アリオストロの魔導店、送ったそのままの文章。
プロローグ含む一章。


   1 プロローグ

 交易都市ダンゼのメインストリートには、相変わらずの喧騒が響いていた。
 交易都市ダンゼは、東、北、西に伸びる街道を持ち、南には大きな川を挟んで他国と橋で結ばれている。
 交易都市の北にある町は鉄鋼や工芸、西にある町は野菜、果物、穀物などの食糧、南にある町は他国である事から一風変わった品物、そのすべてがダンゼに流れ込んできて、東の街道を進み、二つほど町を通り過ぎた所にある王都へと運ばれてゆく。
 すべての物流がぶつかるこの町は、第二の首都と呼ばれるほどに発展していた。
 メインストリート沿いに物件を持てるのは、それこそ裕福な商人のみで、それから溢れてしまった者は、道の両端に露店を開き、怒号に近い客寄せの声を上げてゆく。さらに一つ裏の通りですら人通りが激しく、そこはサブメインストリートと呼ばれ、やはり所狭しと店が並んでいた。
 そんな交易都市のメインストリートを、一人の男が歩いていた。
 レンズの小さい眼鏡をかけた茶髪の彼は、ぼけーという擬音があたりにたくさん浮かんでいそうな表情で、雑踏の中を進んでゆく。誰かにぶつかれば吹き飛んでしまうであろう頼りない風貌だが、すでにこの人込みには慣れているらしく、迫り来る障害物をスイスイと避けてゆく。
 彼の名前はアルフ=アリオストロ。メインストリートの裏の裏通りに店を構える、二十五歳の青年である。
 今日は主に食料品を買いに外に出ていた。果物に野菜に小麦にお肉、とりあえず一週間は持つ程の大量の食糧と、少々の雑貨用具を買い込んでいる彼は、前方に、大きな人だかりが出来ているのを見つけた。
 特に覗く気もなかった彼だが、進行方向にあるのではこれ以上進むこともできないので、人だかりの中心を覗いてみた。
 耳を傾ける事もなく、その声は聞こえてくる。
「私は謝ったでしょう。そろそろ放してくれるかしら?」
「はん、謝ったって、その後の態度が悪ければ意味がねぇんだよ。お嬢ちゃん」
「あら、もしかして、ぶつかった後、転んだ事を笑ってしまった事がいけなかったのかしら? それしきのことを許容できないなんて、程度が知れてるわね」
「それだけじゃねぇよ! お前、転んだ後、俺様のこと蹴飛ばしやがっただろ!」
「知らないわよ。あの時、他の人も通ってたから、私じゃないかもしれないわよ」
「んなこと知るか! お前でない証拠もないだろ!」
「あなたの腹部にある足跡、どう考えても私のサイズじゃないのだけれど? それにズボンと腕についている足跡も、各々サイズが違うわねぇ」
「その中の一つがお前のもんだったらどうする気だ?」
「ごめんなさい、先に謝っておくわ。貴方の後頭部の足跡は私のものかもしれないわ」
「こんのっ!」
「だって気付かなかったんだもの。ぶつかった後、何で貴方が私の進行方向にいたのか解らないのよね。もしかして、私に踏まれたかったのかしら?」
 ようやく人だかりの中心にいる人物が見えた。
 聞いていて頭の痛くなるような不毛な言い争いを続けているのは、二十そこそこの男と、十代後半の女だった。どう聞いても痴話喧嘩には聞こえず、殺気露にした捻り合い罵り合いだ。
 男の服装は少々薄汚れていて、頬がこけており人相もよろしくない。言葉遣いも悪い上に姿勢も悪く、メインストリートを歩くには少々不適な人物だった。
 対して……アルフは、男と相対している女性を見やった。
 長いストレートの金髪に、緑に近い青の瞳に、透き通るような白い肌に、質素ながらも品のよさを損なわない服装に、――少々口が悪いのは、言い争いには負けてはならないと言う小さい頃からの教育の為。口論の時の口調と平常時の口調は、全く別物と考えてよい。
 頬のこけた男の素性は一切知らないが、アルフは女性とは知り合いだった。
 彼女の名前はレイセリーティア=ハルメット。十七歳の女性で、ここダンゼの町、三大商家の一つ、ハルメット家、第三子の令嬢である。
「俺様に喧嘩売ったこと、後悔させてやる」
「全く――初めからそうすればいいのよ」
 なにやら、二人は武力で解決する道を選んだらしい。人だかりの輪が二回りほど広がった。
 これだけ人が多く往来するために、喧嘩が起きる確率が高いため、町の人たちはその対応はしかと心得ていた。が、アルフは大量の荷物を抱えていたせいか、輪の広がりについていけず、その場で尻餅をついてしまう。
 瞬間、中央で何かが炸裂した。
 レイセリーティアの放った火球と、男の放った水球が中央でぶつかり合い、人垣の中の数人が倒れこむほどに強烈な衝撃を生み出した。当事者の二人は臆することなく、すぐさま二撃目を繰り出してゆく。
 人垣の中の数人が盾の魔法を展開したおかげで、周りへの大きな被害はない。この急戦を目の当たりにした人たちは、早くも沸き立ち興奮していた。
 全ての人間は、生まれた時から、何らかの魔法を使える。
 魔法の属性は、自然魔法と呼ばれる『火』『土』『水』『風』『雷』と、付与魔法と呼ばれる『盾(魔法エネルギーを減少させる力)』『癒(人の持つ治癒能力を加速させる力)』『強(身体能力を強化させる力)』と、特殊魔法と呼ばれる『域(辺りの気配を察する力)』『伝(相手の心の情報を得る力)』の十種類になる。
 ほとんどの人が自然魔法の属性を最低一つ習得している。付与魔法は約二割。特殊魔法となると一%未満で、習得している人間は稀少になってくる。
 使用可能な属性は遺伝の影響が大きいとされているが、突然変異や隔世遺伝などで、親の使用できる魔法とまったく違う属性を得手とする場合もある。レイセリーティアがその典型で、両親は水の属性を得手としているのに対し、彼女は火の属性を得手としている。
 そんな遺伝の関係を調べたり、魔法の研究や、魔法の威力にランクをつけるなど、魔法に関する物を一手に引き受けているのが『魔術ギルド』である。
 国家公認の施設で、国民であると言うことを示す為にも、魔術ギルド発行の魔法のライセンスを取らなければいけない。取ると言っても難しい事ではなく、満五歳から一年置きに、簡単な魔力テストを受けるだけだ。
 テストの結果、全ての属性にランクがつけられる。F(使用不可)、Eの最弱から始まり、E+、E++、E+++、D、D+、〜、S++、そしてS+++が最高ランクだ。
 さらに、総合ランクもあり、E、E+〜E+++++、D、D+、〜、S+++++まで区分される。
 魔術ギルドのライセンスは、魔力の大きさを明確にしておく事により、魔法による犯罪を減らす為の物だけであり、社会的にはなんら効力を持たないものであるが、実際問題はこのライセンスによる差別も多く、一種の社会問題になっていたりもする。
 二人の争いは長い間続いていた。一撃目から、何度も斥候を繰り返しているのだが、お互いに有効打を与える事ができずにいる。打ち合っている魔法の威力や技術はほぼ互角で、泥仕合に入り込んでいた。
 と言うのが一般的な解釈になるだろう。
 お互いに疲労しているし、表情には段々疲れも浮かんできている。
 しかし、アルフの解釈は違った。男は勝負が決まらない事に焦っているのに対し、レイセリーティアは、むしろこの膠着状態を楽しんでいる。それに、だ。彼女はまだ――。
 戦闘中、目線をずらしたレイセリーティアが、アルフを見つけた。
「アルフ、そんな所で何やってるの?」
 一瞬、驚きの表情を浮かべた彼女だが、呆れた表情になる。
「座って見学?」
「うん。立ち上がるのも面倒になっちゃって。それにレイティア、君も何やってるんだい?」
「えっと、ちょっとしたイザコザよ、気にしないで。……もしかして、言い争いを聞いてた?」
「うん、聞いてた。相変わらずだね」
 彼女はうっ、と言葉に詰まる。言い争いに負けてはいけないと教育されてきて、口論の時は相手を貶めるような揚げ足を取るような言い回しを使うのがくせになっているけど、その言葉遣いが汚らしい物であることは自覚しているのだ。
「その袋に何入ってるの?」
 とりあえず話題を変える。
「食料品だよ。それと、最近雨漏りが酷いから、それの修理用具」
「そろそろ場所を変えたらいいのに」
「俺も何度かそう思ったけど、今更変えるのも面倒だからね。なんたってお金もないし、馬が置ける場所なんてそうそう見つからないよ」
「それもそうね」
 脇見戦闘。一応、レイセリーティアの目線は戦っている相手へと向いているが、関心はアルフの方に向いていた。対戦相手などほとんど無視。それでも形勢は全くの互角。
 頬のこけた男は怒りに震えていた。乳臭いガキになめられているのがたまらなく許せなかった。相手は全力を出していないのに、ほぼ全力を出している自分が恥ずかしくなってきて、それと同時に、レイセリーティアの関心が注がれている男が憎らしくなってきた。
 突如、男は攻撃の標的をアルフに向けた。水の散弾が、アルフへと注がれる。
 が、アルフは避ける動作を取らなかった。なぜなら、その攻撃は彼に届く前に、レイセリーティアが発動させたシールドによってかき消されてしまったからだ。
「ちょっとあんた、アルフは関係ないでしょ! 第三者を巻き込もうとするなんて卑怯者ね」
 彼女はキッと、男を睨みつける。しかし、男はへらへらした口調でこう言った。
「はん、どっちが卑怯者だか。解ったぜ、なんで俺様が優位に立てないのか。その男が加勢してたんだろ?」
 頬のこけた男は、アルフに指を向けた。
「はぁ?」
 彼女は思わず絶句してしまった。アルフはどうしたものかと、困惑した表情を浮かべる。
「どうもおかしいと思ってたんだ。俺様の魔法が嬢ちゃんのヒョロい火球にかき消されるなんてありえねえだろ。だけど、もう一人いれば、何らかの方法で威力を相殺できるよなぁ」
 男は自信たっぷりに言い切った。彼の発言の意図することは簡単で、アルフをダシにして、レイセリーティアのことを辱めようとしているだけだ。
 しかし当然ながら、ギャラリーの誰一人として彼の言う事を信用していなかった。寧ろ嘲笑され、哀れみの視線すら送られている。
 男は周りの状況に気付くと、さらに不快になり、語気を荒らげて辺りに怒鳴り散らす。
「ふざけんじゃねぇぞ手前ら! 俺様は総合ランクA+++++だぞ! 手前らなんか俺の本気の魔法で簡単に吹き飛ばせるんだ!」
 男の発言は、更に周りの嘲笑を買った。男の顔が怒りのあまり真っ赤に染まり、今度はレイセリーティアに怒りの矛先を向ける。
「そこの女!」
「私のこと?」
「たりめーだよ! 俺の総合ランクはA+++++だ。水S++に風A++だ。俺の手の内を明かしてやったんだから、手前のランクを教えろよ」
「どうして教えなくちゃいけないの?」
「はっ、俺様が教えてやったんだぜ。お前も答えるのが礼儀じゃないのか? それとも何か? 俺より弱えランクだからって、怖気づいたのかよ、嬢ちゃん」
 彼女は、思わず冷笑した。
「何笑ってんだ!」
「いいえ、ランクを誇る馬鹿を久しぶりに見たものだから」
 彼女はわざと相手を煽る。少しだけ、彼の発言が癪に障ってしまったものだから。
 自分のランクが高いからと言って、それだけで強さを決めてしまう。自分は強いのだと盲信していた、幼い頃の自分に重なってしまったから、余計に腹が立つ。
「んなことはどうでもいいんだよ! 手前のランクを聞いてるんだ!」
「Sよ」
 瞬間、男の顔が強張った。
「S++。信じないならライセンスも見せましょうか?」
 レイセリーティアは、ちらりとライセンスを取り出した。
 魔術ギルドのライセンスには『火S+++ 土S 盾B+ 総合S++』と記入されている。
 頬のこけた男は動揺し、周囲の人々にどよめきが広がった。
 A〜Eランクとは違い、Sランクは別格に設定されていて、その資格を得るには、魔力テストの他に、厳正な試験を受けなければならない。
 その試験を受ける資格として『使用魔法属性が三種類以上、その内ランクSの魔法が二つ以上』をクリアしていなくてはいけない。
 試験も易しいものではなく、魔力、技能、知識、すべてを兼ね揃えていないと突破できないのだ。
 ランクA+++++とSの間には、全てにおいて雲泥の差が有ると考えても良い。いかなる事をしても覆せない差がそこにはある。
 その上、Sに+が二つもついているとなると、どれだけのハンデをつければ対等になれるのかは計り知れない。
 男の顔に、汗が一筋流れた。タイマンで、この少女に勝てるはずがない。
「はっ……嬢ちゃん、勘違いするなよ。俺が憤っていたのはあんたに対してじゃねぇ」
 しどろもどろに、男はアルフを指差した。
「その男に対してだ。そいつが突然乱入してくるから、俺は激しく怒っている訳だ」
「馬鹿じゃないの! 良くそんな顰蹙を買うセリフを次から次へと――」
「知るか! お前はもう関係ねぇよ! 用があるのはお前じゃなくて、そにいる男だ!」
 レイセリーティアは憤った。まったく論拠の無い暴言だけならまだしも、アルフを二度も巻き込んだ。彼女の怒りは心頭に発していた。
 もう、手加減はしない。
 彼女はゆらりと、右手を前に突き出した。瞬間、先ほどと比べ物にならない莫大な魔力の渦が、彼女を包み込んでゆく。
 蛇に睨まれた蛙。頬のこけた男はすでに何も言えなくなっていた。圧倒的な格の違いに、ただ圧されている。体は震え、顔は青ざめ、彼女の魔力は龍へと形を変え、男を飲み込もうとしている。
 奇跡が起ころうと覆せない、運命だと思わせる絶対的な差。神の怒りを連想させる魔力は、男を完全に縛り付ける。
 彼女は、うっすらと笑みを浮かべた。
 私を怒らせたことが、貴方の罪よ。
 レイセリーティアは醜い男に向かって、火球を吐き出そうとした。
 が、しかし、それをアルフが制した。
「レイティア、駄目だ」
「アルフ、止めないで。あんな奴消えたほうが世界の為よ」
「それには同意するけど、こんなところで全力を出したら、周りに被害が出ちゃうよ」
 レイセリーティアは辺りを見渡した。人だかりの円は、広いとはいえない。アルフの言うとおり、全力に近いの火球を放ってしまったら、あの男以外にも被害が出てしまう。
 男と違い、彼女の力ならば、本当に周りの人々を吹き飛ばす事ができるのだ。一区画なら、軽く抉る事ができる。
 彼女は諦めて、魔力を解いた。一瞬にして辺りへの圧迫感が無くなり、男は安堵した。
「はっ、結局口だけかよ。ランクS++もただの飾りだな」
 手の平を返したような侮蔑に、彼女はキッと睨みつける。
 別に全力で行かなければいいのだ。本気の半分で戦っても、こんな男、簡単に倒せる。
 しかしまたもや、アルフがそれを制した。
「レイティア、ここは俺に任せて。本当だったら、君はあまり目立ってはいけない立場でしょ?」
「それはそうだけど……」
 無意味で無価値な喧嘩で目立ってしまっては、家名に泥を塗ってしまう可能性もある。
「彼は、俺をご所望のようだから、ね」
 彼女は渋々と、彼にこの場を預けることにした。
 アルフはレイセリーティアに荷物を預けると、輪の中心に入った。当然のように、下卑た笑みを浮かべた男の罵倒がやってくる。
「へ、お前さんは話が通じるようだな。しかしひょろい体してんなぁ。小麦の一袋も持てないんじゃないか? それに、その眼鏡もお前さんに似合ってるぜ、ひ弱そうでな」
「それはどうも」
 アルフはあっさりと言葉を返す。皮肉が通じない。男は不快そうに顔をしかめた。
「けっ、ところで、お前のランクはなんだ?」
「C+だけど」
 男は大声で笑い出した。
「はっはっはっ! たかがC+で俺に挑もうってのか? くっはっは、お前面白すぎるぜ! はっはっはっはっ!」
 頬のこけた男は笑い続ける。しかし、アルフは涼しい顔をして男を見ていた。レイセリーティアですら表情を変えることなく二人を見守っている。ギャラリーも、早く戦いを始めろと訴えていて、彼の話に耳を傾けている者は誰一人といない。
 ペッと、男はつまらなそうにつばを吐いた。
「ちっ、おもしろくねぇな。さっさとケリをつけてやるよ」
 男の周りに魔力が渦巻いた。レイセリーティアと比べると大した事はないが、ランクA+++++の事だけはあり、その魔力の量に、周りの人々は驚いた。
 それでも、アルフは動じない。そればかりか、アルフの周りには、一片の魔力すら漏れ出していなかった。
 レイセリーティアは、その二人を、静かに見つめている。
 果たしてどちらが勝つかと言う賭けをしたら、十人中十人があの頬のこけた男に賭けるだろう。
 客観的に見てそうだと思う。魔力のランクも気勢も今の状態だけ見たら、頬のこけた男が勝っているのは確実。
「死に晒せや!」
 男の魔力が解放され、水は圧縮され砲弾となり、アルフに襲い掛かった。
 だけど、私はアルフに賭ける。全財産を、命すら賭けたって構わない。
 なぜなら。私は、アルフに、たった一度も勝った事がないのだから。

