予定はなく、普通に南回りでやり過ごす予定だった。しかし都合の悪いことに、数日雨が降り続いたためセーラ川が氾濫し、橋が崩れてしまったのだ。いつもなら簡単に耐えていたらしいのだが、今回は水かさが多く、橋自体が老朽化していたので、それが原因だと言われている。
 橋が復旧するまでに最低でも一週間はかかると言われ、レイセリーティアは困惑した。
 この数日間、ハイルメッシュの宿でしでかしてしまった、シンクロによるアルフのベッドへの侵入が、たびたび行なわれていた。シンクロしたときは必ず謎の女性の姿があり、その女性に抱きつくと、朝アルフのベッドにいるというパターンができてしまっていた。
 味を占めてしまったのも問題だと思う。
 アルフのベッドに潜ってしまう羞恥心よりも、孤独でつらい、乱れた魔力のコントロールをしないで済む安堵感の方に軍配が上がってしまうのだ。
 二日に一度のペースでシンクロしてしまうため、旅程日数が延びれば延びるほどベッドへの侵入回数も増えてしまうから、なるべく日数を減らしたかった彼女にとって、橋が崩れるというアクシデントは思わぬ痛手だった。数日前はアクシデントを望んでいた彼女だが、実際アクシデントが起こると邪魔なだけである。
 是が非でも日程短縮したいレイセリーティアは、アルフにディン山脈越えを進言した。
 理由はお金の節約から。本当の理由なんて口が裂けても言えないので、急遽作り出した理由である。事実、お金の節約も旅においては重要な事だから問題ない。
 橋の復旧まで、せめて仮橋が造られるまでこの町に滞在するのが最善だった。呪具を身につけている状態では、避けられる危険は避けるべき。当然アルフもこの考えで、レイセリーティアの進言に初めは反対した。
 しかし、なぜか本気を出していたレイセリーティアとの口論に勝てるわけもなく、アルフは彼女の意見に従う事になった。
 そうやって山越えを提案した彼女だが、一日目にして、すでに嫌気が差し始めていた。
 ぼうぼうに突き出ている枝は行く手を阻み、岩や倒木が行く手を阻み、クモの巣が顔をめがけて攻撃してくる、迷路のような森。アルフの域の魔法があるから迷う事は無いけれど、普通の人だったら遭難確実だ。
 散々苦労しているのに、まだ山の中腹にしか到達していない。苦労は想定していたが、これほどとは思わなかった。登山を完璧に舐めていた。
「アルフ、もうシディが疲れちゃったみたいだわ」
「ドーゼルも疲れてるね」
 元々、二人の馬は登山に適している馬ではなく、さらに雨が降り続いたせいで地面が濡れて滑りやすくなっていて、疲労の蓄積が早かった。
 登山を開始してから数時間経つと馬が疲弊してしまい、回復するまで下馬して歩き、元気になったらまた乗馬して、馬が疲れたらまた降りて――こんな事を繰り返しながら進んでいたのだが、徐々にペースは落ちていき、今では朝の二分の一しかない。
「雨さえ降らなければ、こんな事にならなかったのに」
 レイセリーティアは空を睨みつける。昨日までざあざあ雨が降っていたくせに、今日は清々しい天気だ。気まぐれな空である。
「雨季でもないのに何日も降り続いたなんて生意気よ」
「確かに、変わった雨ではあったよね。町の人たちも、この時期には珍しい雨って言ってたよ」
 雨季ならば数日降り続くことも珍しくないのだが、今は乾季に近づいており、まとまった雨が降ることは滅多にない。
「でも、今回まとまった雨が降ったといっても、雨季ほどではない訳でしょ? どうして橋が壊れたのかしら」
「そう言われると不思議だね。雨季の度に壊れてたらやってられないだろうから、整備はきちんとしているだろうし」
「私たちを渡すのが嫌だったのかしらね」
「日頃の行いが悪かったのかもしれないよ」
「そう言われちゃうと、思い当たる節がたくさんあるから困るわ……」
「例えばどんなこと?」
「そうね……町中の喧嘩はしょっちゅうでしょ。その時の器物破損+責任は対戦相手に押し付け+逃亡は黄金パターン。商品の値切りは当たり前、物を借りたら高確率で破損して返品する事になるし、口論の際は虚言妄言罵詈雑言のオンパレード、数え上げたらきりがない……って、言わせないでよ!」
「あはは、ごめんごめん」
 最近の悪行だけを数えても、足の指も使わないと数えられないほどある。これは自分の性格だし、これからも変わらないだろうと思っているのだが、あらためて振り返ると、いい加減矯正した方が良さそうな感じがしてくるから好ましくない。
「性格直した方がいいのかしら」
「レイティアは、レイティアのままでいたほうがいいよ」
 ちょっと卑屈になっているレイセリーティアを励ますようにアルフは言う。
「清楚でおしとやかで物静かで……そんなレイティア、想像できないし、一緒にいても楽しくなさそうだよ」
「ひどーい! 私だって、家では可憐なお嬢様を演ってるのよ。『レイセお嬢様はいつもお美しいですね』ってメイドに言わしめるぐらいなんだから。一度アルフに見せてあげたいわ。きっと感激して涙が出るわよ」
「そうなの? 笑い泣きはしそうだけど……」
「それ、どういう意味よ」
 レイセリーティアがアルフをねめつけた瞬間、シディが足を滑らせた。上に乗っていた彼女はバランスを崩し、危うく落馬しそうになる。
「大丈夫?」
「ええ、なんとか」体勢を立て直し「もうシディは限界みたいだわ」
 汗を大量にかき、鼻息も荒く、懸命に前に進んでいるシディの首筋を撫でてあげる。慣れぬ山道なのに、よく頑張ってくれている。
 アルフはさっと域の魔法を使い、辺りを調べた。
「近くに湖があるから、今日はそこで野営しよう」
 まだ明るいけれど、暗くなる前に野営の準備は終わらせないといけないから、丁度良い時間だろう。
 そこから数十分進むと、二人は湖のほとりに到着した。
 シディとドーゼルの鞍を外してやると、労働から開放された事がよほど嬉しいのか、二匹は跳ねるようにして湖に近づき水を飲み始める。
「やっぱりあの子達、登山は苦手なのね」
「速さを求めた品種だからね。普通の馬よりは体力があるはずだけど、登山は苦手なんだろうね」
 ここから見える山頂は一つ目の山で、この奥にもう一つ、さらに大きな頂がある。山越えは七日前後かかると言われていたが、それでも今日だけで全行程の五分の一は進めたのだから十分である。明日からのために、ゆっくりと体を休めて欲しい。
 レイセリーティアは背伸びをすると、シディ達と同じように湖へと向かう。
「きれいな湖」
 小さい湖であるけれど、水面は穏やかで、キラキラと光を反射している。覗き込むと水は澄んでいて、泳いでいる魚も見ることができた。
 水を手ですくって飲んでみると、冷たい水が、乾いていた体にじんわりと染み込んでいく。
 宿を使わず、野宿するなんて初めての経験だが、こんな自然の中で眠る事が出来るのなら、ずっとここにいてもよいとさえ思える。
「君は一応ハルメット家の令嬢なんだから、もう少し野宿に抵抗があってもいいと思うんだけど」
 アルフが近づいてきて、そんなことを言う。
「だって、前からこういうことしたかったんだもの」
 小さい頃、何度か旅に出たことはある。でもそれは親と一緒の旅行で、行程は決まっているし、かならず豪華な宿に泊まるし、する事やる事が決まっていて、息の詰まるような旅だった。彼女が求めていた旅は、冒険家のトーヤがしているような、何が起きるか解らない、目的も何もかもその場で決める、そんなスリリングな旅だったのだ。
 野宿もしてみたいことの一つで、トーヤなんかは旅行記の中で当たり前のように野宿をしていたけれど、果たしてそれはどういうものなのか体験したかった。
「それに、私がこういう性格だってのはとっくに解ってるでしょ。伊達にお転婆娘やってないわよ」
「まあね」
 自分でお転婆娘と言うのもどうかと思うけど。アルフは声には出さず、心の中で微笑を浮かべる。そう、何にでも積極的なのが彼女らしい。
「そんな事より、アルフも水飲んでみてよ」
 嬉しそうなレイセリーティアに勧められるまま、アルフも水を飲んでみる。
「うん、美味しい」
 水の魔法を使用できる者がいるのなら水の確保は簡単なのだが、そうでない場合は意外と大変な事で、今回みたいに湖を見つけられたのは運がいい。
「魚もいることだし、食糧確保も苦労しなさそうだね」
 今回は急な事もあって、山を越えられるだけの食糧は持ってきておらず、現地調達でなんとかすると言うことになった。アルフの域の魔法があればこその策だ。
「域の魔法って何かと便利よね」
「こういう時は役に立つけど、普通に暮らしてる時は役に立たないよ。俺からすれば君の火とかの方が役に立つように思えるし」
「無い物ねだりってことなのかしら」
「そうだと思うよ。それに、域の魔法は稀少属性だから、余計にそう感じるのかもしれないね」
 火土水風雷の自然魔法や盾癒強の付与魔法を扱える者は多い。しかし域や伝の特殊魔法となると、その割合が大きく落ち、千人に一人使えるかどうかの割合になる。
「そうなのよね。自分が使えないから、使える感覚が解らないし、慣れてないから便利ーって思っちゃうのよね」
 変わった事でも、慣れてしまえばそれが普通になってしまうのだから困ったものだ。そしてその普通が取り払われた時、不便に感じるのも酷く滑稽な話だと思う。
 アルフは背中からリュックを下ろすと、いくつかの魔具を取り出した。
 まずは水晶玉。ある範囲内に別の何かが侵入してくると、ほんのりと赤い光を放つ水晶玉だ。獣などが近くに来た時にも発動するので役に立つ。
 店にあったのをそのまま持ってきたものだ。音が鳴らないと言う欠点はあるけれど、無いよりはましだろう。
 次にランタン。魔力を込めると、込めた魔力の量に比例して長い時間光を放つ魔具。一家に一台は必ずあるというほどの必需品で、特に野営では大切な魔具だ。
 最後に赤い小さな石。魔力を込めると、火を発生させる魔具。しかも点け消しが可能で、これがあれば薪集めは不要になる。ただし制限として、込める魔力は火の属性を帯びていなくてはならないが、今回はレイセリーティアがいるので問題ない。
「この赤い魔具は初めて見たわ」
 レイセリーティアはその赤い魔具を取り上げると、しげしげと見つめた。
「特殊魔具の一種だよ。役に立つ魔具ではあるんだけど、火属性の魔力を使用できないと駄目だし、構造がいまいち把握できてないから、普及されなかったんだ」
「便利そうな魔具なのにね」
「将来は普及されるかもよ。それもこれも努力次第って所」
 域の能力をもってしても、構造を完全に把握するのは至難の業。構造が解ったとしても、その構造を作り出す手順を考えなくてはいけないし、魔具専門家の苦労は尽きない。
「魔力込めてみていい?」
「いいよ。周りに燃え移らないようにしてね」
 レイセリーティアは周りの木の葉を払うと、そこに赤い魔具を置いた。体を昇化させて体の中に赤い魔力を作っていく。このまま火球を放とうイメージすれば、火球が発生する仕組みだ。
「どれぐらい込めればいいの?」
「好きなだけ良いよ。ランクSまでの魔力には耐えられるはずだから」
 好きなだけ良いよと言われても困ってしまうのだが、とりあえず、ランクA程度の強さの魔力を入れてみることにした。
 赤い魔具の上に手の平を添え、手の先に赤い魔力を溜め込んで――
 放出しようとした瞬間、突然ざわつきを感じた。体の芯に電流が走ったように、レイセリーティアはびくんと顔を上げる。
 呪具がざわめき震えている。呪具から大量の魔力が流入してくる。こんな事は今までなかった。どうしていいのかわからない。
 彼女が戸惑っていると、とたん、頭の中に声が直接響いてきた。
 辺りを震撼させるような叫び声。心を掻き毟るような痛哭。金属をかき鳴らしたような悲鳴。頭が溶けてしまうかのような痛みを伴って、声が送られてくる。
 ―――タ、ス、ケ、テ。
 そして、いきなりそれは鳴り止んだ。また、葉擦れの音と湖の波音のみが聞こえるようになった。彼女の体には、滝のように汗が流れていた。
 一瞬の出来事。彼女は頭を抑えたまま、訳がわからず立ち尽くす。
「レイティア、危ない!」
 アルフが叫ぶ。彼は慌てて、呆然としているレイセリーティアを押し倒すような形でその場から回避した。瞬間、先ほどまで彼女がいた場所から、火柱が上がった。
「レイティア、大丈夫?」
「……うん」
 火柱の下にあるのはあの赤い魔具。魔力を注入しすぎた為に、抑えきれず暴発してしまったのだ。ドーゼルとシディも、驚いて遠巻きにこちらを見ている。
 巨大な火柱は十数秒間上がり続け、辺りの空気を焦がしながら、何事もなかったかのように沈静化した。
「周りに木があったら火事になってたかもね」
 アルフは軽い口調で言ったが、本当にそうなっていたら洒落にならない大惨事である。
 二人は立ち上がり、服についている土を払い落とす。
「ごめんなさい。魔力を込めようとした時に、突然呪具が騒いだものだから……」
「どれぐらいの魔力を込めちゃったか解る?」
「……解らないわ」
 本当に突発的な出来事で、魔力をコントロールする事ができなかったから、推測する事もできない。
「許容量がランクSだとして、十数秒巨大な火柱が上がってたとすると、ランクS+++、いや、それ以上の魔力を込めてたのかもね」
「私、そんなに疲労してないわよ」
 魔力を使えば使うだけ体は疲弊していく。ランクS+++の魔法を放てば、体中の力が抜けてしまい、すぐには動けなくなる。喧嘩なんかで使う魔法はランクCやBぐらいの魔法だからこそ連発で魔法を使えるのだ。
「呪具が持つ魔力はそれだけ凄いって事だよ」
「私、とんでもない物を身につけてるのね」
 呪具を扱えるのなら、ランクS+++の魔法を連続で行使することも可能なのかもしれない。呪具を使いこなしていた初代の王ガッザニールや、世界に名を轟かせた魔術師エキレイの強さは簡単に推し量れる。
「それで今、なにが起きたの?」とアルフ。
「えっと……何か、頭が割れるように痛んで、突然『声』が、悲鳴が、頭に直接叩き込まれるように響いてきて……」
 心が裂けるようだった。痛みがまるで自分の物のように、そのまま泣き出したくなるかのように響いてきた。轟々の中で、唯一聞き取れた、タスケテと言う声が、体の奥深くに、何時までも絡みつく。音はなかった。声だけが聞こえた。
「駄目……解らない」
 今になって気分が悪くなってきた。脱力感に見舞われその場に座り込んでしまう。突然呪具の干渉が消えたため、体が対応できなかったらしい。
「少し休んだ方が良いね」
「うん……」
 アルフに促されるまま、近くの木に寄りかかると、そのまま浅い眠りへとついた。

   9

 ガタガタと、体が揺れていた。
 どうやら眠ってしまったらしい。彼女は目を覚ますと、体を起こした。
 ああ、そうだ、ここは馬車の中だ。
 気付いたらもう他のことに興味は無くなり、じっと動かない。
 寝ている時は楽しいのに、どうして起きてしまったのだろう。
 体は揺れている。だけど彼女は動かない。
 ていの良い厄介払い。彼女は家から追い出された。
『シュカ、あなたは病気なのよ。少し静養していらっしゃい』
 お母さんが言った音はそんな感じだったと思うけれど、声は違った。いつも通り、いつも通り。
 ――ようやくうちの恥がいなくなるわ。
 お兄様もお姉様も、大して変わった声は聞こえなかった。
 静養場所は森の中の家。何からも隔離されたその場所。一人使用人がつくらしかったけど、あまり意味のないことだった。
 しばらくして体の揺れが止まった。馬車が止まったのだ。シュカは馬車から降りる。
 すると、何の返事も無く、馬車はきた道を戻っていった。小さくなっていくその姿に、何の憤りも感じなかった。
 彼女はこれからの家となる建物を見上げる。白が基調の、木で作られた二階建ての建物。きっとここは別荘か何かだったのだろう。
 ここでは声が聞こえない。木の葉が擦れる音をつれてきた風が、シュカの体を撫ぜる。気持ち良いと思った。このままここで死んでしまうのもよいと思った。
 彼女がしばらく立ちんぼうしていると、家の扉が開いた。
「あなたがシュカさんですね。私はマーサと言います」
 扉から姿を現したのは、二十代半ばの女性。きっと彼女がこれから一緒にここに住む使用人なのだろう。
 シュカはじっとマーサの顔を見つめていると、彼女は不思議そうな表情で音を出した。
「どうしたんですか? 今、家の中の掃除してるんです。手伝ってくださいよ」
 不思議な事に、彼女の声は聞こえなかった。