 レイセリーティアの予想通り、試合は一方的だった。
 一部始終、攻勢に立っていたのは男の方だった。ランクに見合った怒涛の攻撃を、アルフへと注いでいた。
 果たして、この群集の何人が、彼の攻撃に耐えることができるだろうか。レイセリーティアですら、手加減していたのでは手傷を負ってしまうだろう。
 しかし、アルフはその全ての攻撃を避けきった。
 水の散弾も、風の刃も、彼に触れるどころか、服に掠ることも無く、男の魔法は散っていった。
 やがて、頬のこけた男の魔力が尽きて、呆然としたようにその場に跪く。
 アルフは一言「俺の勝ちだね」と。

 アルフ=アリオストロの総合ランクはC+。彼はたった一種類だけの属性を会得していた。
 それは域の属性。ランクS+++。
 広範囲の人々の動き、魔力の流れ、細部に至るまですべてを把握できる属性。男の稚拙な魔力の扱い方では、アルフに傷一つ負わせることができなかった。
 当然、域の能力だけで避けられる訳はない。彼の外見からは想像できないが、服の下にはしなやかな体躯があるのだ。
 レイセリーティアはアルフに近づいて荷物を渡すと、彼に別れを告げて、群集の目を避けるように、その場を後にした。
「それにしてもあの男、本当に弱いわね」
 彼女は呟いた。
「私は、アルフの服を裂くぐらいはできたもの」

   2 第一章
 
 アリオストロの魔導店は、ダンゼの町、メインストリートの裏の裏通り通りに存在する。
 メインストリートの一本裏は、裏通りと呼ぶのには相応しくない。メインストリートは大手の商人たちが店を広げている為に、個人経営のちんまりした店のほとんどは、一本裏のサブメインストリートに店を構えているのだ。
 サブメインストリートはメインストリートより人通りが少ないとは言え、品揃えや値の安さは断然こちらの方が良く、たくさんの人々が賑やかな声を上げて、この通りにも押し寄せる。
 そして、そこからもう一本裏の通りに行くと、ようやくその魔導店がある裏の裏通りに到着する。
 決して寂れてはいないのだが、もはやそこは住宅が広がっており、商業的な店は激減してしまう。あるとしても小さな雑貨屋や酒場ぐらいで、メインストリートやサブメインストリートのように、たくさんの人が往来することはない。
 そんな裏の裏裏通りに店を構えている変わり者の彼は、お店のカウンターに座り、魔具と呼ばれる売り物の整理をしていた。
 魔具とは、簡単に説明すると『不思議道具』と言ったところ。
 魔法と言うのは簡単に発動できる物ではなく、感情によって魔力の調整ができなくなってしまったり、体内にあるエネルギー、俗に言う魔力を消費する為に、案外不便なものなのだ。
 例えば何かに火をつけるときだ。火属性を使える人は楽だと思ってはいけない。魔法を使う時には、まずは魔法が使える状態にしなくてはならない。それを『昇化』と呼ばれているが、体の中に漂っている魔力を整える事が必要なのだ。その時点で、多少の時間と精神力を要する。
 そして昇化後、魔法をイメージして、構築、発動。当然この時も精神力を要する。つまり、感覚からすれば二度手間で、蝋燭なんかに火をつけるために面倒な手順は踏みたくない。
 その不便さを解消するものが魔具だ。魔具はすでに昇化されている道具であり、発動条件が満たされれば、セットされている魔力が解放され、各々の効果を一定に発動させることができる。
 魔具は一般生活に欠かせないものだった。大手の商人たちは、メインストリートで民間向け魔具を大量に販売している。
 しかし、アルフが販売しているのは、何かに火をつけたり、風を送り出したりという、そんな民間向けの魔具ではない。
『特殊魔具』
 民間用魔具は人の手で作られ大量生産が可能なのに対して、特殊魔具は人の手で作ることができないものが多く、希少価値が高い。
 特殊魔具の特徴としては、まず第一に、十種の属性以外の属性も発動できるものが在る、と言うことだろう。
 人間が使える魔法は大まかに十種で、その中で更に細分化されていく。それは伝属性が最も顕著で、真偽を見分ける事ができたり、相手の感情を読み取れたり、自分の感情を伝えることができたりと、ひとえに伝属性と言っても、使える能力は多々ある。しかしとりあえず、まずは十種類として差し支えない。
 だが、特殊魔具は十種類の属性に分類されないものを持っている場合がある。
 代表として、浮属性は特殊魔具にしか存在しない。フローティングストーンと言う鉱石は有名で、どんな質量のものを上に載せても、かならず地面から一定の距離を保つと言う性質を持っている。
 これを利用した乗り物などが販売されているが、とても高価で、一般庶民の手が届く代物ではなかった。
 他にも、遠くの声を聞くための魔具や第三の目のような物を作れる魔具などの、用途が明確な物もあれば、触ると電気が流れるコイン、覗くと自分の後頭部が見える筒など、用途不明確な魔具まで彼の店で販売している。
 今、彼が磨いているのは水晶玉。これは、一定の範囲内に、今まで範囲内にいなかった人や物が入ってきた場合、ほんのり赤く光る特殊魔具だ。
 侵入者探知に使えない事もないが、漏れ出す物がけたたましい騒音ではなく淡い光なので、水晶玉を視界に入れていない限り気づく事はできないため効果は薄い。
 特に使い道はないが、いつもインテリアとして、カウンターの隅に置いてある。まぁ、水晶玉の反応に気付いた回数は数えるほどしかないけれど。
 その時、その水晶玉がほんのりと赤く染まった。手に持っていればいくらなんでも気づくことができる。数秒遅れで、ゆっくりと店の門扉が開かれた。
 現れたのは小柄な男。身長は百五十センチほどで、髪はぼさぼさで、まだ十代序盤の少年のような面立ちだが、よく見ると無精ひげが生えている三十路過ぎの男性だ。
 そんな小さな彼だが、彼を見る者は必ず視線を上に向ける。なぜなら、彼は小さな体にそぐわないごつく巨大なリュックサックを背負っているからだ。傍から見れば岩石のようなリュックの口からは、得体も知れない何かがイロイロと飛び出している。
「よぉアルフ、久しぶり」
「いらっしゃい、トーヤ」
 トーヤと呼ばれた男は、屈託ない笑顔を浮かべながら、近くの椅子に腰掛けた。それからリュックを床に下ろすと、床がギシリと悲鳴をあげる。
「いやー、今回は凄かったよ、何が凄かったってあの伝説のメンデー島に出かけたって事なんだけどさ、もうその島が凄いのなんのって、まずは外見、あれは何に形容したらいいのか、ドラゴンか悪魔かそれこそ口にできないほどの威容を孕んでいて、見ただけでちびりそうになっちゃったぐらいだよ、それに上陸してからも凄かったね、ほとんど断崖絶壁で上陸できる箇所なんて限られているんだけど、そこにはなぜかモンスターが徘徊していて、オイラたちが見えた瞬間にいきなり襲ってきたんだ、そいつらの強さは大したことがなかったから何とか撃退できたけど、もういきなりボロボロで、上陸したその日からその場でキャンプだよ、しかもいつ襲われるか解らないからスリリングかつエキサイティングでね、あの状態で熟睡できたのはオイラだけってもんさ、それで次の日に島の中に入り込んで――」
 切れ目もなく、トーヤの話は延々と続く。
 アルフは嫌そうな顔を一つもせず、商品整理をしながらも、彼の話に相づちを打っていく。
 彼の名前はトーヤ=メレネス。ありとあらゆる秘境の地に足を運び、彼の足跡がない場所はないと言われるほど(本人は否定しているけれど)の冒険者である。
 彼は旅の合間に本を執筆しており、起伏に富んだ旅を面白おかしく描いたその本は、様々な人を魅了してやまない。
「で、そのメンデー島にも魔具がいっぱいあってだね、それを一部拝借してきた訳なんだ」
 一時間ほどの旅話を終えたトーヤは、岩石リュックを店のカウンターの上にどさりと置いた。
「これ、全部魔具かい?」
「いやいや、半分はオイラの生活用品だよ」
 それでも十分多い。
「持ってきたのはいいんだけど、使い方が解らないのも多くて。まずは鑑定からお願いできるかな?」
「了解」