   10

 レイセリーティアが目を覚ますと、すでにあたりは暗くなっており、あの赤い魔具が炎を上げて煌々と辺りを照らしていた。シディとドーゼルは、互いに身を寄せ合うようにして眠っている。
 気分は悪くない。すこぶる快調である。魚の焼けたいい匂いがすると思いながら顔を上げると、そこには当然のようにアルフの顔があった。
「おはよう」
「……おはよう」
 さっき自分が寝ていた場所とは違うから、やっぱり、そういうことなのだろう。
 もう慣れても良いような気もするが、慣れたら慣れたで大切な物を失ってしまう気がする。終わらない葛藤の中、レイセリーティアはアルフから少し離れて座り直した。
「私どれぐらい寝てた?」
「三時間ぐらいかな? 気分はどう?」
「もう大丈夫よ。元気すぎておなかすいちゃったぐらいよ」
 本当はここに到着した時にはおなかがすいていたのだ。さらに三時間も経っているのなら尚更ペコペコである。
「もう焼けてると思うから、食べていいよ」
「アルフが釣ったの?」
「うん」
 炎の周りでは、串に刺さった魚が香ばしい匂いをあげている。彼女が寝ている間にアルフが釣り上げた物だろう。レイセリーティアは一本頂戴すると、腹の辺りにかぶりついた。塩味が効いていてとても美味しい。
「釣りも、域の能力があると楽なの?」
「そうだね。魚のいる場所が解るってのは大きいよ」
 彼女は釣りをしたことがないから解らないが、そんなものなのだろうと納得する。
「雷の魔法が使えたら、大量に獲れるわね」
「それは危険だよ。なにより大量に魚が獲れちゃうから、生態系壊しちゃうんじゃないのかな。と言うより、湖一体の魚を殺しちゃって、死の湖になるかも……」
「平気よ、へいき。ふふ、今度頑張って習得してみようかしら」
「レイティアの属性は火だっけ?」
「ええ」
 人は必ず、自然魔法の属性、火土水風雷の中の一つの属性を保有しており、使用できる自然魔法は、自分の属性と、その周りにある属性であると言われている。
 この属性の相互性は、円を描き、火属性を一番上に配置して、その右側に土、以下右回りに、水、風、雷の順に置く事によって示される。
 つまり、レイセリーティアの属性は火。習得することができる自然魔法は、自分の属性の火と、隣り合っている土と雷と言うことになる。
 特徴として、自分の属性と、その右回りの属性は簡単に使用できる場合が多く、左隣の属性を習得するには、それなりの訓練が必要になるのだ。
「アルフの属性は土よね」
「うん。たまに忘れそうになるけどね」
 世の中には、付与魔法や特殊魔法しか使えない珍しい人もいる。しかし、かならず属性は決定されていて、アルフの場合は土である。
 同じ域の能力でも、属性が違うと少し違う性質を持つようになる。
 火属性だったら熱の流れを追い、土だったら地面の音を聞き、水だったら空間の流れを読み、風だったら空気の動きを読み、雷だったら微弱な電気の流れを読んだりと、最終的な役割が同じでも、その方法が変わってくる。
 アルフの場合はもう少し特殊で、すべてのものに流れていると言う魔力の動きを読むことができる。相手の魔力の総量などは、いとも簡単に見えてしまうのだ。
 人との相性は属性も関係があるといい、基本的に同じ属性、又は隣り合っている属性だと巧くいくといわれている。実際恋人や親友、夫婦などはそのパターンが多く見受けられるのだ。ただし、アルフとトーヤの例もあるので、一概に言えるものではない。
(一応、私とアルフの相性はいいのよね)
 さらに詳しく言うと、恋人の理想としては、女性の属性に対して、男性が右隣の属性だと巧くいくといわれている。レイセリーティとアルフはちょうどその配置になっている。
(別にそれだけで他意はないわよ!)
 と、誰かに向かって必死に言い訳しておく。
 何となく気まずくなってアルフを見たら、同じタイミングでアルフもこちらを見るものだから、余計に(一方的に)気まずくなってしまった。
「レイティアの両親は水属性なんだよね」
「そうよ。なのに私が火属性だから、浮気したんじゃないかって喧嘩になったみたいなの。お母様が病気がちでそれはありえないし、結局、母方のおじい様が火属性の人だったから、一件落着したんだけどね」
 属性は遺伝である。水属性と水属性からは水属性しか生まれず、火属性が生まれることはまずありえない。しかし祖父に火属性を持つものがいる場合、隔世遺伝で生まれる事があるのだ。属性を決める遺伝は、母の影響を大きく受けると言うから、ありえない話ではない。
「本気で習得してみようかしら」
「雷の属性を?」
「そう。もし習得できれば、総合ランクも上がるかと思って」
「四つの属性を身につけられれば、審査に有利になることは間違いないけどね。でも、力は求めないんじゃなかったの?」
 アルフが意地悪そうな顔できいてくる。
「力を過信するのは止めるって決めたのよ! これは向上心、それとは違うわ!」
「知ってるよ」一転、アルフは優しい表情で「知ってる」
 レイセリーティアは憤然とした表情をため息一つで解いて、頭をアルフの肩に預けた。
「いじわる」
「ごめん」
 母を失って、友を失って、ようやく知った、力がすべてだと思っていたことの愚かさ。もう二度と繰り返さないと、心から誓った。過去の自分を見つめて、糧にしていくと決めた。
 それでもたまに擡げてくる慢心を、アルフの優しさが解いてくれる。彼の雰囲気が、力はすべてでないのだと教えてくれる。
 レイセリーティアはそのままの体勢で、燃え上がる炎をぼおっと見つめながら、ぼんやり考えていた。
 今回の夢は、また少し違う印象があった。やっぱり内容は覚えていないのだけれど、今回の夢は、悲しくも嬉しくも辛くも楽しくもなかった。いつもは悲しくて辛い夢で、たまに嬉しい夢を見るのに――
「指輪の事だけどさ」アルフが言った。「いろいろ考えてみたんだけど、あれは一種のシンクロだと思うんだよね」
「あれもシンクロ? 突発的だったのに?」
「シンクロはいつでも突発的だけよ。シンクロする条件を満たせば装備者の意思とは関係なくシンクロしてしまうんだ」
「厄介なものね」
「まあね。それでね、その指輪は、伝の魔法が使えるんじゃないかって思うんだ」
「呪具がってこと?」
「そう。呪具の魂が」
 伝とは特殊魔法の一つ。アルフの使える域と並ぶ稀少属性である。
 相手の思っていることを把握することができたり、相手の言動の虚偽を知ることができたり、自分の思っていることを相手に伝えられたり。人によって能力は少しずつ違うが、呪具の使える伝の能力は、特に相手の思っていることを把握できる能力に長けていると考えられる。
「さっき、音が聞こえずに声が聞こえてきたって言ったでしょ。それは、伝の魔法を使える人の特徴なんだ。相手の思っていることが、口から出てきた音じゃなくて、心から出ている声として聞こえるんだって。耳で聞き取るのではなくて、心で聞き取るものだって」
 そう、あのタスケテという声は、耳ではなく心に直接響いてきた。
「間違っているかもしれないけど、指輪から浮かび出る紋章を家紋としている地域は、伝の発祥地でもあるから」
 比較的、その地域は伝の魔法を使えるものが多いと言う。
「伝の魔法って、認知されてから、まだ百年ぐらいなのよね」
「そうだね。まだまだ研究途中の魔法だよ」
 伝の魔法は昔からあったといわれているが、伝の属性が魔法として認知されたのはつい百年前。自然魔法や付与魔法は太古から知られていたが、特殊魔法の域の魔法や伝の魔法は、最近になって認知された魔法だ。
 二つの属性は、周りの人に見えないものを見る力のため、使える本人にしか解らない魔法だったから、認知が遅れてしまったのである。
 域の魔法は二百年前、伝の魔法は百年前に魔法として認知された。
 認知される以前は、アルフのように域だけを習得していたり、伝だけを習得していたりした人は、知れずと差別されていたのだと言う。域や伝の属性以外にも自然属性の魔法を使える人がほとんどだった為に、ことさら稀少属性だけを習得していた、つまり魔法を使えないと思われていた人間は、ゴミにも劣ると言う風習があったらしい。
 今は、魔法を使えない人間はいないと言われている。もし本当に使えない人がいるとすれば、新種の属性を扱える可能性が高く、現在では重宝されるだろう。
 レイセリーティアは、呪具を見つめていた。指輪は炎に照らされて、ゆらゆらと光を放っている。
 もし呪具の魂が伝の魔法しか使えない者だったら。
 指輪は百年以上前の物。まだ伝の魔法が認知されてない頃。指輪の魂は、一体どんな思いをしていたのか。 それが、夢に現れているのではないか。
 なんとなく、これは当たっていると思った。だけど、結局、夢の内容を思い出せないし、実感が湧かない。呪具に全く近づいた気がしない。
 夢を知ろうとしているのに、喉まで出かかっているのに、記憶から出てこようとしない。呪具と何度かシンクロしているはずなのに、いまだ別の物のように思えてしまう。
 確かに、呪具を取り外したい気持ちはあるけれど、もっと呪具のことを知りたいという気持ちもあるのだ。それが最終的に取り外す為の手がかりになろうとも、それとは別に、解りたいと思う気持ちがあるのはおかしいのだろうか。
 それでも解れないと言う事は、まだ何か足りないのだろうか。
「レイティア、魚冷めちゃうよ」
「ええ……」
 魚を食べると、内臓の部分を噛み千切ってしまったらしく、口の中に苦味が広がった。

   11

 登山二日目。馬の体力も回復し、山登りが再開された。山登りに慣れて来たのか、シディとドーゼルのペースは初日よりも上がり、日が落ちる前に一つ目の頂を越えることができた。その後、清水が湧いている場所を見つけ、そこで野営する事になる。
 お昼は前日の焼き魚を持ってきていたのでそれを食べたが、夜は食糧がなく、自然に生えていた山菜やキノコを採り、鍋をこしらえた。二人とも山菜やキノコに関しての知識があったので、毒キノコを食べる心配はない。味付けは簡素な物だったが、十分美味しい物だった。
 その日の夜、アルフは罠を仕掛けた。明日の食糧になればよいと、簡易だけれど罠をこしらえた。作り方は巧い物で、見ていて勉強になるほど。
 自分もアルフに教えてもらい罠を作った。アルフのよりできは悪いが、獲物を捕まえるのには問題ないとのこと。
 三日目朝、ワクワクしながら昨日の夜に仕掛けておいた罠を覗いてみると、アルフの罠には兎がかかっていた。しかし残念ながら、自分のには獲物はかかっていなかった。次はリベンジを果たすと意気込み、三日目の登山出発。
 一つ目の頂と二つ目の頂のちょうど間には沢が流れていたので、そこで昼の休憩になる。朝捕まえた兎の肉を食べた。やっぱり肉は滋養がつく。体力も回復し二つ目の頂に向かう。
 二つ目の頂は傾斜があり、シディとドーゼルもなかなか前に進めない。ジグザグと進みながら、なんとか五分の三は上りきった。でも、まだまだ山頂までは遠い。今日も近くの山菜などを取り、昼の残りに兎の肉と一緒に鍋に入れて、夕食。今日は疲れたので、罠作りはなし。
 そろそろ湯浴みをしたい。体がとっても臭くて嫌になる。今度池や湖があったら、水浴びでもしよう。
 それにしても、二日目三日目と登山は順調だったのだが、あまり気分は良くなかった。体調は悪くないのだけど、たまに背筋がぞくりと疼くのだ。
 杞憂だといいのだけれど。

 四日目の朝、レイセリーティアは目覚めると、やっぱりアルフに抱きかかえられるようにそこにいた。
 またやっちゃった……と顔を赤くしながらその場を離れると、少し、雰囲気が違う事に気がついた。
 アルフは既に起きていたのだが、いつもは穏やかなはずの表情が険しい。
「どうしたの?」
 と、小声で聞くと、アルフは指を上げる。
 指の先にあったのは水晶玉。一定の範囲内に、新たに人間や人間並みの大きさの動物が侵入すると、ほんのりと赤く光る魔具だ。今その魔具が、赤く光っている。
「人がいる」
「人?」
「そう、しかも十数人」
 域の魔法であたりを調べると、二人を取り囲むようにして彼らはいる。
「なんでこんな所に?」
「山賊、だね」
「山賊? そんなの聞いてないわよ」
「一応俺はトーヤから聞いたんだけど、忘れてたよ」
 覚えていたとしても、こんな広い山で遭遇するなんて夢にも思うはずがない。
 二人は静かに速やかに片付けを始め、シディ、ドーゼルに鞍を取り付けると、すぐ逃げられるように体勢を整えておく。
「取り囲まれてるって、突破口はないの?」
「もし突破できたとしても、山道に慣れてる山賊の馬と、平地用の俺たちの馬じゃ、結果は見えてると思うけど」
「それじゃあ、何もせずに指をくわえて捕まれって言う訳?」
「そういうわけじゃなくて。まいったな山賊の輪が狭まってきたね」
「どうしてアルフはそんなに冷静なのよ」
「焦ったってしかたないし、焦ったら思い浮かぶ案も思い浮かばなくなるよ」
「それは、そうだけど……」
 アルフは少し考え込むように目を閉じる。そして、目を開いた。
「捕まるかも」と、呟いた。
「アルフ!」
 レイセリーティアの悲鳴に近い叫び声と同時に、いくつもの人影が姿を現した。
 山賊たちがぞろぞろと現れて、二人の周りを囲んでゆく。手に鋭利な刃物を持ち、こちらを牽制しながら彼らは動く。
 黄緑のズボンに朱の帯、青い服に黄色いターバン。きっとこの配色は山賊に所属している事の証なのだろうが、使われている色が明るい色ばかりで、ついついセンスを疑ってしまう。当人たちはいけているとでも思っているのだろうか。
 そのセンスの悪い山賊たちは、二人をぐるりと囲み終わると、その場で動かなくなった。そのまま襲ってくるのかと思っていた二人は、次の動向を見極めるべく視線をめぐらせる。
「アルフ、どうする。このセンスの悪い山賊たちに囲まれちゃったわよ」
 センス悪い言うな! と誰かが言ったような感じもしたが、気にしない。
「どうしようか。センスの悪い山賊が襲ってくる気配もないし、見てるしかないよ」
 だからセンス悪いって言うな! お頭が決めた服なんだから仕方ないだろ! と誰かが言ったような感じもしたが、気にしない。
「センスの悪い山賊、全部で何人かしら」
「十四人、お頭って人をいれて、十五人だね」
 お頭がいけないんだ! ズボンを深緑じゃなくて黄緑なんかにするから! と誰かが言ったような感じもしたが、気にしない。
「お頭って人が来てないから、まだこのセンスの悪い山賊が襲ってこないのかしら」
「そうなのかもね。でも、これが多分この人がお頭かな……。域の魔法で調べたら、向こうの方で倒れてるんだけど」
 それを聞いた山賊の一人が、慌てて森の中へ消えてゆく。
「可哀相に、やっぱりセンスが悪いからこんな事になるのよね」
「レイティア、さっきからセンスが悪いセンスが悪いって言ってるけど、彼らは彼らなりに着こなしてると思い込んでるかもしれないんだから、センスが悪いって本当のこと言って馬鹿にしたら可哀相だよ」
 センスの悪い山賊の目つきは、服のセンスと比べ物にならないほど凶悪な物になっていた。得物をぎらつかせ、すぐにでも刺せるんだぞと脅しているように。
 貴様ら、それ以上センスが悪いと言ったら殺すぞ! と誰かが言ったような感じもしたが、気にしない。
「アルフ、どうするのよ。アルフがセンス悪いセンス悪いって連呼するから、センス悪い山賊たちが怒っちゃったわよ!」
 プチリと、ついにセンスの悪い山賊たちの堪忍袋の緒が切れた。
「てめえら! 俺らが気にしている事を何度も何度も言いやがって!」「殺す。俺の心につけた傷の痛み、晴らしてやる!」「好き勝手言ってくれたな! もう容赦しないぞ!」「所詮俺は脇役か……せめて自分の名前を言わせてくれ。俺の名前はベ」「ふはははは、手前ら殺す!」「貴様らは我々の踏んではいけないところに踏み込んでしまったのだ。身をもって思い知れ!」「切り刻んでやる!」「久々の獲物だからな……さらに俺たちの怒りを買ってしまった、貴様らは死ぬしかない!」「泣け、喚け、そして死ね!」「血の雨を降らせてやる!」
 センスの悪い山賊たちは次々にセンスの悪い怒号を上げていく。殺気があらわになり、レイセリーティアとアルフは覚悟を決めた。
「なんか、悲痛なつぶやきも聞こえたわね」
「あんまり気にしちゃいけないよ」
 体を高度に昇化させてゆく。全力を出せば致命傷を負う事はないはずだが、いかんせんこの人数差では、防ぎきれない可能性もある。アルフも域の魔法をギンギンに張り巡らせ、魔導銃を取り出すと引き金に指をかけた。もしもの時は撃つ事も辞さない構えだ。
 戦いが始まったら、シディとドーゼルの面倒は見られなくなる。勝手に安全地帯まで逃げてくれる事を祈るしかない。
 一触即発の雰囲気。誰かが少しでも動けば、そこから戦いが開始されるだろう。じりじりとお互いの間合いを計っていると、誰かの声が、そこに割り込んできた。
「手前ら待ちやがれ!」
 鶴の一声。充満していた殺気が一瞬にして晴れてしまった。
 すばらしい統率力の持ち主のようだ。二人はその声の主に視線を向ける。
 背の高い男が、山賊たちの輪に割り込んできた。アルフも背が高いほうだが、その男はそれよりも一回り大きい。筋骨隆々としている偉丈夫で、やはりセンスの悪い服を着ていたが、その豪快な体つきから放たれる威圧は並々ならない。
「まぁ待て、何を言われたかはしらねぇが、漢はそう簡単に怒っちゃならねぇもんだぜ」
 彼は筋肉がひしめく剥き出しの腕を横に振るった。腕や体の随所に数多の傷がついており、それは今までの多き功労を表していた。特に右頬に刻まれている二閃の傷は、彼の威容を一層と際立たせていた。
 その男は品定めをするように、しげしげと二人を眺める。
「手前らだな。この山を荒らしまわってるって奴は」
 男はぐいと親指を立てて、自分に向けた。
「オレの名はジャスナ=ベルゼン。ここのディン山脈を跋扈するセンサリー山賊団のリーダーだ!」
「センスわりぃ?」と、アルフ。
「センサリーだセンサリー! 間違えたら駄目だぜ。つーわけで、よろしく!」
 センサリー山賊団のリーダージャスナは、無骨な腕をぐいと前に出し、握手を求めてきた。
 でも、距離が遠い。物理的な距離もさることながら、いかんせん、ノリの距離もかけ離れているようだ。
 ふと、アルフがレイセリーティアを見ると、彼女は何も言わずに押し黙っていた。いつもならこう言う時にはガンガン発言して、相手をなし崩しにしてしまうのに、今はジャスナから隠れるように、アルフの陰で身を縮込ませている。
 どうしたの? と小声で聞いても、ただ首を横に振るだけ。気分が悪いわけでもなさそうで、アルフは困ってしまった。
「なんだぁ。握手を求められたら求め返すのが礼儀ってもんだろ?」
「そうかな?」
「そうだよ! おめえは礼儀ってもんが解ってねえな。さぁ、オレが名乗ったんだ。おめえらも名乗れ」
 相変わらずレイセリーティアは表に出てこようとしない。仕方なくアルフが答えた。
「俺の名前はアルフ。彼女の名前はレイセリーティア」
「ふむふむ。アルクにレイセ、名前覚えたぜ」
「あの、俺の名前はアルクじゃなくてアルフ……」
「ああ? どうしたアルク、何か言ったか?」
 聞く耳がないらしい。よく解らないけど、間違った名前を覚えられてしまった。
「時にアルク、お前、どうしてこんな所にいるんだ?」
「だからアルクじゃなくてアルフ……」
「うるせぇ。オレの質問に答えろ!」
 横暴である。アルフはこういう駆け引きはからっきし駄目なので、どうしようもない。
「この山を越えようとしてるんだよ」
「どうしてだ?」
「ディン山脈の東にある麓の町の橋が壊れたのは知ってるでしょ? だから、できるだけ早く目的地に着きたいから、山を登ってるんだよ」
「ちげぇよ、オレが聞いたのはそういう意味でじゃねぇ」
「どういう意味?」
「つまり、誰の許可を得て、この山を登ってるかって事だ」
 ジャスナは、ナイフをぎらつかせる。彼の体からすればナイフがおもちゃのように小さいが、威嚇の効果は相当な物があった。
 ただし、アルフには効く訳がない。
「しまったな。この山を登るのにはどこかの町の許可証が必要だったのか。かと言って今から取りに行く訳にも行かないし、そこは見逃してくれると助かるんだけど」
「そういう意味じゃねぇ!」
 思い通りに行かず、ジャスナはその巨体で地面を踏み鳴らす。
「つまり、ここは俺たちの縄張りなんだ。なんだかしらねぇが男女二人でいちゃつきながらオレ達のシマを荒らされちゃ困るって言ってんだよ!」
「ああ!」アルフは手を打ち鳴らし「じゃあ、おじゃまします」ペコリと一礼。
「いえいえ、こちらこそ粗茶しか出せませんが……って、てめぇ! オレをおちょくってんのか!?」
 ノリツッコミをしてくれているあたり、根はいい人なんだと思う。
「それで、いったい君たちの用件はなんなんだい? 言いたい事があるなら早くしてくれると嬉しいんだけど。俺たちは今すぐにでも出発したいからさ」
「ちょっと待てよ。いいか、オレらにも一応手順と言う物があってだな。それをことごとく壊してくれてるのがお前なんだぜ」
「そんな事言われても、俺はそんな手順知らないし、巻き込まれる俺たちの身にもなって欲しいと思うよ」
「だからってそれなりのテンポと言うものがあるだろ。普通はこうなるっつーものがさ」
「山賊に襲われそうになってる時点で、『普通』の行動ができる人はいないと思うよ」
「それでも、怖がるとか立ち向かうとか、選択肢は限られてくるだろ?」
「そんな事求められても、俺は俺の考え方で精一杯対処してるんだよ。そんなイレギュラーなものでも対処していくのが君たちの役目じゃないか。普通のアクションをして欲しいのなら、初めに手順を教えてくれないと」
「うーん……。なるほどな、確かそうだ。それは悪いことをしたな。オレらが勝手に決めた手順を、お前らが把握しているわけねえんだよな」
 いつの間にか、アルフが会話の主導権を握っているような気がしなくもない。レイセリーティアはアルフの後ろに隠れながらも、その会話を怪訝そうな表情で聞いている。
「よし、じゃあその手順を教えてやったら、その通りにしてくれるか?」
「それで俺たちが不利になるようなことがなければいいよ」
「その点については任せておけ。オレたちは漢の中の漢が集まったセンサリー山賊団なんだ。何があろうとそんな真似はしないぜ」
「本当かなぁ。油断させておいて、後ろから攻撃するって言う戦法じゃないの? 卑怯だと思うけど、戦法としては上策だし、引っかかったら情けないよね」
「んなことするわけねぇだろ。考えても見ろよ。本当だったら、お前らが寝ている時にも襲う事はできたんだぜ? それをわざわざ起きた時に襲ってやったんだ。解るか? オレたちは不意打ちはしねぇ。確かに多数でお前らを囲んでいるが、そりゃ逃げられねぇために仕方ねえんだ。その点は解ってくれ」
 ここまで懇願されたら、許諾するしかない。
「わかった。手順教えてよ」
「いやー、お前良い奴だな。お前みたいないい奴には初めて会ったぜ」
 いつの間にやら、談合が成立したらしい。アルフとジャスナがしばらく話し合ったと思うと「手前ら! 初めからやり直しだ!」と言って、センスの悪い山賊たちは森の中に消えていった。
「何が起きたの?」
 レイセリーティアが訊ねる。
「手順踏んで、初めからやるんだよ」
「いや、そうじゃなくて……」なんか頭が痛い。「そうだ、この隙に逃げましょうよ!」
「駄目だよ。約束しちゃったんだから」
「そんなのどうでもいいわよ。今だったら相手が油断してるわよ」
「と言っても、結局追いつかれちゃうよ。逃げた分余計不利になると思う。というか初めからレイティアが話し合ってくれれば助かったんだけどな。俺はこういう交渉は苦手だから」
「そんな事言っても……」
「どうして、今回は前に出なかったの?」
「えーとね、それは……」
 ざざっと、森の中を何かが動く気配がする。さっきのセンスの悪い盗賊団たちだ。
 先ほどと同じように、森から飛び出してくると、あっという間に二人を取り囲んだ。いつ見てもセンスの悪い服だ。
 それから少し遅れて、鋭い眼差しのジャスナが現れた。それと同時に、レイセリーティアはアルフの陰に隠れてしまう。
 レイセリーティアはジャスナが苦手なのだろうか。あのセンスの悪い服がよろしくない事は認めるけど。
 レイセリーティアが隠れたことで、手順を伝える必要はなくなった。彼女の役目は、怯えた様子でジャスナを見ていることだから。
「よう手前ら、いったい誰の許しを得て我らセンサリー山賊団の縄張りに入ってんだ?」
 アルフの役割は、基本的に何もしないこと。
「恐怖で口がうごかねえか。まあそうだろうよ。誰がどう見ても絶望的な状況さ、そうなるのも良く解るぜ」
 センスの悪い山賊たちは、にやにやと笑みを浮かべる。これも段取り。アルフは強張った表情を見せなければいけない。
「恨むんだったら手前の不幸を恨むんだな。我らセンサリー山賊団に見つかったお前らは、無事には明日の朝日を拝めないぜ」
 ジャスナは刃渡りの長いナイフに舌を這わせる。鷹のように鋭いとした目つきは、強者が弱者を狩る時のそのものだ。
「お、お前らの要求はなんなんだ」
 少し棒読みになりながら、アルフ。
「さぁて、どうしてくれようか。べつになんでもいいさ。お前らの財産でも良いし、そこの女でも良いし、……なにより、お前らの命だって構わない」
 センスの悪い山賊たちがヒューヒューとお頭をはやし立てる。絶好調だ。
「か、彼女だけは渡さないぞ!」
 アルフの言葉に、一瞬、レイセリーティアはどきりとしたが、芝居だということを思い出して首を振る。
 アルフは精一杯ジャスナを睨みつける。睨みつけると言うスキルを持ち合わせていないアルフの精一杯の演技だ。
「ふふ、このセンサリー山賊団団長、ジャスナ=ベルゼンを目の前にしてなかなかの目つきじゃねえか。気に入ったぜ」
 ジャスナは、もう完璧に自分に酔いしれている感じである。
「オレらは漢の中の漢だからな。もし手前がなさけねえ態度をとったなら、その場で無残に引きちぎってやる所だったが、その女を守りてえって言う心意気に免じて、お前にチャンスを与えてやろう」
「チャンス?」
「そうだ」
 ジャスナは、ディン山脈の頂を指差した。
「レースだ。手前のその馬と、オレの馬、どちらが速いか比べようじゃないか。目的地はあの山の頂に生えている巨木がゴールだ。嫌とは言わせねえぞ」
「……解った」
「それでこそ漢だぜ。よっしゃぁ、野郎ども、祭りの始まりだ!」
 ジャスナの声に、センスの悪い山賊たちが、一斉に沸き立った。
「……っつー風になるはずだったのよ。アルフ、よくやってくれたな」
 ようやく演技が終わり、握手を求めてきたジャスナ。今度はアルフも手を差し出した。
「レースは本当なのかい?」
「ああ、悪いな。漢相手には、勝負で決着をつけてから財産の奪いとるというのは、この盗賊団の決まり事だ。お前が良い奴でもそこだけは譲れねえよ」
「そうか……なら仕方ないね」
「安心しろ。お前らが負けても金品だけだからよ」
「それは助かるよ」
「じゃあ、昼ごろまたここにくる。それまでに準備しておけよ」
 彼は去ろうとして、一度立ち止まる。
「お前に限ってそんなことはないと思うが、逃げようとは思うなよ。オレらの仲間には域の魔法を使える奴がいるから、もし逃げてもすぐに捕まえることができるからな。そしてその時は、命まで獲るぜ」
 ぞくりと、背筋を凍らすような威圧を残し、彼は去っていった。これが本来の彼の雰囲気なのだろう。
 ジャスナの後を追うようにして、センスの悪い山賊たちも去ってゆく。その姿が見えなくなったことを確認してから、レイセリーティアは言った。
「本当に、レース受けるの?」
「受けるしかないと思うよ。喧嘩をしても多勢に無勢だし、森の中だから、君の火の魔法も使いにくいし、土の魔法もどこまで有効かは解らないよ」
「だって、レースと言っても、地の利は相手にあるのよ」
「解ってるよ」
 アルフはいつもの優しい表情で答える。
「それでも、域の魔法を使えば何とかなるよ。ドーゼルだってやる気は満々だしさ」
 ドーゼルを撫でてやると、意気揚々に鳴いた。
「レイティアは俺のこと信用できない?」
「そうは言ってないわよ。……だけど、何か嫌な予感がするのよ」
 初日から、詳しく言えば夜のあの出来事が起きてから、ずっと続いている、漠然とした胸騒ぎ。それは、振り払おうにも決して離れることはない。
「登山初日、呪具が騒いだでしょ。絶対何かあるのよ。呪具の魂が伝の能力を持っているのだとしたら、尚更」
 心配そうに俯いている彼女の頭に、ぽんと手を置いて、彼は言った。
「大丈夫。レイティアが危ない目に遭いそうになったら、レース放棄してでも助けに行くよ」
 嬉しい台詞だけれど、論点が違う。彼女は顔を上げて叫ぶ。
「私はアルフの心配をしてるの!」
「あれ?」
 彼女はため息をついた。アルフはこれが素だから難しい所だ。
 レイセリーティアはアルフの瞳を見て「気を付けてよね」と言った。
「大丈夫」と、アルフは微笑みながら言葉を返した。