 アルフは杖のような物を手にとり、域の魔法で、棒の内部を流れる魔力を感じ取る。魔力の属性は風に近く、ぴょんぴょんと跳ね回るように棒の中を動いている。魔力は杖の先端、しかも表面に集中していた。
 彼は近くにあった猫の置物に、杖をちょんとかざしてみた。すると、ぽーんと勢い良く置物が跳ね、嫌な音を立てて天井に激突した。
 パラパラと木屑が落ちてくる中、置物が帰ってこない。
「と言う魔具なんだけど、どうする?」
 アルフは眉根を寄せた。天井に穴が空いていて、だけど光が漏れていないことから、置物は屋根裏にでも行ってしまったのだろう。
「えーと、つまり?」
「この杖の先端で物に触れると、物が跳ね上がるんだ。まだこの杖は安定していないから、今みたいに暴発する事も有るけど」
 古くから眠っていた魔具や、長い間使っていなかった魔具には必ず『サビ』が出てくる。一定期間使っていないと、魔具の中の魔力が狂ってしまうのだ。
 一度狂ってしまった魔力を通常状態に戻すのは面倒で、魔具の専門家に任せるしかない。
 しかし、魔具専門家の数は多くない。なぜなら、魔具の中に渦巻く高度な魔力を感知し操作しなくてはいけないので、熟練の魔術師にしかできない仕事なのだ。もしくは、域の能力をある程度鍛えていれば、それが可能になる。
 アルフの場合、域の力を使った典型的な魔具専門家である。巷では彼以上の魔具専門家はいないとまで言われている。
 本当ならば、大手の魔具取扱店から引っ張りダコになりそうな彼だが、一般の人と趣向が違う為に、個人経営の魔導店を開いているのだ。
「役に立ちそうだが……使わないだろうな。買い取ってくれ」
「1000シークでいいかな?」
「おう、問題ないぞ」
 このように、明確な用途が無い魔具を集めるのがアルフの趣向。一般家庭には必要がないような魔具を集め、販売しているのだ。
 トーヤはこの店の常連客。あらゆる場所を巡り、旅行記を書いている上で、未開の地に眠る摩訶不思議な魔具をアルフの店に売りに来ているのだ。
 誰も入らないような島や森にある魔具は、大抵一般の規格から外れている為、並の魔具店では買い取ってもらえない。トーヤの活動拠点であるこの町では、アルフの店が数少ない買取所のため、必然的に常連になった。
「次はどこに旅に出かける予定?」
 新たな魔具を鑑定しながら、アルフは訊ねる。
「そうだな、まずは旅行記を書き上げてからだけど……あー、しかも結構たくさんの後援者に挨拶に行かなくちゃいけないんだよな」
 旅行記を書き上げて売り出してはいるが、印税だけでは旅の資金をまかなう事はできない。そのため、奇抜で新鮮で斬新な旅の話と引き換えに、貴族から資金を無償援助してもらっているのだ。
 意外と物好きは多いもので、ダンゼの町と王都に合計二十名前後の後援者がいる。なお、恵んでくれるお金によって、立ち寄る頻度が変わるのは当然の事だ。
「今回の旅は必ず聞きたいという富豪さんが多くてな。その富豪さんの一人がちょっときついんだよ。至れり尽せりの待遇をしてくれるのはいいんだけど、骨の髄までしゃぶりつくように旅の話を聞いてくるから、精神的に参っちゃうんだよな」
 心底嫌そうな顔をしているトーヤ。
「そんなに嫌なら行かなければいいのに」
「そうもいかないんだよ、なにせ上物の後援者だから、機嫌はできるだけ取っておかないと。それに根はいい人だから、断れなくてな」
「応援してくれてるんだから、いっぱい話をしてきてあげなよ」
「そうだな」と、彼は苦笑しながら頷いた。
「それで、次の旅行先だったな。次回の予定地はまだ決まってないけど、今回の旅が東の方だったから、それ以外かな。北のデンバーク遺跡でも良いし、南に行ってここと違う風習を楽しんでくるのも良いし、西に行ってディン山脈越えてエルディムの町に行くのもいいし。そうそう、ディン山脈と言えば」
 トーヤはリュックから薄汚れている本を取り出した。題名は『オイラの見たい珍獣図鑑』。本を開くと、見るからに狂暴そうな熊の挿絵が飛び出してきた。
「前回行ったときには見られなかったんだけど、ストライキングベアと言う珍しい熊が生息しているみたいなんだ」
「ストライキングベアなら俺も聞いたことがあるよ。確か、土の魔法を使うんだっけ?」
「そうそう、通常の熊と比べて二倍以上の体つき、大木を一撃の元にえぐり倒す強靭な爪、全身を包んだ漆黒の毛、睨みだけで相手を竦ませる金色の目玉、そして地の利を最大限に活用した土の魔法、しかもその魔法の威力はAの後半からSランクとも言われてる、本当に珍しい熊なんだ」
「そんな熊、見つけちゃったら大変じゃないのかい? あっという間に襲われて食べられちゃいそうだけど」
「いや、ストライキングベアは性格が温厚で、人を襲う事は滅多にないらしいぜ。ストライキングベアは頭が良いから、よほどの事がない限り荒事を好まないんだろうな」
「そんなに頭が良いと、人前に姿を見せることも無いんじゃないかな?」
「そう、そこなんだよ。目撃者は居るけどストライキングベアは流れ星のような存在でさ。人前になかなか現れないどころか、見つかったらすぐに逃げちゃうらしいから、会うのは難しそうだな。それにディン山脈には山賊が出るっていう物騒な話もあるし、うーん、悩ましいぜ」
 語るトーヤの瞳はキラキラしていた。危険と波乱に満ちた旅ですら、彼なら楽しいものにしてしまうのだろう。
「トーヤは行ってない所ってあるのかい?」
 アルフの質問に、どうして嬉しそうに、トーヤは笑った。
「当たり前だろ。まだまだオイラが踏破した場所は一割にも達してない。それに、一度行った場所でも、もう一度行くと新しい発見が必ずあるんだぜ。この町だって例外じゃない。毎日毎日違う景色を見ることが出来るんだから、どこに行っても飽く事はないさ」
「俺にはちょっと解らないな。年に何回も旅に出かけたら疲れちゃいそうで。一年に一度あるかないかぐらいが丁度良いよ」
「ま、アルフにはわっかんねぇだろうな。と言っても、オイラもアルフみたいに、魔具に囲まれてる生活は楽しいと思わないぞ」
「結構楽しいよ。魔具はできるだけ日をおかずに手入れしないといけないから愛着が沸くし、今日みたいに新しい変わった魔具に触る事もできるし。魔具といっても多種多様だしね。一番不思議な所が、人が使えない属性を魔具は持っている事かな。浮とか氷とか衝撃とか、研究によっては今後俺たちが使えるようになるかもしれないんだよ」
「そりゃ興味のある話だが、でもやっぱり、オイラは追及したいとは思わないな」
 一呼吸おいてから、トーヤは自信満々に告げる。
「アルフは魔具オタクだな。そしてオイラは旅オタクだ」
「オタクかぁ、そうじゃなくちゃやってられないのかもね、こんな事なんて」
「そうそう、やってられないよ、こんな事なんてな」
「さてさて。はい、オタクの鑑定結果によると、この魔具は」
 アルフは手に持っている円盤状の魔具を、ひょいと前方に投げた。円盤は弧を描いて、またアルフの手元に戻ってくる。
「と言う風に、障害物にあたらない限り、必ず手元に戻ってくる円盤。さらに、投げる直前に魔力を込めれば、その属性を持った武器にもなる」
「へぇ、面白そうな魔具だな。魔力を込めるって、具体的にはどうすればいいんだ?」
「この魔具を手に持って、体を昇化させて、体の中に……トーヤの使える魔法の属性って風だっけ?」
「ああ、オイラが使える魔法の属性は風さ」
 トーヤの風のランクはA++、癒のランクはC++、総合ランクはB++++だ。
「じゃあ、体の中に緑色の魔力を生成して、その魔力を魔具の中に送り込むようなイメージを思い浮かべれば、自動的に魔力を蓄積してくれるよ」
「慣れてるやつには楽なんだろうが、オイラには難しそうだな」
「思うより簡単だよ。やってみる?」
「危なくないか?」
「込める魔力を少量にすれば大丈夫」
 トーヤは円盤を受け取り、真剣な眼差しになる。
「体を、ランクDぐらいの風の魔法を放つ直前の状態にして」
 アルフの言うとおり、トーヤは体を昇化させ、体の中に風の魔力を作り出す。
「そして、魔具を持ったまま、魔具に魔力が流れ込むようなイメージを持つ」
 言われた通りにイメージを持つと、体の中の魔力が移動していくのが解った。魔具を見ると、少しばかり風を帯びているようだ。
「へー、簡単だな」
 もっと難しいと思っていたから、拍子抜けしてしまった。
「簡単だって言ったじゃないか」
「まぁ、そうなんだけどな。そうだ、魔力を込めるって、いくらでも込められるのか?」
「いくらでもって訳ではないよ。許容量はいまいち解らないけど、ランクA程度の魔力だったら込められると思う。蓄積させた分だけ、威力は増すよ」
「たくさん魔力を込めれば、障害物もスパッとザックリと切れるようになるのか?」
「多分ね」
「よし、これは持って帰る。使い方次第では相当役に立ちそうだからな」
「トーヤの属性が風だから、巧くやれば遠くの物を持ってくることもできるかもよ」
「そりゃあいいね。オイラの旅に役立ってくれそうな魔具だな」
「とりあえず、鑑定料100リール」
「あいよ」
 アルフはお金を受け取ると、次の魔具の鑑定に入る。ようやく、最後の一品だ。
「これは――」
 L字状の金属。片側は太く握りやすい形状で、もう片方は直径三センチ程の筒状。L字の角の部分には、二センチほどのくぼみがあった。
 アルフは後ろの本棚から分厚い本を取り出して、とあるページを探し出した。
「魔導銃か」
「アルフが本を取り出すってことは、よほどめずらしい魔具なのか?」
 アルフは頷くと、本と魔導銃をしげしげと見比べる。
「どうやら、魔力の帯びた専用の『珠』をこれにはめ込んで、この、トリガーを引けば、珠の中の魔力が一気に放出されて、筒の直線状に珠の属性の魔法を射出する……となってるけど」
 トーヤはごそごそと、懐から袋を取り出した。
「珠ってこれか?」
 アルフは袋を受け取ると、器の中に中身を出した。直径二センチぐらいの水晶球が転がった。赤橙黄緑青藍紫の七つ七種類。一つ一つは透き通っていて、緑の珠を持ち上げて覗いてみると、トーヤの顔が緑に染まりながらもくっきりと見えた。
 これほどに純粋な水晶を作れるとは。アルフは驚嘆しつつ、域の魔法で魔力の流れを調べてみる。
 表面に結界が張ってある。これは、珠の中の魔力を暴発させない為の結界だろう。そして珠の内部には、二層になって魔力が詰められていた。外側を流れるのは無色の魔力。魔力というのは属性を付加しないと効力を発揮しない事から、後々何かしらに変化する事になる。そして中心には緑色をした風属性の魔力が封じ込められていた。これは珠の核だ。この中心の魔力が、珠全体を保っていて、属性を決めているようだ。
 他の水晶を調べると、各々、核となっている魔力の属性が違った。赤は火、橙は土、黄は雷、緑は風、青は水、藍は氷、紫は衝撃。
 アルフは魔導銃のくぼみに、緑の水晶玉を装填してみる。ぴったりと、その珠はくぼみに収まった。
 今度は装填後の魔導銃全体を、域の魔法で調べる。魔導銃は魔力で金属の耐久値を大幅に上げてあった。やはり、発火点はトリガーと呼ばれる部分で、ここに触れるか何かすると、発動するに違いない。
「なぁアルフ、調べてる所悪いんだが」
 暇そうにしていたトーヤが声をかける。アルフは顔をあげた。
「ん、なんだい?」
「もしそれが気に入ったのなら、やるぞ。珠付きで」
「え、いいのかい? 売るとしたら相当な値がつくよ?」
「ああ、その代わり――」
 トーヤは懐から、大事そうに、木で作られた小箱をカウンターに置いた。
「これを引き取ってもらいたいんだ」
 歳月が経っているのか、小箱は腐り始め、木はボロボロになっている。アルフは小箱を持ち上げ、蓋を開けてみた。
 とたん、アルフの表情が険しくなった。長い間それを見つめた後、トーやに視線を返す。
「実は、メンデー島以外にも色々寄ってね。その時に入手してしまったものなんだ」
「トーヤも運が悪いね」
「全くだ、これさえなければ今回の旅は万々歳だったってのに」
 アルフはまた小箱の中に視線を落とし、それからゆっくりと蓋を閉めた。
「解った。魔導銃と引き換えに引き取るよ。こんなもの俺の店以外で引き取ってくれないもんね」
「そーなんだよ。他の店では断固突っぱねられるか、逆に法外な値をふっかけて来るかどっちかだからな。何も知らない奴にあげてもいいんだが、それは罪悪感が酷いし」
 トーヤは引き取ってくれると聞いて、安堵した表情を見せる。肩の重荷が取れたように笑みを浮かべた。
「これはこっちでどうにかするよ。方法はいろいろあるけど、厄介な事には変わりないからね」
「すまんね、オイラの尻拭いをさせる感じで。その魔導銃だけじゃ割に合わないかもしれないな」
「いやいや、そんなことは無いよ。この魔導銃は相当な遺物だから、こっちがプラス収支じゃないかって思ってるぐらいだよ」
 魔導銃は珍しい特殊魔具の上に、欠損もさび付きも見当たらない。普通に売るとしたら10万シークは下らないと思う。
「そうだったらいいな。で、その魔導銃とやら、動きそうかい?」
「うん、二つで一つの効力を発する魔具は珍しいけど、全体を通して魔力の乱れも無くて、暴発する事も無いだろうし、すぐにでも試せるよ」
 アルフは天井に銃口を向ける。
「おいおい、ここで試す気か?」
「大丈夫、この珠に入っている魔力では、大した威力は生み出せないよ」
 せいぜい、天井をきしませる程度だろう。この珠属性が風と言うこともあり、被害は特に無さそうだ。あわよくば、先ほどの置物が落ちてくる事を願うのみである。
 アルフはトリガーに触れてみる。しかし、それだけでは何も起こらない。いじくってみると、手前に少しだけ動いた。再度狙いをつけて、今度は一気にトリガーを引いた。
 珠の色は緑。属性は風。珠の中の魔力が解放されるのを感じ取った。
 瞬間、アルフは、背筋が凍るのを感じた。そして、自らの判断ミスを後悔した。
 域の魔法を発動していた彼は、魔力の流れを感じ取っていた。ありとあらゆる場所にある風の魔力が、銃身に集まり、魔力の量が何倍にも膨れあがっていく。
 トリガーは、珠に包括されている魔力を放出させる為の装置ならば、珠の中の魔力は、魔力をかき集め威力を何倍にも増幅する魔法の為の起爆剤―――
 引き金を引いてから、僅か0,1秒で膨大な魔力を溜め込んだ魔導銃は、激しい光を銃口から吐き出した。
 強大な竜巻へと化した魔力は、アリオストロの魔導店の屋根を、粉々に打ち砕いた。

 呆然と、二人はそれを見上げていた。
「アルフ、大した威力が、なんだっけ?」
「……なんだったっけ?」
 魔力を失った緑色の珠は、はかなくも、青い空を写しだしていた。

   3

 レイセリーティアはナンパされていた。
 相手はなかなか顔の良い二人組。ナンパのテクニックも下手ではないらしく、恐らく今までに何人も女性を落としてきたのだろう。
 断っても断ってもしつこく喰らいついてきたので、少し強めの口調で抗議したら、一瞬の隙をつかれて逃げ出すタイミングを失ってしまった。ナンパなんてやらないで商売人をやっていたら成功しているかもしれない、と彼女に思わせるほどの巧みな論述だ。
 彼女は彼女で奮闘しているのだが一度崩れた体勢を立て直すのは容易ではなく、傾かないように防衛線を張りながら必死の論戦を展開しているが、二対一と言う人数の分も悪く、劣勢に立たされていた。
 別にナンパされる事自体は嫌いではない。
 ナンパされると言うのは、自分に魅力が有るからであって、一種のバロメーターとして捕らえる事ができる。
 お世辞でも「美人だね」「可愛いね」と言われるのは悪くない。誘いを断った時の相手の残念そうな表情を見るのも嫌いではない。
 だけど、いくらなんでも今日は多すぎだ。
 今の二人組で十組目。逐一数えていた訳ではないが、きっとそんなものだ。普通ならば一日に一度有るか無いかのナンパなのに、何故か今日に限って絨緞爆撃を受けている。
 ただでさえうんざりしているのに、さらに粘着質たっぷりの二人組みに絡まれて、流石の彼女も辟易していた。それも彼女の論調を鈍らせて、交渉が長引いてしまっていた。
(もう面倒だから蹴散らしちゃおうかしら)
 いやいやと、心の中で首を振る。昨日今日と乱闘騒ぎを起こしたら、今度こそお父様に知られてしまうだろう。最近は乱闘回数が(微妙に)減ってきたのだから、できれば何事もなく穏便に立ち去りたい。
(アルフの店につくのはいつになるのかしら)
 朝からトラブル続きだった。朝起きてから服を着替えて部屋を出ようとしたら、使用人が入ってきてドアにぶつかるし、食事の時もお皿を落として割ってしまい、ついでにお気に入りの服も汚れてしまった。服を着替えて気を取り直し、玄関を出ようとしたらまた使用人が入ってきてドアにぶつかるし、家の敷地から出た瞬間に馬が走ってきて、避けようとして転んでしまいまた服が汚れ、また服を着替えることになったし、そして今はこのナンパ地獄だ。
 メインストリートを歩いていることがナンパ地獄に陥っている原因の一つなのは間違いないので、これが終わったらサブメインストリートに入ろうと考えた瞬間、ピンと、どこかで強大な魔力が渦巻いた気配がした。
 彼女はピクリ反応し、空を見上げる。こう言う時に域の魔法が使えれば楽だと思うが、どんなに努力しても、生憎習得できそうもない属性である。
 空に変化はない。辺りにも変化はない。人々にも変化はない。変わった事は自分が空を見上げた行動ぐらいで、もしかしたら気のせいだったのかもしれないと思えてきた。
 とにかく、自分に被害があるわけでも無さそうなので、気合いを入れ直し、ここから逃げる計画を立てる。手っ取り早いのはのしてしまう事だが先ほど却下したし、二対一だから言い負かすのも難しいだろうし。
 やっぱり相手の注意が反れた瞬間に逃げ出してしまうのが楽だろう。そう考えたその時、空から何かが落ちてきた。目の前の男の頭に、それは落下した。
 ゴンと小気味良い音を立て、一人の男に激突したのは板切れ。板切れがぶち当たった男は完全に気を失い、辺りに憚ることなくその場に倒れてしまった。
 なぜこんな物が空から?
 誰かが落としたわけでも誰かが投げたわけでもなさそうだ。空を見上げても理由がさっぱり解らない。
 レイセリーティアは疑問に思ったが、もう一人の男が唖然呆然としているのを確認し、ご愁傷様と一言、さっとその場を後にした。
 すぐさまサブメインストリートに入る。ナンパ野郎も追ってくる事もなかった。ここならばメインよりは人通りが少ないし、ナンパされる確率は低いだろう。
 彼女は悠々と歩き出す。いい天気だなぁと空を見上げた瞬間、彼女の碧い瞳に、何か不可解な物が映し出された。
 何かが空を飛んでいる。彼女は目を細めた。
 それは、だんだんこちらへ近づいているようだった。いったい、あれはなんだろう。
 猫の置物? と、彼女がそれを認知した直後、顔面にソレが激突した。 
 