「このレースのルールは簡単、ディン山脈の頂上に先に到達することだ!」
 センスの悪い山賊団の一人が大声で叫ぶ。それにあわせて、他の団員たちも沸き立った。その興奮は山全体を包み込んでいる。
「山脈のてっぺんに生え立つ巨木、大杉が目的地! ここが栄光のゴールだ!」
 センスの悪い盗賊団員は、体全体を使って、その杉を指差した。
 ここからでも望めるその巨木。ディン山脈ができたときから生えていると言う大杉は、レースのゴールに相応しい物である。
「それでは選手紹介。まずは挑戦者、アルク=アリオストロ!」
 アルフはドーゼルの手入れをしている所だった。いきなり点呼されたので、アルフは少しビックリした表情でこちらの集団を見る。
「やっぱりアルクなのね……」
 レイセリーティアは集団の端の方に交じり、レース開催の演説を聞いていた。このままアルクで通ってしまうのではないかと心配している。
「彼の属性は土。使える魔法はなんとあの稀少な域の魔法のみ! しかもランクS+++だ! うちの副団長が域の魔法を使えるとは言えランクは低い。ランクS+++だと、いったいどこまで把握することが出来るのか、我々には想像もできないが、ただ一つ聞いてみたい! 女性の服の下を把握することができるのですか!?」
 また唐突に話をふられたので、アルフが戸惑っているのが手にとるように解る。
「えっと…解るには解るんだけど、そういう細かな部分を把握するにはかなりの魔力が必要だから、はっきり言って意味がないと言うか徒労と言うか……」
「全力を尽くせば裸体が手にとるように解るらしいです! 素晴らしい属性域!」
 アルフはその盛り上がりについていけず、自分の準備に没頭する。なぜかここの集団ではアルクコールが起こっていた。手を打ち鳴らしながら、アルク、アルクと叫び続ける。
 あまりの五月蝿さに、レイセリーティアは耳を塞いだ。
 と言うか、女がいる前で、女性の裸体の話をしないで欲しい。
「おぉっと、失礼しました。こちらには貴婦人がいらっしゃいました。下品な話はこれで終わりにしましょう。それにしてもこちらの女性、とても美しいです。まるで彫刻が生きているかのような美しさだ! 名前は……」
「レイセリーティアよ」
「レイセリーティア。いい名前だ! そしてまさにお嬢様といった格の違う名前だ! いくら身にまとう服が質素でも、放つオーラは隠せないぞぉぉ!」
 今度はレイセコールが始まった。本当に五月蝿い。無駄にテンションが高い。そして服のセンスが悪い。
 彼女は身を固くしながら、その場をやり過ごす。
「レイセを見ていたい気持ちは良く解りますが、しかし挑戦者の紹介に戻ります! こんな美しい女性を連れて旅をしていた理由は解りませんが、この山を越えられる度量があるアルク! そして先ほども申し上げましたように域の魔法! さらにこの馬! 見てください、引き締まった体に流れるような鬣! この馬は登山に向いていないとの事ですが、しかし我々を興奮に引きずり込むような勝負を見せてくれるはずです! アルクは少々貧弱な体つきとしまりのない顔つき、まさにインドア派と言うような眼鏡をしていますが、勝つ可能性がないわけではありません! 善戦に期待しましょう!」
 拍手と共に歓声が沸き起こった。何が善戦よ、と悪態をつきたかったが、無意味な事だし、どうせ歓声にかき消されるのでやめた。
「そして次は、我らがリーダー、ジャスナ=ベルゼン!」
 ジャスナの名前が出ると、先ほどとは比べ物にならないくらいの歓声があたりを包み込んだ。レイセリーティアはその辺に落ちていた葉っぱで簡易耳栓を作ると、穴に押し込んで、不快軽減に努める。
 こっちはこっちで五月蝿いが、ジャスナはジャスナで岩の上に登り、モデルよろしくポーズを取っていた。ポーズは良くても、服のセンスが悪いから駄目駄目である。
「お頭の属性はご存知のように雷! 使用できる魔法は雷と強! 雷は残念ながらたいした威力を持たないが、強はとんでもないランクを誇る! なんとS+++だ!」
 強とは、付与魔法の中に入る属性の一つ。自分の体の硬度を上げる、または筋力を一時的に増強させるなど、自分自身の体に直接影響を与えるのが特徴だ。
 ジャスナは岩の上で、ふんっと鼻から息を漏らし、筋肉を盛り上がらせる。それだけでも十分なのに、彼はさらに強の魔法を使った。
 隆々としていた筋肉がさらに膨れ上がる。直径二十センチにも膨張した腕を凝視する事ができず、レイセリーティアは目をそらした。
 あそこまでいくと、センスの悪い服とあいまって、とても気持ち悪い。
 そんな彼女に反し、センスの悪い盗賊団はさらなるヒートアップを見せる。
「我らがリーダー、ジャスナ=右頬に刻まれている二閃傷の由来を知りたいかぁ!」
「おおぉぉぉぉお!」
 彼女にとっては、心底どうでも良いことである。
「それはまず、お頭の幼少時代から語らなければいけない。お頭は貧しいながら幸せな家に生まれ、日々を過ごしていた。母の名前はメルシー、父の名前はケイン。お金はなかったけど、そこには幸せがあった。優しい母の温もりと、陽気な父の笑顔。何もなかった。けれど彼は愛に満ちあふれていた。絞ったら甘いチョコレートができてしまうほど、彼は甘い甘い愛を一身に受けていた。家の周りでは、小川がせせらぎ、蝶が舞い鳥が囁き命が芽吹き四季折々の景色を映し出してゆく。それを眺めながら、彼はすくすくと育っていった。しかしある日、突然彼の家に不幸が訪れる――」
 初めから聞く気はなく、彼女は五月蝿い声を聞き流していく。
「こうして、幼少からのライバルとの決着をつけた彼は、しかしライバルの手をとった。驚いた声でライバルが言う。『馬鹿な。負けた俺に手を差し伸べるのか』彼ははにかんで答えた。『当たり前じゃないか。お前はライバルであり、親友なんだ』右の頬から滴る血を拭う事もなく、彼はライバルが立ち上がるのを待っていた――」
 長い。まだ一閃しか傷を負ってない。面倒だから、バナナの皮で滑って転んで、手っ取り早くもう一つ傷をつけて欲しい。
「葛藤から逃れる事ができなかった彼は、山賊団に入ることを決意する。それがこのセンサリー山賊団入団のきっかけであり、彼の師とも呼べる人物との出会いだった――」
 まだ続く。眠くなってきた。
「しかし、平和の続いた盗賊団も、そう長くは続かなかった。なんと盗賊団が真っ二つに割れてしまったのである。原因は戴いた金品の分割方法の不服からだった――」
 まだまだ続く。
「彼は師とまで仰いだ男と決着をつけることになった。これもセンサリー山賊団を一つにする為の戦いだった。お互いに負けることはできなかった。最悪、どちらかが死に至ろうとも――」
 皆、その劇的な展開に固唾を飲んで、真剣に話に聞き入ってた。だけどレイセリーティアには関係ないことで、あまりにも暇だったから、自分の髪で三つ編みを作ることにした。癖がつくのであまりやりたくないが、する事がないのだから仕方ない。
「そして、彼は遂に師を打ち倒した。ようやく山賊団は一つになったのだ。だが彼は大切な物を失った。師とまで仰いだ男を、自らの手で殺してしまったと言う罪悪感が彼を襲った。しかし、彼の師は、死ぬ間際まで彼の師であった。『ぼうず、気に病んではいけない。勝者の顔を俺に見せろ』彼は顔をあげる。師の顔は、とても穏やかだった。『血だらけになりやがって、いい顔してるじゃねえか』師は彼の顔に手を添えた。彼の右頬からは、師がつけた二閃目の傷から、鮮血が流れ出している。『いいか、ぼうず。これからは手前がこの団のリーダーだ。決してくじけるんじゃねえぞ。俺を倒した事を誇りに思え』師は死ぬ直前に、笑った。『後は頼んだぞ、ジャスナ』師は息絶えた。彼は絶叫し、涙を流した。師はそれでも笑んでいた。師はその時初めて彼の名前を呼んだ。そう、それは、彼を一人前と認めた証拠なのだ……」
 ようやく終わった。かれこれ一時間以上経過している。
 彼女にとっては説法にも劣る稚拙な話だったのだが、センスの悪い山賊たちは涙を流して、その物語の終わりを聞いていた。
 なぜか、当の本人であるジャスナも涙を流している。
「えー……ご清聴ありがとうございました。ちなみに、この物語は八割がフィクションで構成されています」
 もう、突っ込む気力もなくなっていた。
 いい加減、彼女は辟易していた。レースを始めるならとっとと始めて欲しい。
 彼女の願いが届いたのか、ようやく展開が先に進もうとしていた。
「さぁ、ではお頭のご紹介! まず見るべきは強靭な肉体! その肉体は木を砕き岩を穿ち空気を切り裂く! そして肉体に宿る精神は正に不屈! 体が壊れようとも、けっして折れない心を持つお頭は、誰にも負けるはずがない! 雷の魔法で牽制し、強の魔法で一気に畳み掛けるお頭のスタイルは、正にバッファロー! 決して止める事のできない快進撃で、この勝負も決めてしまうのか! いけお頭! 負けるなお頭! 俺たちはお頭の勝利を確信している!」
 センスの悪い盗賊たちはスタンディングオベーションだ。残念ながら、レイセリーティアはその輪に加わっていない。完全な第三者、冷めた目でその光景を見つめている。
「さぁ、レースを前に一言意気込み言ってもらいましょう。まずは挑戦者のアルクさんどうぞ」
 アルフもそのノリについていけず、かと言って、もうやる事もなくなっていたので、近くの石に腰を下ろしていた。また話をふられたアルフは、渋々答える。
「まぁそれなりに頑張るよ。それはそうと、俺の名前はアルクじゃなくて――」
「はい、ありがとうございました。挑戦者のアルクさんの発言でした!」
 アルフは首を小さく横に振り、ため息をついた。子供の嫌がらせに近いものがある。
「では、お頭にもコメントをいただきましょう!」
 ジャスナは大きな岩に乗ると、自称カッコいいポーズをとる。センスの悪い盗賊団は急に静かになって、ジャスナの言葉を待つ。
「オレは、今までに、数々の勝負を繰り広げてきた。ライバルとの戦いもあった、師とまで仰いだ人物との戦いもあった、縄張りを得るための抗争もあった、オレは何度も何度も激闘を繰り広げ、そしてすべての戦いで勝利をもぎ取ってきた! この勝負も変わる事はない。その数々の記録の中に埋もれていく勝負にするために、オレは全力を尽くす!」
 わぁぁぁぁっ、と、今までで一番大きい歓声が響いた。
「両者ありがとうございます。それではルールをもう一度だけ。自分が育て上げた愛馬に乗り、先に山の頂、あの大杉に辿り着いた方が勝者となります。その際、相手を妨害する事もOKとなっておりますので、賢さも必要となってきます。所持している道具は好きなだけ使っても問題はありません。ちなみに、相手を直接攻撃することは禁止されていますので、これは遵守してください。いかに相手の進路を塞ぐかが鍵となって来るでしょう」
 妨害も可能なんて、今聞いたルールだ。妨害も可能となると、地の利のないアルフは断然不利となる。そもそも、アルフが相手を妨害するためには弾数制限のある魔導銃や、用途が微妙な魔具を使うしかない。明らかにアルフが不利だ。
「この勝負にかかっているのはアルクとレイセの所持金すべて。旅をしていたらしいので、その所持額は結構な量だ! お頭が万が一負けてもペナルティーは無し! 命を取らないだけありがたいと思えよ! では双方、騎乗して用意をしてください!」
 アルフとジャスナは馬にまたがり、手綱をぎゅっと握り締めた。二人は同じラインに並び、レースの始まりを今か今かと待ち構えている。
 レイセリーティアは、心配そうな表情で、アルフの後ろ姿を見つめていた。
 負けることは問題じゃない。もしアルフが負けたときは、この場にいる全員をのしてしまえば良いのだから。
 そんなことじゃなくて、この漠然とした不安が、アルフを襲いそうで、アルフを傷つけそうで。
 ただ、彼の無事を祈る。
「それでは両者、準備はよろしいですね!」
 両者待ったの声はない。センスの悪い山賊団員は、大声でそれを告げた。
「レディ、ゴー!」