 カウンターの隅に置いてある水晶玉が、ほんのりと赤く光りだす。それから数秒遅れて、店のドアが開いた。
 アルフはいらっしゃいと告げる。が、入ってきた人はお客さんでは無かった。
 レイセリーティアが、今にも噛み付きそうなほど不機嫌な顔をして、ずかずかと乗り込んできた。床が乱暴に何度も踏まれ、ぎしぎしと軋む。
 怒髪天気味の彼女だけど、手に持たれている猫の置物が場違いにもほのぼのとしていて、何となく和やかな雰囲気になってしまうのは仕方ない。
 が、彼女の口調は猫の置物を壊してしまうのではと言うぐらい怒気を含んでいた。
「ちょっとアルフ、どういうことよ! この猫の置物この店のでしょ? いきなり私の頭上に、顔面に降ってきたんだけど。すっごい痛かったんだから! しかもその後私何分か気絶したみたいだし、何事もなかったから良かったけど、もしかしたら私の人生に関わる事件が起きたかもしれないのよ? それにまた服を着替える羽目になったし、時間が浪費されたし……とにかく! 私が納得できるように説明して」
 言い切ってから、彼女はアルフの顔が妙に疲れきっていることに気がついた。ついでにこの店がやけに明るい事にも気がついた。
「……いつからリフォームしたの?」
「一時間前かなぁ」
 空を見上げることが出来てしまったレイセリーティアは、戸惑いの色を隠せなかった。
 アルフは魔導銃の手入れをしながら、レイセリーティアに事のあらましを説明した。
 魔具を売りにトーヤが来たこと、その中に魔導銃という魔具があったこと、それは予想もしていないほどの威力があったこと、その後に、お客さんであるはずのトーヤに片付けを手伝ってもらった事、ついでに、なぜ猫の置物が一緒に吹き飛んだかなど。
 猫の置物直撃より、屋根吹き飛びの方が不幸っぽいし、何より八つ当たりになりそうなので、レイセリーティアは怒りを収めて、猫の置物をアルフに返した。
「魔導銃って、初めて見る魔具だけど、そんなに威力が高いのね。その珠って消耗品?」
「いや、違うみたいだよ。一回使うと珠の中の魔力はなくなったけど、微量ながら魔力が回復してきてるから、時間が経てばまた使えると思う」
 ただし、このペースだと次に使えるまでに、一ヶ月弱はかかる。これでは消耗品に近い。
「あーあ、それにしても」
 レイセリーティアは、少し残念そうにため息をついた。
「トーヤさん来てたんだ。旅の話聞きたかったのに」
 言わずと知れず、彼女はトーヤのファンである。彼の執筆した本はすべて読破しており、冒頭のくだりなら暗記しているほどだ。
 レイセリーティアの興味は、カウンターに広げられている魔具に移る。
「これ、トーヤさんが持ってきた魔具?」
「そうだよ」
 紐や杖や鍵、時計など、様々な形をした魔具がカウンターの上にごった返していた。
(魔具は触っただけで発動する物もあるから、勝手に触っちゃいけないのよ)
 と、心の中で忠告しながら、目の前に有った小さな直方体の物体を手にとってみる。しかし、それだけでは何も起きない。
「レイティア、それは……」
「待って、当ててみるから」
 域の魔法を使えなくても、どれぐらいの魔力が包括されているかぐらいは把握できるし、形状と発動する魔法は関連している事が多いので、意外と当たる時も多い。
 アルフが止めなかった事もあるし、命に別状があるほど危ない魔具ではないのだろう。
 完全な直方体。一片は三センチほどで、小さな石で表面は黒くつるつるしている。どこかが開くような気配も無いし、何か変わったこともない。サイコロみたいにふってみたが、やっぱり変化はない。
 目を凝らしてみると、表面の小さな傷に気がついた。いや、傷ではない。これは文字だ。表面を掠るように書かれた小さな文字を、虫眼鏡を使って何とか読み取った。
「『ナスケスア』?」
 レイセリーティアが呟いた瞬間、石が突然巨大化した。体積も質量も増え、驚いて石をすべり落としてしまい、その黒い直方体の石は彼女の足に、運悪く角を向けて落下した。
 声にならない叫びをあげたレイセリーティア。石は床に転がり、彼女はその場にうずくまった。
「だ、大丈夫?」
「――解ったわ。石に書いてある文字を読むと、巨大化する魔具ね」
 涙目のレイセリーティアは、何事もなかったように済まそうとしているが、どうにも無理があるようだ。
 アルフは店奥に入り、救急箱と氷袋を持ってきた。
「レイティア、椅子に座って」
 彼女はそれに従い近くの椅子に腰掛ける。
 靴と靴下を脱いだら、大きな青なじみが現れた。骨にも爪にも支障がなさそうなのが幸いだろう。
「……なんか、今日はとことん不幸だわ」
「何があったの?」
 氷袋をあてがいながら、訊ねる。
「朝から服が二着も汚れるし、しつこい男に何度も声かけられるし、猫の置物がぶつかるし、それでまた服取り替えなくちゃいけなくなったし、今のこれもまだ痛いし……」
 もしかして、この不幸続きが無ければトーやさんにも会えたのでは? と考えて、さらに気が沈んでしまった。
 アルフは、落ち込んでいるレイセリーティアの顔を覗き込み、微笑む。
「レイティア、笑わないと、幸せは逃げちゃうよ」
「これ以上逃げるような幸せなんて無さそうだけど」
 不幸のどん底のいるような顔のレイセリーティアの頬に、アルフは手を添えた。
「そんなことないよ。ほらほら、綺麗な顔が台無しだよ。君は笑ってた方がいいよ」
 瞬間、レイセリーティアの頬がかっと赤く染まった。
 ナンパ野郎達も綺麗とか可愛いとかは言ってくるが、それの中の半以上はお世辞が入っている。しかし、アルフはお世辞や嘘を全く言えないタイプなので、彼の言う綺麗は本当の言葉だから、思わず恥ずかしくなってしまう。
「顔真っ赤だけど、大丈夫?」
「な、なんでもないわよ!」
 さらに鈍感。ここまで素直で純真無垢だと、眼鏡を奪いとって虐めたくなってくる。
 なぜか彼女が不機嫌な表情になったので、彼は肩をすくめて立ち上がった。氷袋を彼女に預けると、救急箱を戻しに、店の奥に入っていった。
 レイセリーティアはため息をつくと、巨大化した石を見つめる。
「大体、こういう魔具の戻し方は決まってるのよね」
 先ほど唱えた言葉、ナスケスア、逆から読めば。
「アスケスナ」
 黒い石は、あっという間に小さくなっていき、元の大きさに戻った。
 何事もなかったことにほっとしながら、彼女はそれを拾い上げる。報復にこつんと軽く叩いてから、カウンターの上に戻した。
 本当に、今日は不幸続きだ。今から何をしてもすべて悪いほうへ転がってしまう気がする。
 少しでも動けば椅子が壊れるかもしれないし、下手したら床が抜けるかもしれないし、次に魔具に触ったらまた怪我を負うかもしれないし……。被害妄想だとは思うけど、そうも考えたくなってしまう。
「幸運になるような魔具はないか聞いてみよう」
 小さくため息をついて、カウンターに広がっている魔具を見つめる。
 ふと、先ほど魔具とは違う、小さな箱が目に入った。
 それは、木で作られた小箱。見た目はボロボロで、触っただけで崩れてしまいそうである。見るからに怪しげで、関わらないほうが良い気がする。
 でも、なぜか興味をそそられてしまう。魅入られたように、彼女はそれを持ち上げて蓋を開けた。
 箱の中には小さな指輪が入っていた。
 模様が刻まれている銀色のリングに、赤い宝石がくっ付いていた。その宝石を良く見ると、紋様がぱっと浮かび上がってくる。
 彼女は恐る恐る指輪を持ち上げた。
 綺麗な指輪だった。吸い込まれそうなほど精巧な指輪だった。決して目立つ面立ちでは無いのに、その存在感はありありと伝わってくる。
 まさに職人技だと思う。リングに彫られている模様は一つ一つが繊細で、メインである宝石を引き立たせている。宝石も大きいルビー。さらに、覗き込んだら紋様が浮かび上がるなんて、いったいどういう技巧なのだろう。
(もしかして、アルフが私の為に用意したプレゼントだったりして)
 思ってから、そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしくなった。
(でも、将来、誰かが指輪をはめてくれるんだろうな……)
 指輪をそっと、右手薬指にはめてみる。さすがの彼女も、左手にはめるのは恥ずかしかったようだ。
 その指輪はぴったりだった。彼女の為にあつらえたかのようにぴったり指に収まった。手を空にかざしてみる。その指輪は彼女の手になじみ、違和感を与えない。
 やっぱりプレゼントなのではと訝ったが、そんなことあるはずないと首を振り、その指輪を外そうとした。
 ――外れない。
 初めは関節に引っかかったのかと思ったのだが、もっと力を入れても外れない。指がちぎれそうになるまで引っ張ったけど、ピクリとも動かない。
 血の気が引いていくのを感じた。もしかして、身につけたら一生はずれなくなる魔具とかだったりして?
 アルフが戻ってくる気配がしたので、箱をすぐには見つからない所に隠し、手を背中の後ろに回した。
 焦りの表情を押し殺す。だてに商家の娘をやっている訳ではない。営業スマイルなどお手のものだ。
「足はどうなった?」
 と、アルフが戻ってきた。
 平常心平常心。うまく会話を誘導して、外す方法を聞き出せばよい。
「ええ、もうほとんど大丈夫です事よ」
「です事よ?」
「あ、え、大丈夫よ」
 いきなり失敗した。どうしてこんなに緊張してしまうのだろうか。会話の誘導なんて、そんな難しい事でもないはずなのに。
 それに、指輪の事だって隠す必要はないのだ。衝動的にはめたら外れなくなった、と本当の事を言えば、アルフは優しいから怒ることもなく、対処法を教えてくれる。
 だけど、何か嫌な予感がするのだ。操られたかのように指輪を身につけてしまった一連の動作や、指輪をはめてからの迫りくる圧迫感が、不安として付きまとう。
 何より、今日は厄日だし。
「そうだ、アルフ、幸運になれるような魔具とか、不幸を追い払ってくれるような魔具ってある? できればアクセサリーがいいんだけど」
「うーん、そんな都合のいいものは無いよ。逆のイメージのものだったらあるけど」
「それってどんな指輪?」
「よく指輪だって知ってるね」
「えっ! あはは、勘よ、勘」
 自然と指輪の話に持っていきたいのだが、先入観とは恐ろしく、焦っている事もあって、なかなかうまく行かない。
「その指輪って、どんな形をしてるの?」
「確か、リングに細やかな細工がしてあって、じっと見つめると紋章が浮き上がってくる大き目のルビーがくっ付いてるよ。見た目はかなり綺麗だね。ボロボロの木箱に入ってたんだけど……どこいったかな」
 これは、確実に自分がはめてしまった指輪だ。逆のイメージとは何だろう。不幸になってしまうような魔具だったらどうしよう。これ以上不幸になったら死んでしまうのではないだろうか。
 彼女の思考は止まる事を知らず、全速力でマイナスへと向かっていく。
「その指輪ってどんな魔具なの? 特殊魔具?」
「特殊魔具とは違うかな。呪いの魔具。呪具って言ってね、これがまた厄介な魔具なんだ」
「じゅ、呪具?」
「うん」
 レイセリーティアは、ごくりと生唾を飲み込む。
「特殊魔具ができる時には、誰かが大切使用していることが前提でね。そうすると、道具にその人の思いが残り、下地が完成して、その後、使われなくなってから、長い歳月をかけて、辺りに停滞している魔力を蓄積していき、何かの衝撃によって安定した魔具になるんだ。持ち主の使い方によって魔具の性質が決まる場合が多いけど、辺りの魔力の具合や、衝撃の種類によって、性質が変わってしまうものも多い。と、まぁこれが特殊魔具のでき方なのだけれど」
 アルフは難しそうな表情になる。
「呪具ってのは、この課程が大きく違う。物を大切に扱っている事は確かなのだけど、所有者……特に大きな魔力をもった所有者が悲劇の最期、未練が残るような死を遂げてしまうと、感情でかき乱された膨大な魔力が物に流れ込み、所有者の魂をそこに束縛するんだ。それが呪具のでき方なんだよ」
「それって、身につけちゃうとどうなるの?」
「魂そのものが篭っているわけだから、呪具の魂の記憶を見たり、突然気分が悪くなったり、ふとその魂に操られてしまったりするよ。ただ操られるだけだったらいいんだけど、呪具によっては悪化すると手におえなくなる事もあるんだよね。最悪、その後死に至ったりもするし……まぁ、そういうケースは本当に稀で、精神力の強さによって解消できるから、あまり気にすることではないね。他に面倒なことと言えば、呪いの魔具は、一度使用したら魔具依存症になってしまうか、一度身につけてしまったら外れなくなるか、必ずどちらかの症状が現れるんだ。それさえ無ければ呪いの魔具も使い勝手がいいんだけどね。効力自体は大きいし、元から大きな魔力を持っているわけだから使用者はほぼ無限に魔力を引き出せるし」
 レイセリーティアは背中に嫌な冷や汗を掻いていた。でも、表情は崩さない、崩さない。
「もし身につけたり使用してしまったりしたら、どうすればいいの?」
「うーんと、対処法の一つ目は破壊。魔具依存症の場合、破壊後数日は精神錯乱、下手をしたらそのまま廃人になってしまう可能性もある。呪具を壊す時は辺り一帯が吹き飛ぶような魔法を使わないと壊れないから、身につけて外れない場合だと、盾の魔法を最大限に活用しても、極部は吹き飛ぶね。そして二つ目は――」
 発狂しそうだった。言葉の意味をうまく噛み砕く事ができず、依存症とか一生はずれないとか精神錯乱とか破壊するとか極部が吹き飛ぶとか、悪い単語だけが頭の中を駆け巡る。
 そんなことを考えてはいけない。耳を塞ぎ目を瞑り、すべての情報をシャットアウトする。
「レイティア、大丈夫かい?」
 レイセリーティアの顔は真っ青だった。声をかけても、彼女は反応しない。
「レイティア」
「………………」冷静に冷静に
「レイティア?」
「………………い」落ち着いて落ち着いて
「顔が真っ青だよ、ねえ、レイティア?」
「………………ぁ」真っ青で真っ青で……
「レイティア?」
「………………っ」………………
「レイティ」
「嫌ああああぁぁぁぁっっっっ!」
 これ以上耐えかねず、勢い良く発狂した。
「死にたくない死にたくない死にたくないわ助けて助けて助けてアルフほんとどうにかしてよ嫌よほんと絶対嫌よぉぉぉっ!」
「レイティア、落ち着いて」
「ごめんねアルフ、死の指輪をはめてしまった私は操られて精神錯乱状態になって死んじゃうの。……嫌よ! 死にたくない!」
「レイティア」
「まだ私は生まれてから十七年しか経ってないのよ、まだ人生を満喫してないのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの?」
「レイティア、落ち着いて、深呼吸をして」
 彼女に触れながら、ゆっくりと語りかける。彼女は叫ぶのをやめて、ぐったりと肩を落とした。
「指輪を見せて」
 ボロボロと涙をこぼしながら、彼女は右手を差し出した。彼は彼女の手を取り、きょとんとしたように指輪を見つめる。
 あれ? と、レイセリーティアは一瞬だけ冷静になった。
 これが呪具だとしたら、もっとアルフは慌てふためるはずではないか? 下手をしたら死にまで至らしめてしまう魔具なのに、こんなに冷静でいられるものなのだろうか? もしかして、私の早とちりだったりして? そうよね、いくら今日が不幸続きだからって、少し被害妄想になっていたのよね。あはははは、なーんだ、心配して損しちゃっ
「厄介な事になったね」
「嫌ああああぁぁぁぁっっっっ!」
 これ以上耐えかねず、勢い良く発狂した。
 