   12

 アルフはドーゼルを走らせていた。木々の間を潜り抜け、さらに速度を上げてゆく。足場も悪く、曲がりくねった獣道だが、懸命に前へ進んでゆく。
 地の利もない、相手を妨害する手立ても少ない、さらに馬のドーゼルは登山なれをしていない。これ以上とないハンデを背負っているアルフだが、その厳しい眼差しは、勝負を諦めている訳ではなさそうだ。
 コースの概容を説明すると、最初は森の中だ。獣道ではあるが、覆い茂った草木を掻き分けながら進むしかない。レース序盤と言えど、複雑な道を通ることになり、いきなりの難関だ。
 そして中盤。巨大な崖が聳え立つここは、岩がゴロゴロしており、足場が非常に悪くなっている。自然にできた巨大アスレチックで、崖を登る道をいかに早く確保するかがポイントとなる。
 そして終盤、今度はまた森の中に入る。急な坂道ではあるけれど、木々は少なくなっているため、スピード勝負になる。そこを抜けると、草と大杉しか生えていない開けた場所に出る。そこがゴールだ。
 域の魔法を使い常にゴールを捉えつつ、アルフはジャスナの五十メートル後方を疾走していた。つかず離れず、この距離をずっと保ち続けている。
 追いつきたいのはやまやまだが、アルフはそんな立場ではなかった。この距離を離されないのに精一杯で、追い抜かすなど考える事もできない。  ドン! と前方で衝撃音が聞こえた。それとともに、道に木が倒れこんでくる。
 ジャスナは強の魔法で筋力を強化し、周りにある木を定期的に打ち砕いてくる。この妨害は的確で、アルフがそこを通るまさにその瞬間に道に倒れこんでくるのだ。
 木を避ける為に、アルフは一度道を反れ、それから獣道へと戻る。
 その間に、さらに差は開いてしまった。ジャスナはアルフのテンポを確実に崩してくる。距離を縮め、スピードが乗り切る直前に、また木が倒れこんできた。
 アルフは耐える。今は勝負する時ではない。
 まだレースは序盤、決して焦る事はない。今は森の中で道が複雑な為、ジャスナの後をついていった方が安全に、かつ迅速に通り抜けられるはずだ。
 しかし、このまま遅れた状態で森を抜けても、勝機があるとは思えない。後手後手を踏んでいては、勝てる勝負も勝てなくなる。
 右に九十度、大きく曲がった。ドーゼルは小回りが利かず、曲がり道の度に遅れをとる。アルフの技術である程度カバーするが、また差が広がってしまった。
 スピードを上げ、差が縮まった瞬間、また木が倒れこんでくる。
 アルフは木を避ける。そして差は広がる。流石のアルフも歯噛みをした。
 馬の操作技術力に圧倒的な差があった。平地での技術なら負けることはないだろうが、ここは山。必要とするテクニックは平地と全く違う。ジャスナは馬の特徴と山の特徴を見事に掴み、悠然とリードを奪っている。山を走り抜ける為の技術は、一朝一夕で身につけられるものではない。
 圧倒的不利なのは承知。それでもスピードではこちらが勝っている。その長所を生かす事ができなければ、この勝負は負けてしまう。
 しばらくして、今度は左に大きく曲がった。アルフは域の魔法で頭の中に地図を作り出す。ここからの道は長い直線、かなり後まで曲がり道はない。勝負をかけるならここだ。
 その時、また木が倒れてきた。アルフは少々スピードを落として、木が倒れきるのを待ってから、かろやかに飛び越した。その間にも差は開いてゆく。
 アルフはスピードを上げた。じりじりと差を詰める。まだトップスピードにはしない。タイミングを掴むために、神経を集中させた。ジャスナは的確にこちらのタイミングを掴んでくる。アルフのテンポを知っている。だからそれを利用して、ジャスナのタイミングを掴んでしまえばよい。
 今だ! と、アルフはドーゼルを鞭で叩いた。ぐんと体が持っていかれそうなほどの加速、一気にトップスピードまで持っていった。
 その急激な加速は、ジャスナのタイミングを狂わせた。木を倒すのが一瞬だけ遅れてしまったのだ。
 その隙をついて、アルフはさらにドーゼルをに鞭を入れる。めきめきと音を立てて地に伏そうとしている大木におののくことなく、速度を最高速まで上げた彼らは、倒れ来る木の下を通り抜けてしまった。
 マックススピードで直線となればこちらの物。ジャスナとの差は瞬く間に縮まっていく。
 ジャスナもこれは予想外だったらしく、計画を変更する事を余儀なくされた。今、木を倒しても、アルフの頭上を通過するだけで障害になることはない。
 アルフがジャスナの背中を捕まえようとした時、ジャスナは馬の尻をふらせ、アルフの進路を妨害した。こうなってはアルフも先に行くことができず、スピードを落とすしかなくなった。
 それでも差は数メートルに縮まっていた。この距離ならば、煩わしい妨害はできないはずだ。
 猛スピードで駆け抜けてゆく中、ジャスナが話し掛けてくる。
「アルク、おめえなかなかやるなぁ」
「苦労したよ。木を避けるのは厄介だから、できればもうやめて欲しいんだけど」
「はっはっは、そうはいかねえな。相手が嫌がってくれるなら、妨害のし甲斐があるってもんだ」
「俺も妨害してみたいな。どう? 少しだけ前にいかせてくれない?」
「いーぜぇ。ただし、オレを抜く事ができたらな」
 荒く細い道を、全速で駆けて行く二人。ほんの一瞬の油断が大怪我に繋がると言うのに、二人は余裕で言葉を交わしてゆく。
 急な曲がり道が現れる。アルフはスピードを上げて、ジャスナとの距離をできるだけ縮めておく。そして曲がり道に差し掛かる直前に急減速して、すぐさま方向転換、そしてまたスピードを上げてゆく。
 差が十数メートルほどに開いたが、これぐらいの距離なら妨害は難しい。速度を上げて、またジャスナの後ろについた。
「なぁ」と、ジャスナが話し掛けてくる。
「おめえ、どうして旅に出てるんだ? 単なる旅行か?」
「話すと長くなるんだけど……それに、できれば口外したくない理由ではあるかな」
 呪具の存在を知っている人は少ないけれど、その強力な魔力を欲している人は必ずいる。無用なトラブルを避ける為に、なるべく情報を漏らしたくないのだ。
「秘密の旅行ってか。まぁ、詮索するつもりはねぇけどよ。おめえらも運がねえな」
「自分から襲っておいて、良く言うよ」
「まぁまぁ、確かにおめえらは運が無かったが、その中では運がいいほうなんだぜ。遭遇した山賊団がオレらだったからな」
「どういうことだい?」
 また曲がり道だ。しかし緩やかなカーブで、あまりスピードは落とさずにすんだ。
「ディン山脈にはいくつかの山賊団グループがあってな。その中で一番強くて偉大なグループがオレらのグループなんだが、オレらグループは好んで殺しをしないって有名でな。金品は根こそぎ奪うが、人に危害を加える事はねぇ。まぁ当然、時と場合によるけどな。つまり、他のグループに先に見つかってたら、もうすでに手前の命は無かったかもしれないって事だよ」
 彼が言いたいのは、不幸中の幸いということだろうか。
「山賊団員はお前のことを弱い眼鏡と思ってるみてえだが、そんなこたぁねえよな。オレも初めはそう思ったが、今の目つきは勝負師の目つきだ」
「そう? 俺はそんなつもり全然ないけど」
「ったく、謙遜しやがって。まぁ、お前だけだったらオレらから逃げられたのかも知れねえけどな。だけど、いくらお前でも女一人庇って戦うのは無理だろ。この勝負を受けたのは懸命だぜ」
 アルフは思わずきょとんとしてしまった。
「女って、レイセリーティアの事?」
「女って言ったら、そのレイセって奴しかいないだろ?」
「それはそうだけど」
 確かに、彼女の姿を見て、凶悪な魔法を使えるとは誰も思わないだろう。
 強大な魔力を持っていると、その魔力をコントロールしきれずに、絶えず魔力の漏洩が起こり、それがオーラとして周りに威圧を与える為、そこから強さを推し計る事ができる。
 現に、ジャスナの体には巨大なオーラがまとわりついていた。山賊団のリーダーを務めているだけあり、強さは半端ではないようだ。
 しかし、最近のレイセリーティアは違う。
 昔は魔力のコントロールが不十分だった為、強者のオーラが出ていたのだが、今は呪具をはめてしまった事から、無意識の内に魔力をコントロールしているらしく、魔力漏洩が著しく少ない。
 真に強い者はオーラが全くでないというから、彼女にとって、この呪具装備はいい訓練になっているのかもしれない。
 レイティアは強いよ、と発言しようとしたが、道が蛇行したため、馬の操作に集中した。
 カーブもあいまって複雑な技術を要求されたが、なんとかその場をやり過ごし、またしばらく直線が続く。
「にしても、レイセってかなりの美人だよな。おめえの恋人か? 妻か?」
「どっちも違うよ」
「じゃああれだろ。レイセはどこかのお嬢様で、しかしお前の身分は一般人、決して結ばれる事のない恋、だからお前はレイセを連れ出して旅に出たんだ!」
「いや、だからそれ以前にそういう仲じゃないって」
「いい線いってると思ったんだけどなぁ」
 それでも、アルフが旅に出ることを提案して、レイセリーティアは家出同然に飛び出してきたのだから、傍から見ると、ジャスナの想像通り立派な駆け落ちである。
 そんなこと、当の本人たちは全く気付いていないのだが。
「レイセに恋人とかはいるのか?」
「いなかっと思うよ」
「つーことはフリーってことか。それでおめえらが恋仲じゃないとすれば、レイセをオレの物にするチャンスはあるわけだな」
「それはあるけど、止めといた方がいいと思うよ」
「どうしてだ?」
「レイティアは結構いい性格してるから」
「そぉかぁ? かなり大人しそうだったじゃねえか」
 彼の言うとおり、彼の前では大人しい……と言うより、ジャスナ自体を避けている感じがあった。他の山賊団員とは二言三言会話を交わしていたみたいだが、ジャスナとは視線すら合わせようとしない。
「そうなんだよね、ジャスナの前ではなぜか大人しかったんだよ」
「それはあれだな、オレの魅力に酔っちまったんだな」
「そうかなぁ」
 ジャスナを嫌っていると言う感じではなかった。かと言ってジャスナの意見は彼女の性格上ありえない。後できちんと聞いてみることとしよう。
「なあ、アルクはレイセのこと好きなのか?」
「好きだよ」  アルフの好きはライクだったが、ジャスナの好きはラブの方だった。この場合、この場の空気を読めなかったアルフも悪いし、アルフの性格を掴めなかったジャスナも悪い。
 食い違ったまま、話は進んでゆく。
「かーっ、お前はレイセを好きなのに恋仲じゃねえのか。理由はしらねえが、二人きりの旅ができるような仲なのに、いったいおめえはなに考えてるんだ?」
 特に何も考えていないと言うのが正解。そもそも互いの見解がずれた状態での意見だから、アルフはジャスナの言わんとしていることがよく解っていない。
「いいかアルク、好きって気持ちを言葉や態度であらわさないと、絶対女ってのはきづかねぇ。特にレイセはお嬢でそういうのに鈍感そうだから、少し強引なぐらいがちょうどいいと思うぜ。いきなり背後から抱き締めたりするのは効果的だと思うぜ。特に相手が寂しそうにしている時や辛そうにしている時なんて、特に有効打を与えられる。当然相手からもある程度好かれている事が条件だが、まぁお前らだったらその点は問題ねえだろう」
 妙齢の美女が二人きりの旅を許すなんて、相手の男に体を許したも同然なのだが、絶対と言う訳ではない。昔一度そう思い込んで失敗した経験があるから、いきなり押し倒すのだけは止めた方がいい。
「嫌われちまったら終わりだからな。抱き締めるだけにしておけばよかったぜ。いい女だったのになぁ……」
 なにやら前方で嘆きの声をあげているジャスナ。昔、手痛いミスを犯したことがあったのだろうか。
 それぐらいはアルフも理解したが、しかし全体の内容を把握できていない。好きだったら抱き締めろと言うことだろうか。でもそんな事をして何か意味があるのだろうか。
 未だ疑問符を浮かべているアルフに、ジャスナは諭すように言った。
「いいかアルク……強引なアプローチも必要だが、加減も必要だぜ。特にそういう時はお熱になってる時だからよ、慎重にいかねえとな……」
「解ったよ」
 よく解らないが、慎重にやれと言うことだろう。
 またぐんと大きくカーブする。それを抜けると、ジャスナは先ほどと打って変わり、気合いの入った声を出す。
「さぁ! アルク、雑談は終わりだ! こっからはまた勝負に戻るぜ!」
 宣言をせずに不意打ちをすれば効果的なのに。ジャスナはそういう汚い事が嫌いな男なのだろう。
 アルフも気を引き締めて、勝負に集中する。  域の魔法をかざすと、ジャスナが雷の魔法を放つ準備をしているのが解った。馬や相手に対する直接攻撃は禁止である以上、それで妨害できるとは考えにくい。
 瞬間、ジャスナは雷を放った。
 パァン! と、風船を割ったような音が響き、地面にあった小石が弾け跳ぶ。その音に驚き、ドーゼルは前足を上げて立ち止まってしまった。暴れるドーゼルを乗りこなし落馬せずに済んだが、その一瞬の遅れは深刻で、大幅にジャスナとの差がついてしまった。
「やるなぁ」
 ジャスナとアルフの中間あたりの小石に雷を放ち、爆発させ炸裂音を響かせる事で、アルフの馬は驚きスピードが落ち、ジャスナの馬は驚いて前方にさらに加速すると言う二つの効果を生み出したわけだ。
 アルフは感心する間もなく、馬を走らせる。
 また木を倒す妨害が始まる。同じ失敗を繰り返したくない心理が働いているのか、木が倒れてくるタイミングが早かった。ただそれでも、アルフのテンポを狂わすのには十分だった。
 妨害できないというハンデは背負っているが、なんとか勝機を見出さなければいけない。
 アルフは手を魔導銃に添えた。これの使い時が、勝負を決めるだろう。
 ジャスナの背中を見つめつつ、ドーゼルに鞭を入れ、加速していった。

「くしゅん」
 と、レイセリーティアは鼻をこする。
「誰かに噂されてるのかしら……」
 噂される当てなら腐るほどある。特に、置手紙はあれど断りなく飛び出してきてしまったので、家族や家の者にはされまくりだろう。
(お父様はお冠なんでしょうね……)
 説明をすれば断られるのが解っていたから、書置きだけにしたのだけど、帰った時が恐ろしい。謹慎ならまだ軽い方だけど、もしかしたら、身を固めてないからフラフラするんだとか言われて、どこか貴族のデブお坊ちゃまと婚約させられてしまうかもしれない。
 想像しただけで身の毛がよだった。帰宅時に憂鬱なイベントが待ち受けてると解ると、あっさり呪具が外れてしまうのが嫌になってくる。
「どこか気分悪いのか?」
 と、センスの悪い山賊団の一人が話し掛けてくる。
「いえ、別に」
 彼は副団長のベーゼ。この団の中で域の魔法が使えるという人物である。そしてセンスの悪い服を着ている。
「いくら脇役でも、副団長だと名前言えるんだな……」
 と、感慨深げに彼がつぶやいたが、気にしない。
 レイセリーティアとセンスの悪い盗賊団たちは、アルフとジャスナが疾走して行った獣道を馬に乗り辿っていた。先頭は誰か知らないが、一番後ろにレイセリーティアがいて、その隣りにベーゼがいた。彼はレイセリーティアの見張り役ということだろう。
 彼女の馬シディは、自分が先頭にいないことが悔しいらしくて、スピードを上げようと懇願してくるのだが、レイセリーティアはそれを許さない。勝手な行動は周りが許さないだろうし、何より、この森の中は走るのに向いていないから。
 さっきから道に木が倒れていた。ベーゼによるとジャスナが木を打ち倒して、アルフの進路妨害をしていたらしい。木の切断面を見ると、粉々に粉砕されたような傷跡で、ジャスナが使える魔法から推察すると、強の魔法で強化された腕を使い、ぶち壊したとしか考えられない。自分の盾の魔法を使ったとしても、この一撃を防ぎきれるかは疑問だ。
「お頭の本気の一撃はヤバいよ。俺も見たことはないんだけどさ、岩を粉砕できるって話」
 彼女の考えている事を察したのか、ベーゼは言った。
 今回、彼は彼女の見張りの他に、レース実況を任されている。この中で域の魔法を唯一使えるのだから当然である。しかし、レース実況役といっても、彼は大声を出すのが苦手らしく、前を歩いている他の団員に報告をして、その団員が全体に情報を伝えていた。
 彼が副団長に選ばれたのも、強さや魅力よりも、情報収集から来る的確な統率力が優先されたということだろう。他の団員も彼の事は認めているらしく、この配置を決めたのは彼で、誰も文句を言わなかった。
 今さっき、ベーゼからレース情報が入った。
 アルフがジャスナに肉薄したが、また離されてしまったと言う情報だ。センスの悪い盗賊団たちは歓声を上げたが、はっきり言って不愉快である。
 ベーゼの使える域の魔法のランクはC。アルフのように詳らかに状況が把握できるわけではない。今のなんて、アルフの馬が暴れたからジャスナに離された、と説明されただけで終わってしまった。
 センスの悪い盗賊団たちはアルフの馬乗りの技術を馬鹿にしていたが、アルフとドーゼルに限ってそんなことは考えにくく、ジャスナが妨害したとしか思えなかった。
「お頭について行けるだけでも十分凄いんだけどな」
「そうなの?」
「ああ、お頭はこの団の中ではもちろんのこと、ここら一帯では一番の乗り手さ」
 アルフ相手にリードを奪っているのだから、そんなことは容易に想像できる。これ以上聞きたい事もないので、彼女は口を閉じた。
 ざわつきが酷い。胸騒ぎがする。
 右手薬指に佇んでいる指輪が、何かを訴えているような気がする。背中に絶えず寒気が走り、動悸が警鐘を鳴らしているかのように早い。
 気分も優れない。全身から汗が噴いているのに、体は凍てつき冷え切っている。
「レイセ、お前本当に大丈夫なのか?」
「平気よ」
 体の不調は、魔力の乱れから来る物だと解っている。
「折角心配してやってるんだから、少しぐらい可愛げ見せなよ。心なしか俺たちの事嫌ってないか?」
「当たり前でしょ。あなたたちは山賊で、私たちからお金を巻き上げようとしてるし、なにより、今までにたくさんの人を殺してきたんでしょ。馴れ合えるわけないじゃない」
「……それもそうだな」
 ベーゼは少し考え込むように腕を組む。
「まぁ、お前らからお金を取ろうとしていることは弁解できないけど、殺しの部分については言い訳させてもらうぜ。俺らは決して好んで殺しをしない。相手が俺らの命を狙ってきたり、汚い性格をしている奴は別だけどな。――あと、センス悪いってのは禁句だ。これを言ったら最後、殺されても文句は言えない。と言うか、お前らさっき危なかったぞ。お頭が止めなかったら確実に殺ってたと思う」
(やっぱり気にしてたのね……)と、心の中でつぶやく。
「まぁ、つまり、普通の奴を殺したりしないし、女性に対して暴行したりもしない。普通の賊だったら、お前は今頃レイプされて殺されてたかもな」
「その点は問題ないわ。そんなことになる前に、相手を焼却処分するもの」
「焼却処分か、そりゃ勇ましいな」
 彼はまるで信じていない口ぶりで笑った。
 焼却なんて簡単にできる、むしろ滅却してやれることを証明しても良かったのだが、別に信じてくれなくても問題はないし、何より今はそんな気分じゃない。
「とにかく、どんな理由があっても、人殺しは好きじゃないわ」
「手厳しいねぇ。でもよ、殺らなきゃ殺られる時だって、山賊やってると出てくるからな。レイセだって旅してるんだから、そういう場面が出てくるかもしれないぜ」
 その論理は間違ってはいない。もし今、一緒に歩いているセンスの悪い山賊たちが一斉に襲ってくることになったら、誰も殺さずに退けるなんて不可能に近い。少しでも手を抜いたら、逆にこちらが殺られてしまう状況では、誰も殺さないなんて温い事を言っている暇はないのだろう。
「あなたたちみたいな山賊がいなくなれば、そんな心配をする必要はなくなるわよ」
「参った、これは一本取られた」
 何が楽しいのか、笑い出したベーゼ。むすっとしていた彼女も、つられて笑った。
 想像していたほど、この人たちは悪い人間ではないのだろう。殺伐とした雰囲気をもっているわけでもなければ、団結力があり時に誠実そうな一面も見せる。まぁ、センスが悪いとさえ言わなければだが。
 結局、彼らを避けていた理由の一つには先入観があるのだ。山賊団は危険で野蛮で避けるべき対象、そんなイメージを抱かない訳はない。だが、先入観を一概に悪いとは言えないだろう。もし彼らがすぐ人を殺すような山賊団だったとしたら、先入観のおかげで対応がしやすくなり、それが正しかった事になるのだから。
 と、他のセンスの悪い山賊団員がこちらを見ている事に気がついた。何となく恨みがましそうな目つきである。
「おい、ベーゼ。何レイセと仲良くなってんだよ」
「確かに副団長にレイセの隣りを譲りはしましたが、決して仲良く会話する事は認めてませんぜ」
「そうだそうだ!」
 前方からブーイングがとんでくる。
「副団長、そろそろ配列変えをいかがですかねぇ?」
「俺レイセの隣りな」
「ざけんなっ! 俺に決まってるだろ!」
 前方で、てんやわんやの口喧嘩が勃発した。
 初めはレイセの隣りは誰になるかと言う事で喧嘩していた彼らだったが、徐々にただの罵倒の飛ばしあいになる。特に一番酷い場所は先頭グループで、子供には聞かせられないようなワードが満載だ。
 レイセリーティアは呆然とその様子を見つめていた。その隣りで、副団長のベーゼは得意げに告げた。
「うちの団の中で、重度の女好きとか、口が悪い奴とか、そういう問題児を前方に配置したんだ。俺の配列方法は正しかったと思うだろ?」
「副団長! そりゃ酷いっすよ!?」
 列前方の団員は絶叫した。列後方にいる団員は頷くだけである。その様子にレイセリーティアは笑い、ベーゼも笑い、そして全員が笑い声を上げた。
「ねえ、二人は今どこら辺にいるのかしら?」
 笑いが収まり、彼女はベーゼに尋ねる。
「さて」域の魔法を発動させ、二人の姿を追う。「そろそろ、お頭とアルクが崖下に突入するな」
 アルフがこのまま負けるとは思わないのだが、晴れる事のないもやが彼女を包む。体の調子が悪いせいではなく、第六感のようなが、彼女にそう告げる。
(なんだろう、この胸騒ぎ)
 レイセリーティアは物憂げに空を見上げた。
 同じ空の下、ジャスナリードのままで第二ラウンド突入。

   13

 森が終わる。前方では光の塊が二人を迎えていた。木々も減り始め、地面が腐葉土ではなく砂利混じりの土に変わってきている。
 変化に気を取られている隙を狙うべく、ジャスナは容赦なく木を打ち倒してきた。しかし木が少なくなって来た状況では獣道から反れても減速は少なく、あまり効果的ではなかった。
 ジャスナが先に光の中へ飛び込んだ。遅れて、アルフも光の中に突入する。
 光の量が増え、アルフは目を細める。徐々に開いた目に飛び込んできたその光景に、思わず感嘆する。
 前方の周りより一段低くくぼんでいる所には小川が流れていた。水量が少なくとても浅い川だが、水は澄んでいて、数匹の小さな魚が泳いでる。やがてこの川の水はセーラ川に流れ込み、その一翼を担うのだろう。
 そしてそのさらに奥、そこに聳えるは断崖絶壁。見上げてようやく頂上が見える壁は、ちっぽけな人間などその様だけで圧倒させてしまうほどだ。岩の崖は降り注ぐ太陽を反射し、彼を静かに見下ろしている。人間を遥かに凌駕する絶壁は、アルフのこれ以上の前進を拒んでいるようだった。
「進ませてもらうよ」
 と、その壁に宣戦布告をすると、彼は辺りを見渡した。
 大小さまざまな石が一面に広がっており、視界も足場も彼から奪う。
 馬がいないのなら、確かに自然のアスレチック場だ。巨大な石に上り下りして、汗をかいたら川に飛び込めばよい。浅い川なので高いところから飛び込むのは危険だけれど。
 ジャスナの姿が見えない。この岩場では速度を出すのは難しい為、そう距離が離れたわけではないだろうが、数々の石が邪魔をし、その姿を隠している。
 彼は域の魔法を使い、あたり一帯の地図を作る。なるべく精密な地図だ。一度道を間違えてしまったら、大幅なロスになってしまうからである。
 調べてみると、崖を登るポイントはいくつか存在した。しかし馬と一緒に登れるとなるとその数は激減してしまう。まずは、川が流れているくぼ地を渡らなければいけないため、橋を目指す。
 ここから橋の一つまでの道にジャスナの姿があった。きっとそこが彼らが良く通る橋なのだろう。もっと近いところに橋あれば良かったのだが、彼が向かっている所が一番近い。
 アルフはすぐにドーゼルを操り、その後を追った。
 滑る足場を何とか登り、大きな岩の上に到達した。すると、そこからジャスナの姿を目で確認する事が出来た。
 域で把握してはいたが、改めて見ると、その差は絶望的なものがあった。
 距離約三百メートル。森の中にいたときの何倍にも差は膨れ上がっていた。ここの足場が良いのならあっという間に縮めて見せるのだが、この足場ではスピードは上げられない。むしろジャスナはこの道を得手としているはずで、その差はますます広がるばかりだ。
 このままでは確実に負ける。何か策を考えなくては。
 アルフはふと、腰に下げている袋を触った。この旅に持ってきた特殊魔具の中でも、レースに使えそうな魔具を入れてきたのだ。
 この魔具があれば、いける。
 アルフは、ここから五メートルほど下にある川を見つめる。何かを決心したかのように頷くと、彼はドーゼルとともに、そこに飛び降りた。
 ドーゼルのバネは素晴らしく、空中でも決して乱れる事のなかったその姿は、水しぶきを上げて、見事川の中に着地していた。
 ドーゼルが怪我をしていない事を確認して、アルフは馬を走らせる。
 小さい川だが、川の中は石が削れ平らになっている。しかも水量が少なく、ドーゼルの妨げになることはない。アルフとドーゼルは水を跳ね上げながらぐんぐん前に進んでゆく。
 すぐにジャスナの姿を捉えることができた。ジャスナは水が跳ねる音に気付き、視線を川に落とす。
 アルフが物凄い勢いでジャスナを追い抜かそうとしていた。走っているアルフに対して、慎重に進まなければならないジャスナ。スピードの差は歴然としていた。
「だけどよぉ、アルク、残念だったな」
 しかし、ジャスナは焦る様子など一切見せなかった。それどころか余裕の表情で、ジャスナは馬から降りる。腕を振りかざすと、強の魔法でそれを強化してゆく。
 ジャスナが上にいて、アルフが下にいて、そして周りにはおあつらえ向きの石が大量に存在している。
 彼がこうするのは、至極当然のこと。ジャスナは、口元に笑みを浮かべた。
「はっ!」
 ジャスナは近くの巨大な石に拳をぶつける。とたん、激しい衝撃音が空間を揺るがせた。石は形をとどめる事を許されず、数々の欠片が目下へと落ちてゆく。さらにもう一発、二発、ジャスナは岩を砕き、川を封じ込めた。
 アルフの目の前に、瞬く間に壁が出来上がった。すぐにでも崩れそうな脆い壁。登ろうとでもしたら、一瞬にして下敷きになってしまうだろう。
 だけどこんな物は、川に降りたときから予想していた。最も単純で、最も効果的な妨害方法。規模は予想以上のものだったが、アルフはドーゼルを走らせながら、その壁を、その壁の先を見据えていた。
 腰に結び付けているホルダーから、魔導銃を取り出した。
 珠をセット。色は青。属性は水。威力、屋根を粉々に吹き飛ばす程度。
 アルフは壁の中心部に狙いを定める。外したら終わり。当たったとしても、壁を壊せなかったら、このまま壁に突っ込んでしまう事になるだろう。でも、信じるしかない。
 猛スピードで壁に迫っていく中、アルフは引き金を絞った。
 辺りの魔力が、魔導銃に収束していく。ジャスナもその魔力の流れを感じ取っていた。寒気がするほどの莫大な魔力を溜め込んだ魔導銃の口から、強烈な光とともに、水の大砲が吐き出された。
 刹那にして、水の固まりは壁に激突した。爆発音に似た、芯に響くような鈍い音を立てて、水と壁は四散する。水しぶきと破片はアルフの視界を奪いつくしたが、彼はためらうことなくそこに突っ込んだ。
 水と石の破片が雨のように降り注ぐ中、ジャスナは目を見開いてその様子を見ていた。
 あんな武器をアルクは持ち合わせていたのかと、ただ驚愕するばかりだ。
 靄の中からアルフが飛び出してきた。それは、壁が粉々に砕け散り、アルフのリードを確実にしたことを意味する。
 しかし、川でリードしたとして、そこは一段低い場所にあるために、崖を登るには、川の向こう側でもこちら側でも、一度この高さまで登らなければいけない。しかしその登れる地点は、崖を登る場所を大きくに過ぎた位置にしか存在しないのだ。
 墓穴を掘ったかと思ったが、しかしアルフは域の魔法を使用できるのだ。もしかしたら地形が変わって、登れる位置ができたのかもしれない。
 ジャスナは急いで馬にまたがると、アルフの後を追いかける。
 アルフが川の中を走ってゆくと、上に橋がかかっているのが見えてきた。本来ならそこで川を渡る必要があったのだろう。
 地形が変わっているなんて事はなかった。域の魔法で調べても、上がれる位置はこの辺りに存在せず、ずっと先にしかない。だがそこまで行ってしまったら、折角のリードをふいにすることになる。
 アルフは川を取り囲む壁を見つめる。壁の向こうにある巨大な崖も圧巻だが、まずはこの小さな壁を登らなくてはいけない。
 アルフは魔具を取り出した。ひょろ長く、かつ頼りなさそうな杖。幾日も手入れをしていたのだが、まだ魔力の乱れが直らない頑固な魔具である。
「頼むよ。ドーゼルも、頑張って」
 一つと一匹に激励を送る。後は、自分の度胸とタイミングだけだ。
 アルフは壁に向かって方向を変えた。できるだけ壁が低くなっているその場所へ。
「アルクはなにやってんだ?」
 ジャスナは叫ぶ。確かに、そこから壁を登ることができれば大幅なリードを奪う事ができる。だけどいくら低い壁とは言え、三メートル以上の高さはある。馬がジャンプして飛び越えられるものではない。
 それでもアルフは壁に向かって突進してゆく。そして、アルフはドーゼルとともに大きく跳躍した。
 ドーゼルの跳躍力は目を見張る物があった。しかし、それでも壁を乗り越えるには程遠い高さ。そのまま壁に激突してしまうかと思われた。
 アルフは大量の魔力を杖に注ぎ込む。これで巧くいかなければ大怪我は確実、同時に、この勝負も敗退だ。いちかばちかの大勝負だが、彼は意を決したように、杖を真下に叩きつけるよう投げた。
 杖が真下にある大きな岩に触れた。瞬間、めきめきと周りの地盤にひびを入れながら巨大な岩が持ち上がり始める。
 ジャスナは目を疑った。岩が跳んだ。巨大な岩が、何を思ったのか真上に跳ね上がった。
 空へ向かった岩は、アルフとドーゼルを載せるとさらに上昇していき、壁の高さを越えた。アルフはバランスを取りながら、その岩から壁の上へと降り立った。
 役目を終えたその岩は、力尽きたように、もとあった場所へと落下していった。ドスンと音を立てて、後はすんとも動かなくなった。
 先端に触れた物が、勢いよく跳ね上がるという杖状の魔具。単純な魔具だが、魔力の込め方によっては大きな物も高く跳ね上げる事ができるのだ。
 トーヤから買った魔具だ。まさかこんな形で使うことになるとは思わなかったけど。
 運良く一緒に跳ね上がってきたその杖を、アルフは拾い上げる。この魔具を捨てることも考えていたのだから儲けだ。
 ジャスナは唖然と、目を丸くしながらその様子を見つめていた。
 瓦礫の壁をあっという間に打ち壊し、しかも岩まで持ち上がってしまい、数メートルの壁を飛び越えてしまった。まるで夢を見ているようだった。
 それ以前に、あの水の玉を放った魔具。あんな物を所持しているのなら、センサリー山賊団を簡単に蹴散らす事が可能だったのではないだろうか。
「見逃してもらったのはオレ達ってか?」
 ジャスナは歯軋りをすると、すぐさまアルフの後を追う。
 アルフはすでに崖を登り始めていた。大きなリードを奪ったけれど、気を抜いていられるほど余裕は無い。ドーゼルもすでに疲労し、気力で走っている様子だ。
 ドーゼルを気遣いながら、しかし力強く崖を登り切る。ここから第三ステージ。ゴールへと向かうだけだ。
 アルフは全速力で、木々の間を駆け抜けてゆく。