 アルフは店の外に出ると、まずは空を仰ぎ見た。店の中で見たのと変わらない空で、まだまだ日も落ちそうにない。
 彼は扉にかかっている営業中の表示をひっくり返して閉店の表示にすると、店の中に戻っていった。
 店の中では、憔悴しきったレイセリーティアが虚ろな表情で空を見上げている。
 一時間も騒いでいたのだから、疲れているのは仕方ないだろう。それに、まだ頭の中は混乱しているはずだ。
 アルフが目の前に座っても、レイセリーティアは特に反応を見せなかった。
 彼は、語りかけるように、ゆっくりと話し始める。
「普通の魔具は、大量の魔力を含有していても、完全に安定しているから、使用者に害を全く与えない。けれど、呪具は不安定で、なおかつ膨大な魔力を含んでいるから、装備者の体内の魔力をかき乱してしまい、結果、情緒不安定になってしまう。今のレイティアはそんな状態にある」
 こくりと、レイセリーティアは頷いた。
「レイティアはましなほうだよ。今までに一度だけ呪具を装備してしまった人を見たけど、装備してから三日も経ったのに、まだ情緒不安定だったんだ。でも、レイティアは魔力のコントロールが巧いから、これだけで済んだのかも知れないね」
 域の魔法で、彼女の体内に流れる魔力を調べる。一時間前までは爆発しそうなほど荒れ狂っていた魔力が、今では落ち着きを取り戻していた。
「……そっか、ならちょっと安心したわ。普通だったら、私があんなに取り乱すはずないものね」
 少しずつ冷静になってきて、思考が回り始める。
「私が指輪に惹かれたのも、指輪の魔力のせいだったりもするの?」
「それもあるよ。呪具は人を選ぶからね。でも、半分以上は君の好奇心のせいだと思う」
「……私もそう思う」
 こう言う時ぐらい、嘘をついてくれればいいのに。
 アルフの相変わらずの性格に嘆息しつつ、しかしそのおかげで意識がはっきりとしてきた。
 レイセリーティアは、両手で自分の頬を叩き、気合いを入れなおす。
「この呪具を外すには、どうしたらいいの?」
「前にも話したけど、まずは破壊。指輪だったら指一本切り落として外す方法もあるけど」
「それだけは絶対に嫌」
「それが普通だよね。装着したら外れなくなる系の呪具では、今この方法はほとんど取られない」
「じゃあなんで、さっき一番初めにこれを説明したのよ! そのせいで余計に錯乱したんでしょ!」
「まさか指輪をはめてるとは思わなかったんだよ」
 それもそうだ、ちょっと考えれば解かるような事なのに、すぐに興奮してしまった。レイセリーティアは頭を抑えた。まだ混乱しているのかもしれない。
「他の方法は?」
「放置って手もあるけど。難点は外れないだけだから、レイティアだったら魔力を制御できるだろうし、呪具自体は強力だから適度に使えば役に立つし――」
「それも嫌」
 即答である。
「そう? 使いこなせれば思った以上に結構役に立つよ? 今まで歴史に名を連ねてきた人たちは、多くが呪具を身につけていたというぐらいだから」
「本当?」
「うん。この国を統一した初代皇帝ガッザニールは、腕輪の呪具を身につけていたらしい」
「もしかして、『腕を一振りすれば山も大地も海も砕ける』っていう語りは真実で、呪具のおかげだったって事?」
「魔具の学会ではその説が有望だね。肖像画にも腕輪が描かれてるし、都の周りには不自然な平地がいくつもあるし、何より、ガッザニールの遺骨の左腕は無かったというし」
「……死後まで呪われるの?」
「違う違う。死んでしまったら、その人に対する呪具の影響はなくなるよ。だからこそ、死後に他の人に奪われないように、死期を悟った彼は、自ら腕を切ったと考えられる」
「それほどまでに、強力な呪具だったってこと?」
「そういうことになるだろうね」
「敵勢力に奪われたら終わりだものね……」
 すぐには現れないかもしれないが、将来呪具を得ようと争う者は絶対に出てくる。そしてもし奪われてしまったら、それが謀反を試みる者だったら、国ごと取られてしまう可能性だってあるのだ。
「他に有名なのと言えば、あの世界最強の魔女と呼ばれたエキレイかな。彼女の持っていた呪具は、自らの魔力を意思を持った塊にできる能力を持っていたらしい。形状はナイフで、一度使ったら一生魅了されてしまうタイプ。若い頃は使いこなしていたみたいだけど、老いてからは呪具に飲み込まれてしまい、浮浪者となってこの大陸のどこかで死んだらしい。エキレイは野心家でもあったから、計画的なものだったのではないかとの説もあるけど、なかなか謎が残る話だね。他には――」
 身を乗り出しながら、レイセリーティアはアルフの話に耳を傾ける。が、徐々に違和感を覚え始め、慌てて彼女はアルフを止めた。
「アルフ、話が脱線してる」
 雰囲気的に、このままでもいいかなーと思い始めていたのだが、よくよく考えたら、聞く限り呪具を身につけていた人々はいずれも屈強な魔術師だけで、それでも最期に飲み込まれてしまう人がいると言うのに、私が操れるはずはない。
「もしかして、私が付けたままでいるように誘導したの?」
「まさか。でもそれが一番楽だけどね。君だったら扱う事ができるだろうし」
「私を買いかぶりすぎよ」
「そうかなぁ。魔術ギルド創設以来、君はSランク取得最年少記録を持ってるし、最近順調に力を上げているから、指折りの魔術師になると思うけど」
「なれたら嬉しいけど、最高ランクの魔術師は数人しかいないのよね。可能性は高くないと思うけど」
「俺が今まで会ったことのあるS+++++の人は二人いるけど、どっちも知識と技術でそのランクを得ているような人たちだったよ。魔力の総量だったら、今のレイティアの方が多いと思うし」
 何度も聞いているつもりだが、やっぱりアルフの誉め言葉は苦手だ。アルフの言葉は本音だし、経験から来るものが多いし、魔力を扱う事に関してはエキスパートだし。
 アルフの言葉を聞いてると自惚れてしまいそうになるから困る。
 と、また話が脱線している事に気付いて、慌てて話を戻した。
「アルフ、早く外す方法を教えて」
 今度こそ話を脱線させないよう、眼鏡のレンズ越しに、彼の瞳を覗き込む。
 彼は観念したように、期せず吹き抜けになってしまった屋根から、空を見上げた。
「しばらくは、この屋根もこのままか……。幸い、今の時期は雨季じゃなかったから、応急処置で何とかなるかな?」
 独白のように呟いてから、アルフは、レイセリーティアに告げた。
「レイティア、一緒に旅に出るよ」
 きょとんとした彼女を差し置いて、唐突に、重大な何かが決定された。

   4

 手を広げる事もできない狭い部屋。 
 光は差さず、目には何も映らない。
 あるのは重厚な鉄の扉と、小さな通風孔だけ。
 それでも声が聞こえる。音ではない。本当の声が聞こえる。
 笑い声が聞こえた
 ささやき声が聞こえた
 怒鳴り声が聞こえた
 泣き声が聞こえた
 語り合う声が聞こえた
 喜びの声が聞こえた
 戦いの声が聞こえた
 困惑している声が聞こえた
 一生懸命な声が聞こえた
 愛を謳歌する声が聞こえた
 うめき声が聞こえた
 静かな声が聞こえた
 憧れる声が聞こえた
 生きている声が聞こえた
 彼女はそれらに耳を傾ける。声は生まれ、明滅を繰り返して、起伏が揺れたと思うと、ふっと消えてゆく。
 途切れることなくたゆたう大河のように、声は彼女の周りを流れてゆく。
 その時、声を裂くように音が聞こえた。
 ドアが開く音。ぎちぎちと蝶番の悲鳴が部屋に反響する。
 白い光が差し、彼女は顔をあげた。
 おかあさんがいた。困ったような表情で、我が子を愛するような口調で、おかあさんは話し掛ける。
「シュカ、どうしてお母さんを困らせるの?」――時間が無いんだからいい加減にして欲しいわね。
「またこんな部屋に閉じこもって……お日様の光を浴びないと体壊しちゃうわよ」――何でこの娘はこんなに役立たずなのかしら。
「シュカ、立って」――魔法もろくに使えずに、いったい誰に似たのか。
「どうしたの、シュカ、ほら、一緒にご飯を食べましょう」――体裁上この娘も育てなくちゃいけないし、この家も楽じゃないわね。
「どうしてそんな顔をしているの?」――煩わしい。
「そんな悲しい顔をしてたら、お母さんも悲しいわ」――まったく、悲しい顔したいのはこっちよ。
「大丈夫よ、安心して、怖い事は何も無いわよ」――顔だけは人形のように可愛いのに、
「お父様も待ってるわ」――魔法も、
「お兄様も」――運動も、
「お姉さまも」――勉学も、
「食卓で待ってるわよ」――何もかも駄目なクズな娘。
「おいで、シュカ」――こんな娘いなければいいのに。
 音と声が聞こえた。シュカは耳を塞いだ。でも意味は無かった。声は嘲笑うかのように手の平を通り抜け、彼女の頭の奥深くに響き渡る。
 それでも、彼女は耳を塞いだ。
 それでも、声は消えなかった。