「アルクが先に崖を越えた」
 レイセリーティアの元に、ベーゼを経由して情報が入る。
 残念ながら、ベーゼはいまいち何が起きたのかを解っていないようだった。
 アルフが周りより一段低い場所を流れている川に降り立って、そこからジャスナを追い上げて、ジャスナがアルフの進路妨害して、そこでアルフは何かを使いその邪魔な物を取り払って、なぜかアルフは数メートルの高さをジャンプし、見事川から這い出して、崖を登ったとのこと。
 邪魔な物を取り払う時に使ったものは魔導銃だとして、川からまた上に戻った時はどんな策を使ったのかが解らない。まさか何もせずに飛び越えたということはあるまい。
 ベーゼの域の魔法ではそれが限界だった。アルフだったら、彼女が理解するまで事細かに説明できるのだろうけれど、ベーゼの説明では重要な部分がわからない。
 しかし、アルフがリードしているということは確か。一先ず安心だ。ここから先は難しい所はないというし、ゴールへと着いてくれるだろう。
 本当は小躍りしたいぐらいなのだが、今の雰囲気はそういう雰囲気ではなかった。
 アルフリードの情報が入るなり、センスの悪い山賊団のムードが突然険悪になった。
 列前方にいた通称問題児は、情報が入るまでは和気藹藹と団全体を盛り上げていたのだが、その一報が入った瞬間に押し黙り、一言も喋ろうとしない。ムードメーカーが黙ってしまうものだから、他の団員もムードを盛り上げるに盛り上げられず、段々テンションは下降して行く。
 今喋っているのは、ベーゼとその前を歩いている山賊団の二,三人程度である。
 かく言うレイセリーティアも、実は小躍りをしているような状態ではなかったりする。心では喜びたいのだが、体はそれを一切受け付けようとしない。
 顔には出さず態度にも出さず、歯を食いしばり平常を装ってきたが、そろそろ限界が近づいていた。
 体中を駆け抜ける寒気。頭に木槌を打ち付けたような激しい痛み。視界は揺れ、シディにしがみ付きようやく意識を保っていられるのが現状だ。
 魔力が乱れていた。これまでに体験した事がない乱れ方だった。
 濁流のように押し寄せてくる魔力の渦を、必死に食い止め抑えようと努力しているが、気分の悪さは一向に収まる色を見せない。
 シディが心配そうな目つきでこちらを見る。周りに気づかれていなくても、愛馬には気付かれてしまったようだ。
 大丈夫、とシディ首筋を撫でて返事する。
 アルフが頑張っているんだ。自分が頑張らないわけにはいかない。
 そんなレイセリーティアの決意も虚しく、徐々に状態は悪化していった。
 喉の渇き、眩暈吐気耳鳴りと、少しずつ彼女の体力は蝕まれてゆく。
(どうしてシンクロしたときは、全く苦しくないのかしら)
 夜のシンクロ。自分がどういう行動を取っているのかは覚えてないが、シンクロ時は大量の魔力が体の中に流れ込んでいるのに、苦しかったという記憶はない。むしろ楽だったとすら言える。
(そして山の中でのシンクロのときも、苦しくなかった)
 それは唐突に起きたシンクロで驚いたけれど、気分は全く悪くなかった。シンクロ後に気分が悪くなったが、あれはいきなり大量の魔力の干渉が消失したせいであり、呪具そのものが原因ではない。
 朦朧とする意識の中、彼女は考えていた。
 呪具が見た夢を私は覚えていない。けどそれは少し違う。覚えていないんじゃない、それ以前に覚えようとしていなかった。
 頭の中では覚えようと思っていても、本音がそれを避けていたのだ。
 夢は、あまりに凄惨だから。
 夢を記憶してしまったら、自分自身が壊れてしまうのではないかと疑うほど、その夢は狂っていたから。
 今まで、そんな事は想像しかしてこなかった。想像しても実はこんな事起こってないんじゃないかって思っていた。少なくとも自分の周りではそんな事起こっていないのだ、私には関係ないことなのだ。
 そんな甘い幻想が、ことごとく打ち砕かれてしまいそうだから。
 ――それでも。
 知らなければいけない。見なければいけない。少なくとも自分は、目を反らしてはいけない。
 夜シンクロしたとき。決して自分は拒んでいなかった。森の中でシンクロしたとき、シンクロが終わるまで私は拒む暇がなかった。
 ならば、どうして今は呪具とシンクロできないのか。
 答えは簡単だ。私が、シンクロを拒否しているから。得体の知れないものが流れ込んでくるのを必死で押し返そうとしているから。だから余計に魔力が濁り、自分の首をしめることになる。
 呪具を忌避し、怖がり、そこから逃げて、その上で問題を解決しようなんて、虫の良すぎる話。
 レイセリーティアは右手を持ち上げる。指輪は語りかけてくる。
 無意識に彼女は微笑み、口から言葉が漏れた。
「私はもう、あなたを、シュカを拒絶しない」
 瞬間、堰を切ったように魔力が流れ込んでくる。今までの荒れ狂った魔力とは違う、美しい清流のような魔力。
 これがシンクロなのだ。何度か体感していたけれど、実感したのはこれが初めて。目を閉じて、その流れに身をゆだねる。
 そうか、呪具の魂の名前はシュカだったのか。何度も夢の中に出てきた少女の名。本来ならとっくに知っていたはずの、彼女の名前。
 体の気分が良くなっていく。シュカと一つになった事で、魔力の乱れがなくなった。
 体に負担はなくなり、そして、頭の中に『声』が飛び込んできた。
 隣にいるベーゼの声も聞こえてくる。前を歩いている山賊たちの声も聞こえてくる。遠くのアルフとジャスナの声も、微々たる物だが聞こえてくる。
 これが伝の能力。相手の思っていることを把握できる魔法。切れ切れとしか声が聞こえてこないので、完璧に使いこなせている訳ではないのだろうが、初めて味わう感覚に戸惑いの色を隠せない。
 シュカはこんな声を、幼い頃からいつも聞いていたのだろうか。今は穏やかな声しか聞こえてこないが、ある時は、聞くに堪えないどす黒い声を、聞き続けてしまったこともあるのだろうか。
 伝の魔法は認知されておらず、理解者も居らず、魔法が使えない無能者と蔑まれ、その蔑みの声が直に聞こえてくる。だとしたら、それはなんて残酷な――
「なんだこいつは!」
 隣りからベーゼの音が聞こえた。なんだなんだと、山賊たちは振り返る。
「よく解らないが、何かでかいものがお頭達に近づいてるんだ」
 ベーゼはその物体を懸命に捉えようとしているようだ。彼の声が聞こえてくる。ナニカ危ないものが、二人に襲い掛かろうとしている。
 パキンと、脆い何かが割れたように、突然レイセリーティアの頭の中に声が響いてきた。けたたましい声に耳を塞いだが、その行為自体に何の意味もなさない。
 それは、思わず逃げ出したくなるほどの、悲哀と激怒と渇望と絶望と、すべてを含んだ心を穿つような声。
 数日前、森の中で聞いた声と同じ声。いや、それよりも激しい慟哭。これが、胸騒ぎの原因だったのか。
 体中から汗が噴き出していた。魔力の乱れではない。頭に直接叩き込まれた、心の奥底から来る純粋な痛哭に、思考が追いつかない。
 キモチワルイ。
 体が拒否反応を起こしていた。今まで知らなかった、きっとこれからも知ることがなかったはずの感情の渦に、自我が壊されそうになる。
 しかし、レイセリーティアは逃げなかった。ここで逃げたら、結局以前の自分と同じだから。前に進まなければ、呪具の魂を助けられないから。
 タスケテという声が、心に次々と突き刺さってゆく。シュカが教えてくれている、この森に、救われないものがいると。
 センスの悪い山賊たちは、ベーゼにしきりに質問を繰り返していた。ベーゼの様子から、何か良くないことが起こっていることは想像できたのだが、それ以外の情報がなかなか出てこない。
 ふと、山賊団の一人が気付いた。さっきからレイセリーティアの様子がおかしい。
「レイセ、どうした?」
 彼女は耳に手をあて、俯いている。
「―――せて」
 彼女は低い声で呟いた。
「なんだって?」
「すぐに私をアルフのところに行かせて」
「それは駄目だ。それはルール違反だからな」
 山賊の一人から、音が聞こえた。
「レイセに危害を加えないのは俺らのルールに従っているからだ」
 山賊が、何か喚いている。
「もしもルールが破ることがあるのなら、俺らは容赦しねえよ。不本意だがな」
 山賊たちが次々に話し掛けてくる。とても、とても五月蝿い。
「安心しろ。何か起きて心配する気持ちはわかるが、お頭がいる限り大丈夫だぜ」
 何故、私はこいつらに束縛されなければいけないのだ?
「ペースは上げるけどよ、我慢しろな」
 ああそうか、彼らはきっと、私に用意された試練なのか。私の決意を鈍らせる為に用意された障害物なのか。
 レイセリーティアは、静かに、顔を上げた。
「私はアルフのところに行くの。殺されたくなくば、そこをどきなさい」
 まだあどけなさの残る彼女から発される、絶対零度の威圧。山賊団は、一瞬にして凍りつき、絶句した。
 神が下賎な物を見下す為に許された威厳が、彼女には存在している。
 彼女は、もう一度告げた。
「そこを、どきなさい」
 この一言で、すべての意味を包括していた。
 反論してもこの一言ですべてが覆され、その瞬間、誇りとか尊厳とか、自分に備わる瑣末な物が潰されてしまう。
 山賊団は誰一人として動かない。彼女の言うとおり道を開ければ良いものを、しかし彼らが携えてきた小さな誇りがそれを許さなかった。
 山賊団の一人が、その雰囲気を断ち切るように口を出した。
「おいレイセ、どうしたんだ? 顔色もおかしいし、息も荒いし、少しおかしいんじゃないか?」
 いささか震えたような声で絞り出されたその声は、潰された。
「そうね、きっと私はおかしいのよ」
 おかしくても、成し遂げなければいけない物がある。助けなければいけないものがある。決心した。やり抜くと決めた。そのためには、邪魔する物を排除するのも厭わない。
「それでも、私はやらなければいけないから――もし遂行できなければ、私は私を一生許せないから」
 彼女は、酷く冷静だった。その冷静さは、山賊たちを絶望へ導いた。
「私の命令に従う事を拒んだ――そして、この場に居合わせてしまった」
 それは、神の鉄槌。
「――あなたたち自身を、恨みなさい?」

 ディン山脈を揺るがすほどの衝撃が、地を駆け抜けた。

   14

 アルフは崖を登り終えると、目標となる大杉を見つめた。残り数キロメートル。ジャスナはまだ崖の中腹。このまま何事もなければ勝利できるだろう。
 彼はドーゼルを促して、木々を抜けてゆく。
 しばらく走っていたその時、針のような鋭い魔力が辺りを通り抜けた。ドーゼルもそれを感じ取ったのか、顔上げてきょろきょろしている。
 空気が張り詰めている。充満する魔力は、刃のように鋭く、飴のように粘っこい。
 アルフは違和感を覚え、域の魔法を展開した。とたん、彼の背筋が凍った。
 前方からこちらへ、地を駆け抜ける魔力があった。殺気を帯びた膨大な量の魔力は、彼の足元へと迫っている。
 彼は手綱を引いてドーゼルを急減速させると、その場から退避する。
 ディン山脈を揺るがすほどの衝撃が、地を駆け抜けた。
 今、彼らが通ろうとしていた地面が、鋭く尖り隆起している。天まで伸びる勢いの地の槍は、まさに異形の造型物。あと少し域の魔法を使うのが遅れていたら、避けるのが遅れていたら、槍が突き刺さり死んでいたかもしれない。
 一息つく暇はなかった。またアルフの足元に向かって、大量の魔力が迫ってくる。
 アルフは踵を返すと、今来た道を全速力で戻ってゆく。それでもその魔力は追って来て地の槍を出現させる。右へ左へ、アルフは紙一重でそれをかわしていく。
 これは土の魔法。しかもかなり強力な。最低でもランクA、ランクSかそれ以上。
 ジャスナの罠? 否、そんなはずはない。彼はルールに従い正々堂々と戦うタイプ。こんな小手先の細工をするほど愚かな男ではない。
 本当なら域の魔法の範囲を広げ、相手の正体を突き止めたいのだが、攻撃の手は休まることなく続き、正確無比にこちらの死角を狙ってくるので、そんな事をしている暇はなかった。
 アルフは総毛立つ。今まで直線で流れてきた魔力が、今度は地面を覆い尽くすようにしてこちらに向かってきた。
 左右に移動して避けられる物ではない。アルフは素早く速度を上げて、魔法の効果範囲を間一髪で抜けることができた。
 アルフに掠るか掠らないか、そのタイミングで後方の地面が粉々に砕け散る。その魔法は強烈な振動を生み出し、直撃を免れたアルフとドーゼルをも襲った。バランスを大きく崩し、彼らは一度止まらざるを得なかった。
 後方に刻まれたのは、巨人が踏み潰したかのような跡。木々は滅茶苦茶になぎ倒され、超局地的な嵐が起きたかのようにその場所だけ抉られている。
 ランクAなんてとんでもない。今の魔法のランクはS+++を遥かに凌駕している。
 一度大きな魔法を放った後しばらくは、調子を整えるのに時間がかかる。その時間を利用して、アルフは域の魔法を拡大し、魔法を放っているソレを捉えた。
 黒くて、巨大で、それなのに動きが素早くて。捉えたのはいいけれど、これはいったいなんだ?
「なんだこりゃぁ」
 ジャスナはようやくアルフに追いつき、大声をあげた。眼前に広がる荒れ果てた光景に唖然としている。
「アルク、こりゃあいったい何が――」
「ジャスナ、ここから逃げるよ」
「はぁ? いったいどういう……」
 瞬間、ジャスナの背筋がぞくりと震えた。凶悪な魔力の渦。刃物が突きつけられたような緊張感。彼の表情が一瞬にして凍りつく。
 説明を受けることなく、彼の脳が、ソレが危険だと判断した。
 アルフは一足先にそこから逃げ出す。ジャスナも慌てて反転すると、よく訳がわからないまま、もと来た道を戻り始めた。
 今まで二人がいた場所に、地の槍が出現した。先ほどより鋭さが増している。
「アルク、ありゃいったいなんだ?」
「まだ俺にも良く解ってない。解ってる事は、黒く巨大な何かが、俺らを攻撃しているという事だけだよ」
「おめえの域の能力でも把握できねえのか?」
「そこまで精密に調べる隙がなかったんだよ。今の状態見れば解ると思うけど」
「……確かにな」
 絶えることのない攻撃。気を抜いたら地の槍の餌食になる。
「ジャスナ、左に避けて」
 アルフの指示に従い、ジャスナは馬を左に移動させる。するとそこから地の槍が飛び出してきた。背中に、冷や汗が流れる。
 魔法は衰えるどころかさらに威力を上げ、確実に二人を追い詰めていく。いまだ傷一つついていないのが信じられないほどだ。
 アルフは進路を変えようと少しだけ右に移動する。そこを狙い済ましたかのように、魔法はアルフの右側に炸裂し、左に戻らざるを得なかった。
 逃げている方向が制限されている。決められた道を外れないように誘導されている。確実に的確に、しかもそれを悟られないように、前方にも時折魔法を放つという周到さで。
 このまま直進してしまったら、まずい事になる。
「崖に誘導されてる」
「なんだって?」
「このままだと、崖に追い込まれてしまうんだよ」
 先ほど登ってきた崖へと誘導されている。逃げ道がなくなってしまうその場所へと。
「おい、じゃあすぐに進路を変えないとまずいじゃねえか」
「そうは言っても、できないようにされてるから誘導と言ってるわけで」
「お前、随分落ち着いてるんだな」
「俺はあまり顔に現れないらしくてね。実際は凄い焦ってるんだけど」
「全然焦ってる顔には見えねえよ。眼鏡に『焦ってる』とでも書いとけ」
「善処するよ」
 悠長な会話をぶち壊すかのように、地面がアルフたちに攻撃を仕掛けてくる。
「しかし、筍みたいだね」
「おめえ本当にのん気すぎだぜ!」
 実際に筍だとしたら随分凶悪な筍だ。もし立ち止まり、避け損ねてしまったら、待ち受けるは容赦のない死だ。
 姿を見せることのない敵は、確実に近づいてきていた。空気が、森が、その殺気に打ち震えている。
「畜生、せめて近づければ何とかなるのによ!」
 ジャスナは叫んだ。強のランクがいくら高くても、遠くにいる敵には効果がない。
「アルク、おめえのさっきの魔具で、なんとかできねえのか?」
「それがうまくいかないんだよ。風属性の攻撃は今は使えなくてね」
 属性には各々に強弱が存在する。
 火は風に強く、風は土に強く、土は雷に強く、雷は水に強く、水は火に強い。属性の相互性を表す円(火を一番上にして、右回りに土、水、風、雷を配置)に属性の強弱の矢印を書き込むと星の形になる為、五星属性とも呼ばれることがある。
 相手が土の魔法を使ってくるのなら、こちらは風の魔法で迎え撃てばよい。土と火の魔法をぶつけた場合、単純に威力が高い方が勝つが、土と風の魔法の場合、風は土の魔法の半分しかない威力でも勝つことができる。
 今、相手は土の魔法を使ってくる。打ち破るには風の魔法を使えばよい。しかし都合の悪い事に、風の魔力が篭っている珠は旅に出る前に店で使ってしまった。魔力も回復しきっておらず、使い物にならない。
 他の属性では、競り勝てる補償はなかった。残っている珠の中で、雷の属性は弱点なので論外、火や氷や衝撃の属性だって、どれだけ効果があげられるか解らない。土の属性を放っても、同じ属性同士なので下手をしたら吸収されてしまい、撃ち損ということもある。
 ジャスナの使える魔法は雷と強の魔法。雷は意味がない。強の魔法も、相手の近くにいけなければ意味がない。
 形勢は思わしくなかった。最悪のシナリオならいくつでも思い浮かぶのに、ハッピーエンドは一欠片も出てこない。
「こうなりゃ強行突破だ!」
 痺れを切らしたジャスナが、方向転換を強行した。
「ジャスナ駄目だ!」
 ジャスナはアルフの忠告を聞かない。そして道から外れようとしたその時、巨大な土壁がジャスナの前方に聳え立った。
 突然現れた壁を避ける事もできず、ジャスナはトップスピードのままに激突する。
「かはっ」
 ジャスナは馬から振り落とされ、体を地面にしたたかに打ち付けた。受け身を取ることすらかなわず、呼吸が一瞬止まる。
 ジャスナの動きが止まってしまった。一瞬の空白、敵は、それを見逃さない。
 魔力が地を流れていた。今までより格段と大きい魔力が、ジャスナの元に一直線に流れ込んでゆく。
「ジャスナ逃げろ!」
 アルフは叫んだ。しかしジャスナは動かない。動けない。
 アルフは魔導銃を取り出した。そして珠をセットする。色は橙、属性は土。
(いちかばちか)
 アルフはトリガーを引いた。放たれた魔力はあたりの土を巻き込み、ジャスナの前方に着弾する。そこに地を這う凶悪な魔力も到着し、瞬間、その場で爆発が起こった。
 敵の放った魔力に魔導銃からの魔力を混合させてやる事で、暴発させたのだ。今回は暴発になったけれど、性質が似た魔力だった場合、運が悪ければ魔力を吸収されてしまう可能性もあったのだ。
 賭けは成功し、空中に大量の土煙が舞った。相手が域の魔法を使えない限り、こちらの状態を把握することは不可能。アルフはすぐにジャスナに近寄った。
「大丈夫かい?」
「ああ、なんとか」
 アルフはジャスナの馬を探すと、彼に渡す。ジャスナも馬も、軽症で済んだようだ。
 その時、風が吹き、視界を覆っていた土煙が晴れた。今や荒れ果てた森の中に、ソイツは姿を現した。
 立ち上がっているその姿は悠に五メートルを超える大きさ。黒尽くめの体に、すべてを引き裂く爪、噛み砕けないものはない牙、そして、相手を射殺す金色の瞳。
「ストライキングベア……」
 彼らは思わず絶句した。
 ディン山脈に生息するといわれている熊。性格は温厚、賢くて人前に現れる事はほとんどない。それなのに、今は浴びただけで絶命してしまいそうな殺気を漂わせ、二人の前に存在していた。
 体が動かない、思考が麻痺している。ストライキングベアの威圧だけで、意識がとびそうな錯覚に襲われる。
 ストライキングベアは獰猛な鳴き声を上げる。咆哮は森全体を駆け抜け、二人の脳髄を揺るがす。金色の瞳が二人を捉える。それだけで催眠術にかかったかのように、二人は動けない。
 魔力の流れを感じた。地を這う、二人の命を穿つ魔法の元。それでも、体が動かない。早く逃げなければいけないのに体が動かない。逃げなければ逃げなければ逃げなければ――
 その時、ドーゼルが高く鳴き声を上げた。その声を聞き、アルフの感覚が戻った。
「ジャスナ!」
 その一言でジャスナも動けるようになると、二人はその場から離脱する。間一髪のところで避けきると、すぐさまそこから逃げ出した。
「なんだあれは?」
「ストライキングベア、現在確認されている熊の中で最も巨大で強い熊だよ」
「熊が土の魔法使うってのか」
「そうみたいだね。おかしな話ではないと思うよ。人だけじゃなくどんな動物も微弱な魔法を使っているっていうし、ストライキングベアが魔法を、しかも強力なものを使えたっておかしくないよ」
「だからって、いくらなんでも強すぎだぜ」
 魔法の威力が高いだけなら苦労することはない。しかしストライキングベアの魔法の使い方は憎らしいまでに巧みだ。
「アルク、あのストライク何とかの弱点とか知らないか?」
「端的に言えば風の魔法だけど」
「んなことはオレだって解る! 団の中にはそりゃあ使える奴はいるが、ここにいねえから聞いてるんだろ」
「そっか。でも、他に方法が見つからないんだよ。ストライキングベアの魔法威力を考慮すると、互角かそれ以上の魔力を放つのは難しいから」
 団の中にいるという風属性の使い手ならば対処できるだろう。もしかしたらレイセリーティアの火属性の魔法なら、あるいは打ち勝てるかもしれないが、ここにいない者を当てにはできない。
 彼はため息をついた。
「やっぱりお手上げだね。このまま崖から落ちるしかないかも」
「だぁぁ! やっぱりおめえ、眼鏡に自分の感情を表示する魔具でも引っ付けとけ!」
「考えとくよ」
 ストライキングベアは地を踏みならし、全速力で逃げる二人を追いかけていく。巨大な体をもっているのに、馬のスピードについていけるなんて規格外の化け物だ。
 ベア金色の両眼は、二人の姿を決して逃さない。その視線から、滲むような殺気がはっきり読み取れる。
 アルフはふと考えた。ストライキングベアは温厚な動物と聞いたのだけれど、なぜ今はこんなにも殺気を顕わにして、自分たちを追いかけているのか。
 聞いた話が間違っていると言う訳ではないだろう。ここディン山脈に縄張りを持っているセンサリー山賊団長のジャスナが、ベアを初めて見たようだから。ならば、何が原因なのか。
 思考を破るように、ストライキングベアが咆哮を上げた。神経が引きちぎられそうで、思わず耳を塞いだ。
「やべぇぞアルク、崖が見えてきちまった」
 前方に崖が現れる。その距離は徐々に縮まっていく。二人は対策を練るが一向に思い浮かばず、無情にも崖の前まで来てしまった。
 アルフはドーゼルを止めて、その場に降り立った。ドーゼルを逃がして、ストライキングベアと対峙する。ジャスナもそれを倣い、崖の手前に降り立った。
 これ以上逃げられないのなら、小回りが利くように単身になった方が楽だ。
 少しだけ、攻撃の手がやんだ。ストライキングベアは、崖の前で立ち止まった彼らを睨みつける。追い詰めたぞと言わんばかりに、ベアはまた咆哮を上げた。
 アルフは自分の体を昇化させてゆく。より高度な、より精密な域の魔法を使えるように精神力を高める。読み取る範囲は広範囲である必要はない。自分とストライキングベアを含む狭い範囲でいいのだ。
 アルフ一人なら、この状況から逃げ出せる自信があった。域の魔法を使い続ければ攻撃をすべて避ける事も可能。しかしそれではジャスナまで見る事は絶対にできない。
「なあに、安心しろよ。オレだって百戦錬磨なんだからよ」
 こちらの考えを読んだように、ジャスナは言った。
 ジャスナの体中の筋肉が、見る見るうちにしなってゆく。強の魔法、身体能力を上昇させる力。ランクS+++は伊達ではないという事か。今のジャスナなら、ゴールの大杉ですら一撃で抉り倒せるだろう。
 二人は覚悟を決めた。
「アルク、おめえこそ、こんな所でくたばるなよ」
「うん。それは、そのつもりだよ」
 ストライキングベアは手を振り上げると、そのまま地面へと振り下ろす。魔力を得た土はその場で膨張していき、空中で大きな塊となると、二人へ襲い掛かってきた。
「まかせとけ」
 ジャスナは一,二歩間合いを確かめるようにステップを踏むと、右腕を深く引き下げた。拳を溜めながら踏み込むと、前方へとそれを突き出す。
 強の魔法で強化された右の拳は、空を切り裂きながら真っ直ぐに、襲い来る土の塊に直撃した。
 ジャスナとストライキングベア、威力対決は圧倒的にジャスナの勝利だった。小さな塊を撒き散らしながら土の塊は無残にも砕け散た。ジャスナは顔色一つ変えずに、その場に立ち尽くしている。
 これがジャスナの力。不屈の精神力、臆する事のない心。今のだって、少しでも塊の中心からそれてしまったのなら、破片がすべてジャスナへ突き刺さる事となる。
 勝利の余韻に浸る間もなく、ストライキングベアはもう一度、前のより巨大な塊を飛ばしてくる。ジャスナは先ほどと同じく、ぐっと右腕を引き、前へと繰り出した。
 土の塊はまたもや粉砕される。ジャスナは一歩も引かないで、ずっとベアの金色の瞳をを睨み据える。
 ストライキングベアはその攻撃では意味がないと思ったのか、石のつぶてを作り出す魔法へと切り替えてきた。
 散弾のように打ち込まれてくる大量の石つぶて。ジャスナは一つずつ丁寧に打ち落とし、アルフは域の魔法ですべての軌道を読み取りかわしてゆく。
 崖を背にした戦い。一歩も引いてはならないのに、じりじりと二人は後退して行く。
 攻撃の手は止まない。それどころか激しさはさらに増し、石のつぶてと同時に、土の槍が地面から生え出してきた。
 ストライキングベアに疲労の色は見られなかった。魔力の総量は確実に減ってきているのだが、このままでは、ストライキングベアの魔力が尽きる前に、こちらが崖に突き落とされる。
「ジャスナ。今から道を開くから、突っ込めるかい?」
「作ってくれるんだったら、喜んで突進してやるぜ」
 アルフは魔導銃を取り出した。そこに紫色の珠をはめ込む。属性は衝撃。
 魔導銃を構えようとしたが、ストライキングベアはそれが危険な物だと本能で察したのか、アルフへの攻撃が厳しくなる。
 銃口を向けられない。矢じりのような石の弾丸が、的確にアルフの体勢を崩す。銃口を一回でも真っ直ぐ向けられれば放てるのに、一度も構えさせてくれない。構えることが出来たと思うと、その時はジャスナが身動きの取れない状態だったりして、発射のタイミングがつかめない。
 その時、つぶての一つが魔導銃にぶつかった。右腕が弾かれ、魔導銃が手から離れてしまった。魔導銃は宙を舞い、後方に落下してしまう。
 魔導銃が地面にに落ちた瞬間、地を這う魔力を感じ取った。
 その魔力は、魔導銃に直線的に流れていた。ストライキングベアは、魔導銃を吹き飛ばすつもりだ。魔導銃が崖下に吹き飛ばされてしまったら、ただでさえ少ない攻略の起点がなくなってしまう。
 アルフは魔導銃を取り戻そうと動いた。完全に敵に背を向け、魔導銃の落下した位置へ向かう。
 石の散弾止まぬ状態でのアルフの行動は、無謀といわざるを得なかった。回避に徹しているだけで精一杯だったのに、そこに違う行動を加えてしまえば、回避の精度は著しく低下してしまう。
 アルフだってそんな事は承知だった。しかし魔導銃がなくなってしまえば、それこそ死を意味する。地を這う魔力が魔導銃の元にたどり着く前に、石のつぶてを避けながら、それを手にするしかないのだ。
 魔導銃まで後少しと言う時、アルフは顔をしかめた。
 ――避けられない。
 高速で打ち出された一つの石のつぶてが、アルフの左足を抉った。血飛沫を撒き散らしながら、しかしアルフは歯を食いしばり、転がるようにして魔導銃を確保する。後を追うように、魔導銃のあった場所に土の槍が出現した。間に合った。
「ジャスナ! いくよ!」
 アルフはストライキングベアに向かい銃を構える。珠の色は紫、属性は衝撃。
 アルフは引き金を絞った。
 急速に掻き集められた魔力は、耐え切れなくなったかのように、銃口から唸りを上げて飛び出した。
 キリキリと耳障りな歪んだ音を上げながら、衝撃は直線状にある石のつぶては粉々に砕き突き進んでゆく。衝撃は威力をそのままに、ストライキングベアへと直進した。
 ストライキングベアは危険を察知し、巨大な土の塊を出現させた。そしてそれを前方に打ち出す。
 土の塊と衝撃が真正面から衝突する。爆音を響かせ、土の塊と衝撃は共に霧散した。
 相撃ち。たしかに魔導銃はストライキングベアの攻撃に克つことはできなかった。しかし、これでアルフの勝ちだ。
「流石だなアルク。これで終わりにしてやるぜ」
 ストライキングベアの足元に、ジャスナが立っていた。アルフへの対処で精一杯で、ジャスナの接近を許してしまったのだ。
 ジャスナは強の魔法で、全身の筋肉を強化してゆく。腕を大きく振りかぶり、それは爆発的な推進力と共に、前方に打ち出された。
 ジャスナの拳が、ストライキングベアの腹部に打ち込まれた。大木をもなぎ倒す一撃。渾身の一撃が、空気を切り裂いた音を伴い、ベアの内臓を打ち抜いた。
 ストライキングベアの口から血がこぼれた。巨体ゆえ吹き飛ばなかった事がさらに不幸、ジャスナの一撃をすべて受けてしまった。ストライキングベアはふらふらと揺れ、そしてその場に倒れこんだ。
「これで、終わりだな……」
 ジャスナはその場に座り込む。アルフも立っているのが辛く、その場に座り込んだ。
 左足にできた傷を見る。血は止まりそうにないが、そこまで深く抉れた訳ではないようだ。山賊団の中に癒の魔法を使えた人がいたはずだから、その人に魔法をかけてもらえばすぐに血は止まるだろう。
 衝撃の属性は、どちらかというと風に似ていたのが幸い。空間をひしゃげながら突き進むのが衝撃なので、土の塊を打ち破るのには最適だった。いくつもの石のつぶてを砕いた後、巨大な土の塊を砕いたのだから、上々の威力である。
 二人はその場に座りこみ、一言も喋らない。体力と魔力を使いすぎてしまった。レースを再開するにしても、もうしばらくしてからになるだろう。
 ストライキングベアだって、ほとんど魔力を使い切っていたはずなのだが、それなのに攻撃の手は一切休まらなかった。
 何の執念が、そこまでストライキングベアを突き動かしていたのだろうか。
 アルフは魔導銃をしまい、ドーゼルを呼ぼうとした時、とてつもない違和感を覚えた。
 勝ったと思った事で、思い込んでしまった事で、今の今まで気が付かなかった。
 肌を刺すような、突き刺すような殺気は、まだ死んでいない――
「ジャスナ!」
 アルフは叫んだ。ストライキングベアの近くにいたジャスナは、アルフの切羽詰った声に何事かと顔を上げた瞬間、視界が横に流れた。
 人形のように、ジャスナは横に吹き飛ばされた。鈍い音を立てて、近くの木に激突した。ジャスナは気絶しただけで、死には至らなかったようだ。
 何の執念が、そこまでストライキングベアを突き動かしているのだろうか。
 魔力も、体力も限界に至っているはずなのに、ストライキングベアは立ち上がっていた。腕一本でジャスナを吹き飛ばし、金色の瞳をさらに鋭くさせ、アルフを睨んでいる。
 ストライキングベアは唸り声を上げた。殺気は増幅し、辺り一帯を凍りつかせる。
 巨大な土の塊が、次々とベアの周りに生成されてゆく。全部で七つ。一つ一つが今までのものよりも巨大で、身を震わせる殺気を帯びていた。巨大な塊は、一つ残らずアルフへと向かって発射された。
 アルフは立ち上がった。しかし攻撃を避ける方法が思い浮かばなかった。左足の怪我が彼の行動を制限し、回避できる可能性を潰してゆく。
 魔導銃で放った衝撃ですら、今向かってきている塊を一つ砕くにすぎなかった。残っている属性は火と雷と氷。雷では塊を砕く事はできないだろうし、火と氷だって、一発で一つを確実に壊せるかは怪しい。
 もはや絶体絶命だった。けれどやっぱり、アルフはどこか冷静っぽく見えた。
 アルフの元に、七つの塊が殺到した。

 ディン山脈を揺るがすほどの衝撃が、地を駆け抜けた。 

 彼は驚くほど冷静に、目の前で繰り広げられている出来事の顛末を見つめていた。
 すべての土の塊が、瞬く間に消失した。
 彼が見たものは、たった一つの赤く燃える火球。その火球は、アルフへ向かっていた土の塊を、粉々に打ち砕いた。
 アルフは馬の足音を聞いた。それは目の前で止まり、声が降って来る。
「アルフ、何こんな熊に負けてるのよ」
「いや、これが結構強くてさ」
「その足の怪我は平気?」
「うん、それなりに大丈夫。ズキズキするけど歩けない事は無いよ」
「だったら安心ね。というか、私がここに来なかったらどうするつもりだったのよ。来たからいいものを、そうじゃなかったらアルフ死んでたわよ」
「崖から飛び降りる案はあったんだよ。崖に数箇所出っ張りがあったから、そこにうまく掴まる事が出来れば助かるからね」
 それにと、アルフは言った。
「レイティアがここに来るって、域の魔法で解ってたから」
「全く……それでも、間に合ってよかったわ」
 シディにまたがり、そこにいたのはレイセリーティア。金の髪をたなびかせ、じっとストライキングベアを見つめている。
「レイティア、君、シンクロしているのかい?」
「ええ、そうみたい」
 域の魔法で調べると、レイセリーティアの中に流れる魔力は、いつもの何倍にも膨れ上がっていた。呪具の魔力と彼女の魔力が調和し、彼女の体の中にゆったりと漂っていた。
 先ほどストライキングベアが放った土の魔法を、彼女は空気をも焦がすような灼熱の火球一発で粉砕してしまった。そんな強烈な魔法を放った後なのに、レイセリーティアは顔色一つ変えない。
 シンクロしている事による魔力総量の肥大化。きっと、今の彼女なら、先ほどの火球ぐらい何百発も放つことができる。
 レイセリーティアは、何かあったらすぐに火球を放てるんだぞと言わんばかりの様相で、ストライキングベアを威圧する。ここで初めて、ベアがたじろいだ。
 しかし、その威圧に負けんと、ベアはまた巨大な土の塊を放ってくる。レイセリーティアは冷静に、小振りな、しかし圧縮された火球を放つと、二つは激突し、消滅した。
 確実に、実力も何もかも、レイセリーティアの方が上だった。戦えば勝てるというのに、しかしレイセリーティアはここからの離脱を告げる。
「アルフ、一緒に来て」
「解った」
 アルフは指笛を鳴らす。するとすぐにドーゼルが駆け寄ってきた。ご主人を心配して、近くで待機していたのだろう。ドーゼルは心配そうにアルフの足の傷口を見つめている。
 アルフはドーゼルを撫でて騎乗し、レイセリーティアと共にその場を離脱した。
 その後ろをぴったりと、ストライキングベアが追いかけてくる。これでジャスナは大丈夫だろう。死に至るほどの怪我は負っていないかったはずだから、自力でなんとかできるはずだ。
 ストライキングベアの攻撃が始まった。筍のように生えてくる土が次々と現れ、二人はそれをかわして行く。
 レイセリーティアは、小さく手を横に振った。その瞬間、ベアから発せられた地を這う魔力が暴発する。それはストライキングベア自体の進路を阻む事になってしまった。
 彼女が使える属性の一つ、土の属性。アルフが魔導銃で行ったように、ベアの魔力にレイセリーティアの魔力を混ぜた事で暴発させたのだ。
 彼女は表情を変化させず、高度な技を繰り返してゆく。一つ間違えれば相手の魔法を増幅させてしまうのに、彼女の魔法の使い方は精密そのものだった。
 彼女は今、とてつもなく強い。
 シンクロしている事もあるのだが、もっと根本的なもの、魔法のキレ、考え方、魔力の扱いなど、すべてが研ぎ澄まされている。
「アルフ、あの熊はなに?」
「ストライキングベア。温厚で滅多に人前に現れないはずなんだけど、なぜか俺たちを襲ってきたんだ」
 彼女も、ストライキングベアの事は知識では知っていた。温厚で賢くて、何より強力な土の魔法を行使する事ができる。
「私、とっても納得いかないの」
 彼女は少し不機嫌な様子だ。
「どうしてだい?」
「だって、あの熊はアルフに一撃を与える事ができたわけでしょ。しかもアルフを追い詰めてたし――どう考えても私の方が強いのに、納得いかないわ」
「そんな事言っても、相手を倒しに行く本気と、殺しに行く本気とでは全然違うわけで、比べたらいけないと思うんだけど」
「少なくともあの時、私はアルフに怪我させる勢いでやってたわ」
「そうなのか。それは危なかった」
「なにが危ないよ。全部避けちゃったくせに」
「服は焦げたよ」
「それじゃあ意味がないのよ」
 地の槍の攻撃をやめたストライキングベア。質より量を選んだのか、今度は石のつぶてを次々と飛ばしてきた。
 しかし彼女が展開した盾の魔法の前に、その魔法はすべて防がれてゆく。
 盾の魔法は、魔力の篭った攻撃を遮断する魔法だ。今みたいに土の魔法も防げるし、魔導銃の攻撃だって、盾の耐久力がもてば防げるのだ。ただし、殴る蹴る蹴るなどの物理攻撃には意味がなく、それは回避するしかない。
 ベアが放つ高威力の土の塊は火球で砕かれ、地の槍は出現前に潰され、威力の弱い石の散弾は盾によって防がれる。残された手段は、爪による直接攻撃のみ。
 三者ともそれは承知。だからこそ、ベアは距離を縮めようと奮闘し、彼女らは追いつかれないよう必死で前へ進んでゆく。
「アルフ、ちょっと聞いてくれる?」
 シディを走らせながら、レイセリーティアが言った。
「あのね、私、今この呪具の魂――名前、シュカって言うんだけど、彼女とシンクロしているの。シンクロって不思議な感じなのよ。初めは薄ら気持ち悪かったけど、今はこれが普通に思えてきたわ。それで、アルフの言ってたとおり、シュカは伝の魔法を使えるのよ。私も伝の魔法を使えるようになったの」
 彼女は、体を強張らせた。
「伝の魔法って、相手の考えている事が声として聞こえてくるの。口からは出ることの無い、本音が、直接届くの。本当はアルフの声も聞こえるのよ。でも、それより大きくて絶望的な声が、アルフの声を掻き消すの。後ろにいるストライキングベアから、哭き声が、タスケテ、タスケテって……」
 湖のほとりで聞いた哭き声。ここに来るまでに聞いた慟哭。そして、近くまでやってきて、体が砕かれるような叫び声が、間近で聞こえている。
 何が原因で、こんなにも嘆き悲しみ激昂しているのか解らないけれど。
「助けてあげたいのよ」
 彼女は震えていた。涙を流しているように見えた。
「私はずっと、呪具から逃げてたの。怖かったから。得体も知れないものに触れるのがとっても怖かったから。私は、ずっと、拒絶していたの。知ろうとしているのは上辺だけで、心の中ではずっと拒否していた。本当は知りたくなかったのよ。こんなに悲しい声があるなんて私は知らずに生きてきたから。でも、私はもう逃げないって決めたの。拒絶しないって決めたの。指輪の魂も、悲しい声の主も、助け抜くって決めたの」
 彼女の言葉に、ためらいなどなかった。
「アルフ、手伝ってくれる?」
 断る理由など、あるはずはなく。
「手伝うよ」
 アルフは、域の魔法を展開した。広範囲に、精密に、域の魔法を張り巡らせて行く。彼女がベアを助けたいというのなら、自分はそれに従うだけだ。
 アルフは目を瞑った。それでも前は見えている。彼の域の魔法は、視覚よりも遥かに優れた情報を彼の頭に送り込む。
 木々のざわつき、草木の息吹、ベアの全身の動き、ジャスナの姿、空を飛ぶ鳥、木の実を拾う小動物、地下を流れる水脈、空気の振動、葉が一枚地面に落ちる瞬間、ドーゼルやシディのしなやかな走り、そして、レイセリーティアの涙――すべてがアルフの頭の中に、鮮明に浮かんでくる。
 その情報の中に、少し不自然な或る物を見つけた。その部分だけをクローズアップして、詳細を割り出した。
「レイティア、こっちだ」
 アルフは右に曲がる。レイセリーティアもそれに従い右に曲がる。
「何を見つけ――」
 レイセリーティアは訊ねようとして、言葉を止めた。
 アルフから、声が流れてきたから。何を見つけたのか、ほとんど解ってしまったから。
 二人は無言のまま森を駆け抜ける。その場所に近づくにつれ、ストライキングベアの声は大きくなっていく。
 やがて、そこにたどり着いた。
 目の前に広がるのは、自分の目を疑いたくなるような光景。
 腐敗臭を漂わせ、蝿を纏い、ソレはそこに在った。
 黒い毛皮と、鋭い爪を持った、ストライキングベアの子供の、死体。
 単に殺されたわけではない。腕は引きちぎれ、足は不気味な方向に曲がり、内臓はめくりあがり、頭蓋はすでに頭の形をしておらず、ベアが死んだ後も、周りの木々に叩きつけ、すべてに血の色を残し、ようやく解放されたベアは、原形すら留めていなかった。
 毛皮と爪が無ければ、ただの肉塊としか理解できなっただろう。
 あたりに飛び散った血は、幾日も経過しているのか、赤土色に変色していた。いまだ太陽は高く登っているのに、この場所だけ夕日に照らされたかのように、紅色で統一されている。
 誰か人間に殺されたのは明らかで、しかもその殺し方は、信じられないほど残酷。
 死体のいたるところに傷があった。切り傷や風の魔法による傷、殴る蹴るの傷、皮膚が抉れていない場所を見つけるほうが難しい。
「――酷いね」
「――ええ」
 レイセリーティアとアルフは馬から降りて、その凄惨な景色を、見つめていた。
 ストライキングベアがやってくる。ベアは涙を流しながら、こちらへ向かってくる。
 この子供は、あの熊の子供で、ストライキングベアは賢いから、こんな殺し方をした人間を許せなくて、理性より先に恨みが先に出てしまい、アルフたちを襲ったのだろうか。
 声が聞こえてきた。
 恨みと、嘆きと、悲しみと、怒りと、これ以上誰も傷つけたくないという叫び声と。
 我を忘れたストライキングベアは、自分の声をすべて受け入れていたから、タスケテと、誰にも伝わる事のない叫び声を上げていたのか。
 その声は、レイセリーティアに届いた。指輪を介して、彼女に届いた。
「……ごめんなさい」
 折角祈りが届いたのに、自分は助けてあげる事ができない。死んだものを生き返らせるなんて、神様ですらできやしないのだから。
 せめて、苦しみを止めてあげるのが救いなのだろうか。
 レイセリーティアは、こちらへ向かってくるストライキングベアの前に立ちはだかる。
 ストライキングベアは、無駄と解りながらも、巨大な土の塊を生成し、彼女へと飛ばした。
 レイセリーティアはベアの魔法に、土の魔法で応えた。ベアが放った土の塊より、遥かに巨大な塊を作り出し、放つ。
 二つの魔法は衝突し、あっという間にベアが放った塊は砕け散り、レイセリーティアの放った塊は勢いを失わず、ストライキングベアにぶつかった。
 ベアはうめき声を上げた。一度ジャスナに破壊された内臓へ、今の一撃を受けて、その場に倒れこむ。
 それでも、ベアは立ち上がろうとしていた。
 体力も精神力魔力もすべて使い果たしているのに、愛する我が子を奪われた苦しみが、ベアを奮起させる。いくら無駄なものであると解っていても、立ち上がらなければいけないのだと言い聞かせて。
 レイセリーティアは、ストライキングベアに近づいていった。ストライキングベアは立ち上がろうともがいていた。
 彼女はベアの前に立つ。ベアは未だに殺気を纏い、彼女へ爪を振るおうとしている。けれど体が動かない、命令を聞かない。それでも力を振り絞り、彼女へ攻撃を加えようとした時、レイセリーティアは、ストライキングベアの頭に、手を添えた。
 それだけ。
 彼女は何も喋らない。
 慈愛に満ちた表情で、無言で語りかけ。
 もう、解放されなさい、と。
 ストライキングベアは目を見開き、やがて、力尽きたように、四肢を地に伏せた。
 アルフは急いでレイセリーティアに近づく。アルフが彼女の元にたどり着くと、彼女もベアと同じように、気を失い倒れこんだ。
 アルフはレイセリーティアを支えて、一言だけ告げた。
「お疲れ様」

   15

 レイセリーティアが目を醒ますと、そこはすでに山脈の頂上だった。頂上にある大きな一本杉に、彼女は寄りかかっていた。
 彼女は頭を抑える。あまり気分がよくない。
 呪具による副作用と、シンクロが解消された事による急激な魔力の減退のせいだ。
 今はいつもよりは気分が優れている方で、視線を上げると、そこにシディの姿があった。
「心配かけたわね」
 シディの首筋を撫でてあげると、レイセリーティアは立ち上がり、あたりを見渡す。すると、すぐにアルフの姿が目に入った。彼はレイセリーティアが起きているのに気付くと、近づいてきて水を差し出した。
「はい」
「ありがとう」
 冷たくて美味しい水だ。空っぽになっていた体に、じんわりと染み込んでゆく。
 彼女は水を飲み干して、尋ねる。
「ストライキングベアは……どうなったの?」
「森に帰っていったよ」
 アルフの話によると、ストライキングベアとレイセリーティアは長い間気絶していたから、アルフはベア子供の墓を作る事にした。
 ろくな道具もなかったので、簡単な物しかできなかったけど、完成と同時ぐらいにベアは起き上がり、墓をしばらく見つめた後、二人に有り難うと言うように鳴き声を上げて、その場を去ったという。
 その後、アルフはレイセリーティアを馬に乗せて、ここまでやってきた。
「助けることができたのかしら」
「最低限の事は、できたと思うよ」
 根本から断ち切ることができなかったとしても、自我を取り戻させる事ができたのだから。鎖から開放させることはできたのだから。
 それと同時に、疑問が浮かぶ。
 ストライキングベアの子供を惨殺したのは、いったい誰なのだろう。
 人間とは思えない酷い殺し方だった。だけど、体中には刃物の傷があり、魔法でついた傷もあり、人間がやったことは間違いがないのだが、何が目的であんな事をしたのだろう。
 よほどストライキングベアに恨みを持っていたのだろうか。でもストライキングベアは賢いから、今回みたいな事がない限り人を襲う事はない。
「ジャスナも知らないってさ」
 レイセリーティアの考えを読むかのように、アルフが言った。
 アルフもそれが気になって、ジャスナに訊ねたのだという。しかしジャスナは、そんな事身に覚えがなく、団員たちからもそんな話は聞いていない、と言っていた。
 他の山賊団がやった可能性もあるけれど、しかしここ一帯はセンサリー山賊団の縄張りで、それも考えにくい。
 すべてが謎だ。
「アルフ、……その、怪我は大丈夫なの?」
 一番初めにアルフの怪我を見た時は、切羽詰まっていた事もあってよく解からなかったが、今見ると出血の量は酷く、巻いてある包帯は真っ赤に染まっている。
「血は止まったかな。さっきまで血が止まらなかったから焦ったけど」
 彼は微笑んでいたが、それでも傷口は痛々しかった。
「それにしても、山賊団の人たち遅いね。本当はこの傷を、癒の魔法で回復促進してもらいたいんだけど。広範囲……崖のあたりまで域の魔法をかけてるんだけどね、まだ見つからないんだよ」
 レイセリーティアは、ギクリと顔を強張らせる。
「あの、アルフ、その事なんだけど……」
「お、レイセが起きたか」
 と、向こうからジャスナがやってきた。ジャスナも酷い傷を負っていた。動く分には支障はなさそうだが、頬はザックリと切れ、いたるところに青なじみがある。頬に三閃目の傷ができちまったなぁと本人は笑っていたが、顔に巻かれた包帯は痛々しい。
 レイセリーティアは、ジャスナを見たとたん、やはりアルフを壁にするように移動する。彼女は何かを言いかけていたのだが、口をつぐんでしまった。
 ジャスナはアルフの前にやってくると、真剣な眼差しで告げた。
「なあ、アルク、勝負しねえか」
「勝負?」
「そう。タイマン勝負。さっきのは邪魔が入っただろ。だからここで決着を――」言いかけて、ジャスナは首を振った。「いや、そんな事はどうでもいいんだ。あの勝負はオレの負けだからな。結果的にオレのほうが先に着いたが、勝負には負けた。お前の勝ちだ。域の魔法でオレたちの動向を見ている団員たちも、その点は理解してくれるだろうよ」
 ジャスナは、アルフに拳を突きつけた。
「オレは純粋に、お前に勝負を挑む。幸いお互い怪我の条件は同じだからな。お前はその魔具を使用してもいい。どっちが強いか、決めようぜ」
 ジャスナの眼差しは、真剣そのものだった。
「いいよ」
 と、アルフは承諾した。
 アルフは眼鏡を外しレイセリーティアに渡すと、その場から離れる。
 一本杉と、シディ、ドーゼル、そしてレイセリーティアが見守る中で、二人は対峙した。
「アルク、手加減すんなよ」
「しないよ」
 ジャスナは体を昇化させてゆく。全身から魔力が噴き出し、アルフに強烈な威圧を与える。
 レイセリーティアは、渡された眼鏡を見つめた。彼が眼鏡を外す時は、本気を出す時。視覚という余計な情報をはぶき、域の魔法の妨害にならないために。
 レイセリーティアと勝負する時は、必ず眼鏡を外して勝負していた。ジャスナは、それほど強敵ということだ。
 アルフはそっと目を閉じた。体を昇化させてゆく。域の魔法を展開させてゆく。
 ジャスナは、アルフの姿を見つめていた。
 先の戦いから、アルフが強いという事は解っていた。含有している魔力の量も半端ではないと思っていた。だからタイマンを挑み、打ち破ってこそ自分が強いのだと再確認できると思っていた。勝率は五分五分、少しこちらに分があるとすら思っていた。
 ジャスナの背中に、冷や汗が流れた。
 それは、とんでもない勘違いだった。
 昇化しきったアルフの体。本来なら、昇化している時、どんな天才でも魔力は必ず漏れる。昇化の精度が高ければ高いほど、魔力の漏れは激しくなる。
 しかし、アルフからはオーラが微々たりと洩れ出ていなかった。そこにいるのに、すぐに見失ってしまうような感じがした。アルフの存在感が極限まで薄くなっているのに、アルフの中を流れる魔力の塊に、ジャスナの体が震えている。
 勝てる気が、しない。
 口火を切り、目を瞑ったまま、アルフは一歩踏み出した。その瞬間、すでに数メートルの距離を縮めていた。
 ジャスナはたまらず雷の魔法を展開する。電撃は幾度となくアルフを襲ったが、それはすべて避けられ地に吸収された。アルフはさらに接近してくる。
 ジャスナは強の魔法で全身を包み込む。ここで魔力を使い切ってもいい。温存なんて生ぬるい事を考えていたら、敗北は確実。彼の体から、あたりを震撼させるオーラが放出された。
 それでも、アルフは気にも止めない。あっという間にジャスナの懐まで飛び込んできた。
(いくらなんでも早すぎるぜ!)
 ジャスナは顔を引きつらせながらも、右でフックを繰り出した。フックといえど、強化されたその攻撃は、もし喰らったのなら骨が折れてしまうほどのダメージを受ける。
 しかし、あっさりとその攻撃は空を切った。その隙をついて、アルフは右の拳をジャスナの腹に打ち込んだ。
 ズシリと、内臓まで響くようなパンチ。こんな事ありえないと、ジャスナは驚愕した。
 強の魔法で極限まで硬くした腹筋の上から、確実にアルフはダメージを与えたのだ。ナイフですら奥まで突き刺さらないという、強化後の腹筋にだ。
 ありえないと思ってしまったことで、ジャスナの思考は一瞬止まってしまった。それは、ジャスナの負けを早めてしまった。
 アルフは防御姿勢が崩れたジャスナの腕を取り、足をかけ、その巨体を倒しこむ。ジャスナは抵抗すらできずに視界が流れ、背中が地に付いた。
 呆然としている仰向けのジャスナに、アルフは魔導銃を突きつけ、勝負は決した。
 まさに秒殺だった。力の差を、これぞとばかりに見せ付けられて、ジャスナは諸手を上げた。
「完敗だ」
 清々しいまでの負け。まだまだ世界は広いのだと、痛感させられた。
 アルフは立ち上がり、手を差し出す。ジャスナは手を取り立ち上がった。
 立ち上がっても手を結んだまま、ジャスナは言った。
「おめえみてえな強い奴とやれて良かった。まだまだオレも強くなれるって事だ」
「ジャスナなら絶対強くなれるよ」
 握手をしながら、互いの健闘を称えあった。
「つぁあああ! でも、やっぱり悔しいもんは悔しいぜ!」
 と言いながら、ジャスナはその場で横になる。アルフの力は認めるけれど、自分の力が到底及ばなかった事は悔しい。
「あーあ、あいつらにカッコ悪い話するしかねえなぁ」
 今からここに来るはずの団員たち。惨敗だった事を話すのは悔しいが、仕方がないことだろう。
「なあアルク、あいつら今どこら辺だ?」
「それが、捕捉できないんだよ。崖のところまでは域の魔法を張ってるんだけどわからなくて。もっと広範囲にした方がいいのかな」
 そんな話をしていると、トコトコとレイセリーティアがやってきて、アルフにそっと耳打ちする。
「……そっか。ジャスナ、団員たちがここまでくるには、相当時間がかかるよ」
「あ? なんでだ?」
 アルフは肩をすくめて言った。レイセリーティアは少し気まずそうだった。
「レイティアが、全員のしちゃったんだって」

 団員たちが一本杉に到達したのは、日がほとんど落ちてからだった。
 アルフとジャスナは癒の魔法で回復してもらい、とりあえずその日はその場で野宿し、次の日、山を下り始めた。
 山賊たちは二人を麓まで送ってくれると言うので、その誘いを喜んで受けた。下りる時には、さすがにアクシデントはなかった。
 ただ、いつもと違うことは、山賊たちが、レイセリーティアのことを姐さんと呼んでたこと(たまに、レイセ様と呼ぶ奴もいた)。さらに、アルフのことを兄貴とか呼ぶ山賊も現れた。
「シンクロした時余裕がなくて、つい、三段階目になっちゃったのよ」
 と、レイセリーティアはそっとアルフに言った。
 いつもの状態が一段階目。口喧嘩する時は二段階目。そして、相手を高圧するのが三段階目。三段階目は、いわゆるキレたという状態である。
 キレたら最後、相手はその威圧になす術なく屈服してしまう。アルフも一,二度その姿を見たことがあるが、まさに修羅の如く、対峙してしまった相手に同情するだけだった。
 アルフはジャスナに勝ったから、それが団員たちが兄貴と呼ぶ理由である。
 ジャスナは絶対的存在であり、ジャスナに勝ち、ジャスナに認められたアルフは、団の中での位が高くなったのである。
 なんとも体育会系な組織だが、だからこそ統率力は高い。
 一度仲間だと認めてくれたら、待遇はとても良く、苦労することもなく麓へと到着した。
 握手を交わした後、二人は山賊団の元を離れた。
「じゃあなアルク! また会おうぜ!」
「レイセ姐さんもお元気で!」
 離れてゆく二人に、山賊たちはずっと手を振り続けてくれている。
 レイセリーティアはお節介だと思ったが、一言だけ叫んだ。
「あなたたち、服のセンス良くないから、変えたほうがいいわよ!」
 その一言で、山賊たちの動きがぴたりと止まった。しかし上の立場であるレイセ姐さんに文句を言えるわけもなく、「そりゃないっすよ」と、笑いが起きた。
 やがて笑い声は届かなくなり、山賊たちの姿は見えなくなった。
「結局、名前間違えられたままだったわね」とレイセリーティア。
「仕方ないよ。今度会った時にでも訂正するよ」アルフはため息まじりに言った。
「それにしても、面白い人たちだったわね」
「そうだね」
「でも、できればもう会いたくないわ……」
「ま、その時はその時だよ。厚遇はしてくれると思うからね」
 アルフは、ついにその疑問をレイセリーティアにぶつけた。
「ところで、どうしてジャスナのこと避けてたの?」
 レイセリーティアは、少しためらいながらも、はっきりと告げた。
「ああいうタイプは苦手なのよ」
「……そっか」
 酷いとは思ったけれど、特に言及しないことにする。

   16

 ガタガタと、体が揺れていた。
 どうやら眠ってしまったらしい。彼女は目を覚ますと、体を起こした。
 ああ、そうだ、ここは馬車の中だ。
 気付いたらもう他のことに興味は無くなり、じっと動かない。
 寝ている時は楽しいのに、どうして起きてしまったのだろう。
 体は揺れている。だけど彼女は動かない。
 しばらくして体の揺れが止まった。馬車が止まったのだ。シュカは馬車から降りる。
 すると、何の返事も無く、馬車はきた道を戻っていった。小さくなっていくその姿に、何の憤りも感じなかった。
 彼女はこれからの家となる建物を見上げる。白が基調の、木で作られた二階建ての建物。きっとここは別荘か何かだったのだろう。
 ここでは声が聞こえない。木の葉が擦れる音をつれてきた風が、シュカの体を撫ぜる。気持ち良いと思った。このままここで死んでしまうのもよいと思った。
 彼女がしばらく立ちんぼうしていると、家の扉が開いた。
「あなたがシュカさんですね。私はマーサと言います」
 扉から姿を現したのは、二十代半ばの女性。きっと彼女がこれから一緒にここに住む使用人なのだろう。
 シュカはじっとマーサの顔を見つめていると、彼女は不思議そうな表情で音を出した。
「どうしたんですか? 今、家の中の掃除してるんです。手伝ってくださいよ」
 不思議な事に、彼女の声は聞こえなかった。
 シュカは初めてのことに戸惑いを覚えながら、マーサという女性と共に家の中に入る。
「改めてご紹介させていただきます。私の名前はマーサ=エイビス。これからこの家で、あなたのお世話をさせていただきます。マーサとお呼びください」
 別に記憶力が悪いわけではないから、二度も紹介されても困る。シュカが黙っていると、マーサはポケットにしまいこんであった紙を取り出して、勝手に内容を読み始めた。
「えっと、あなたの名前はシュカ=アイーゼでしたよね。歳は十五歳……わー、随分若かったんですね。後二,三歳は歳が行ってると思いましたよ。あ、老けてるとかそう言う訳じゃありませんよ。ただですね、予想と違った事に驚いているだけですからね。……これってやっぱり老けて見えたことになっちゃうんですかね……しまったな」
 なんだか忙しい女性だ。シュカは別にマーサに興味を持たず、寝室を探した。少し、眠くなってきた。
「シュカ様、眠くなってきたんですか? なら、一緒にお昼寝しましょう!」
 なぜ、と不思議そうにシュカはマーサを見る。
「本当は掃除とかしなくちゃいけないんですけど、私も眠くなっちゃって。……あれ、私変なこと言いました? 私だって人間ですから睡眠欲とかあるんですよ。それに掃除だって今日しなくちゃいけないわけではないですし、あの、別に言い訳じゃなくて、……私も寝ちゃっていいですよね?」
 別に断る理由もないから、小さく頷いておいた。
 マーサの案内で、二階にある寝室へ移動すると、シュカはごろんとベッドに横になる。すると、なぜかマーサも同じベッドに横になる。
「駄目ですか? 私、実は小さい頃からお姉ちゃんという立場に憧れてたんですよ。だから今回、妹ができたみたいで少し嬉しくて。あ、シュカ様じゃ他人行儀っぽいですから、シュカさんって呼んでいいですか? シュカさんは私の事呼び捨てでいいですから。あれ、妹が姉の事を呼び捨てなのに、姉が妹を呼び捨てにしないのはおかしいですかね? それ以前に敬語もおかしいですか? でも、敬語は癖なんで直せないですねぇ」
 マーサはシュカの意見などお構いなしに、次々とまくし立ててゆく。シュカより子供っぽい表情で、とても嬉しそうに。
「シュカさんいいなぁ、私、小さい頃から金色の髪に憧れてたんですよ。ほら、私の髪は黒いでしょう。嫌いって訳じゃなかったんですが、でもブロンドの髪を見るたびに憧れが募っちゃって」
 マーサの黒い髪も、十分綺麗だと思うのだけれど。
 それにしても、本当に眠たくなってきた。早く寝かせてくれないだろうかと思ったら、いつの間にか、マーサが寝息を立てていた。
 シュカはあきれたように、マーサに布団をかけてあげた。それからじっと、マーサの顔を覗き込み、そっと、手を添えてみた。
 声の聞こえない不思議な人。音は嫌というほど聞いたのに、声が聞こえない。
 それでも手の平から彼女の体温が伝わってきて、シュカはそのまま眠りについた。


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以上、二章。原稿用紙:209枚と4行
初めから二章までの合計:322枚と4行
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