   5

 レイセリーティアは目を覚ました。
 慌てて頭をぐるりと回す。大丈夫、ここは自分の部屋だ。暗いのはまだ日が昇っていないせいで、光が遮断されているからではない。音が無いのはまだ商人たちが喧騒を歌っていないからで、音が断絶されているからではない。
 それに、声も聞こえない。
 全身に嫌な汗をかいていた。じっとりとまとわりつくような汗。髪の毛はぐちゃぐちゃで布団もぐちゃぐちゃで、寝覚めは最悪だ。
 ――今のは夢?
 でも、もう夢の内容は覚えていなかった。たったさっきまでは痛烈な印象が残っていたのに、もう断片すら頭に残っていない。
 もしかしたら昨日の事も全部夢だったのかもしれないと、右手を見てみたが、そこには相変わらず指輪が光っていた。
 少し気分が悪かった。動機も激しく、視界がぼんやりとする。全身の中で何かがぐるぐると渦巻いている感じがする。
 あまりにも巨大な魔力に触れると、体内の魔力がかき乱されてしまう、これを、魔力に中ると言うのだが、レイセリーティアの場合、一日中強大な魔力に中っていたことになる。
 起きている時は魔力制御が可能だった為、その影響は少なかった。しかし寝ている間は制御機能が著しく低下する為、彼女の中の魔力が錯乱しているのだ。
 レイセリーティアは起き上がったまま目を瞑り、ゆっくりと、自分の中の魔力をコントロールする。
 彼女は事前にアルフからこうなる事を聞いていたから慌てずに対処できているけど、聞かされていなかったらパニックに陥ってしまったに違いない。
 生半可な魔力の者が呪具をつけると、この朝の症状で魔力が暴走し、辺りに被害を出してしまうのだそうだ。
 彼女レベルになると後は本人の技量次第だからと、ほぼ放任状態で家に帰ってきたけれど、思っていた以上にこの症状はきつい。
 でも、何とか落ち着いてきた。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐き、動機も安定してきたのを確認して、ベッドから下り、床を確かめるようにして立ち上がった。
 しめて、一時間。
 目覚めてから覚醒までにかかった時間。それでも気を抜いたらめまいがしそうな状態が続いている。
 馬が駆けて行く音が聞こえた。その音ですら脳内を突付くような刺激を与えるのだから、完全に安定するにはもう少し時間が掛かるだろう。
(朝早くから馬に乗って走るなんてやめて欲しいわ)
 彼女は文句をたれながら、頭を抑える。
 徐々に免疫ができていくとの事だが、毎朝これでは気が滅入ってしまうかもしれない。かと言って眠らない訳にも行かないし……。
 彼女は指輪をねめつけた。一生身につけるなんてとんでもない。よくもまぁ、昔の偉人は使いこなしたものだ。それだけで偉人と呼ばれる度量は十分だと思う。
 窓の外を見た。少しずつだが、町がざわついてきた。日は昇っていないが、商人たちが商いの準備を始めているのだろう。
 彼女はクローゼットを開くと、ハンガーに掛かっている服を掻き分けて、奥に手を突っ込む。
 一着の服を抜き出すと、懐かしむように、その服を抱きかかえた。カビの匂いが鼻につくが、気になるほどでもない。今日一日着て日に当てていれば、匂いも取れるだろう。
 レイセリーティアは寝間着を脱ぎ捨て、準備を始めた。
 呪具を身につけてしまった時の対処法は三つ有る。
 一つ目は魔具の直接破壊。ランクS以上の高圧縮魔法を魔具にぶつける事で破壊させる。ただし、様々な危険が伴う為、この方法が取られる場合は少ない。
 二つ目は現状維持。呪具を身につけたまま生活する。少しだけこれでいいやと思った事もあるけれど、よほどの事が無い限り却下だ。朝の重労働でそれは決定的なものになった。
 そして三つ目。これが今回取られる事になった処置。アルフが面倒な事になったと呟いた元凶である。
 魔具の耐久性は著しく高い。普通の道具は本体そのものが消費、風化されていくの対し、魔具は魔力が先に消費、風化されていく。魔力の損傷速度は遅く、魔具が長持ちするのはそのためだ。
 魔具ですら最低でも二百年は持つといわれている。そして呪具には莫大な魔力が封じ込められている為、破壊は容易ではない。
 しかし、魔具から魔力を剥ぎ取ってしまえばただの道具になる。つまり、呪具の魔力の源となっている魂をはぎ取ってしまえば、単なる道具になりはずす事が可能になる。
 魂を剥ぐ為の儀式を行なうだけならどこでもできるのだが、一つ厄介な条件がある。
 それは、呪具に収められている魂の安定。
 呪具の魔力の源である魂は、本来の器から鎖によって引きずり出され、無理矢理違う器に縛り付けられたために、いびつな形、不安定になっている。
 魂を安定させるには、指輪に魂を縛り付ける原因となった鎖を緩めなくてはいけない。
 装備者が呪具に干渉し、鎖を緩めると言う方法がない訳ではないが、一番多く取られる方法は、その魂が身体から剥離した地――死地へ赴く事。
 本当だったら、そこで死にきらなければならなかった場所。不幸にも、現世に留まることになってしまった、その地。
 それが、今回の旅の理由。
 彼女は、指輪を連れて、魂の死地へ向かわなければいけない。すると、どんな理由からか、鎖が弱まり、魂が安定するのだと言う。アルフが言うには、死地が魂にとって一番あの世へ近い場所だからと言うが、真相はわからない。
 着替え終わった彼女は、姿見を一瞥した。
 鏡に映る彼女の姿は、いつもと雰囲気が違った。質素でおしとやかな女性をイメージさせる服装ではなく、どことなく、活発な少年をイメージさせるような服装。
「えへ、久しぶりね」
 昔と違うのは髪の長さだけ。その髪を結わうと、昔の面持ちが帰ってきた。
 本当はもう着ないと決めていたけど、長旅になるのでは仕方ない。
 七年前に病気で死んでしまったお母様の写真に一礼して、哀愁に耽る暇もなく、昨日用意した書置きをチェストの上に置き、代わりに旅に必要な小物が入った袋を掴むと、窓を開け放った。
 彼女の部屋は二階にあるが、ベランダに出ると、これまた昨日用意した丈夫な縄を慣れた手つきでベランダにくくりつける。しっかりと結ばれている事を確認して、するすると庭へと降り立った。
 長旅になると言ったが、長旅になる可能性が高いと言った方が正しい。
 指輪の死地を把握しているわけではないので、まずは探索から始めなくてはいけないためだ。下手をすれば死地の特定までに半年以上かかってしまうかもしれない。
 幸い、指輪の紋章が手がかりとなって、それを家紋としている地方が絞り込めたが、そこからまたつぶさに調べていかなければならず、それに要する期間は予想できない。
 馬小屋に向かい、一頭の白馬を連れ出した。毛並みが整っており、体も引き締まっている牝馬だ。
「シディ、よろしくね」
 レイセリーティアはいとおしそうにシディをなでる。シディと呼ばれた愛馬は意気高々と鼻を鳴らした。
 首筋を撫ぜながら鞍を取り付け、馬にまたがると、家の敷地を颯爽と抜けていった。
 
 ダンゼの町の西口が落ち合い場所。朝早いため道は閑散としており、馬をとばすとあっという間に着くことができた。
 アルフは一足先に西口に着いており、彼女を出迎えた。
「おはようレイティア」
 迎えた彼は、相変わらずぼけーっと言う擬音が付きそうな佇まいだった。反して、彼の馬、名はドーゼルと言うのだが、今か今かと言わんばかりの猛りを全身で表していた。
 黒い毛並みに長い鬣、そしてなにより、鋼のような筋肉が全身にめぐらされていて、馬をよく解らない人が見ても、名馬だとは容易に想像できる。
 レイセリーティアの馬も名馬だが、従順であるため、彼女以外が乗っても乗り手の命令に従うだろう。しかし、アルフの馬ドーゼルは、アルフ以外の人を乗せようとしない。
 一度だけ乗せてもらったのだが、ドーゼルは何もしないうちに全速力なり、手綱を引いても思い切り抵抗されてスピードは落ちず、しかもその速さが尋常ではないものだから、彼女はどうにもできなくなってしまった。
 しかし、風を貫くように進むドーゼルの力強さに素直に驚嘆した。空気の壁はドーゼルの走りの前には全く無力だった。止まったのはドーゼルが疲れきった時で、かれこれ一時間も全力疾走した後だった。
 アルフが言うには、ドーゼルが他人を乗せただけでも凄いらしい。今までにも、ドーゼルの走りに憧れて、乗せて欲しいと訪ねて来たものがいるのだが、ドーゼルはことごとく乗馬を拒否、運良くまたがれたとしてもいきなり暴れ、ロデオを体験する羽目になるのだと言う。
 乗せてやっただけありがたいと思え、レイセリーティアに対して、ドーゼルはそんな風に思っていたに違いない。釈然としないながらも、この馬を乗りこなしているアルフは凄いと思った。
 シディ、と呼びかけながら、レイセリーティアは自分の馬を撫でてやる。アルフの馬はすごい事は認めるが、しかし自分の馬も素晴らしいと心から思っている。
 ドーゼルが風を貫くように駆け抜けるとしたら、シディは風に乗るように駆け抜ける。ドーゼルに体力では負けてしまうが、速度だけなら互角以上だと思っている。
「アルフ、その荷物は何?」
 本当に旅に出るのか疑わしくなるようなラフな格好をしている彼の背中には、その姿に似つかわしくないリュックがあった。
 シディとドーゼルならば、一日のうちに簡単に次の町に移動できてしまう為、大層な荷物は必要がないはずだった。現に、彼女はお金と水と少量の食糧しか持って来ていない。
「トーヤから買い取った魔具の一部、特に乱れの酷い魔具を持って行くことにしたんだ」
 長期間、人に使われていなかった魔具は、中の魔力が大きく乱れ、暴走する可能性がある。その魔力を安定させる技能を持っているのが魔具専門家であり、アルフはその免許を取得している。
 今回の旅は長くなりそうだから、暇があれば手入れをすると言うことなのだ。
 二人は馬に合図を送ると、町に背を向けてパカパカと歩み始める。
「どんな魔具を持って行くの?」
「まずは魔導銃。まだ不明な点も多いし、護身用にもね。なんだか、俺って一風変わった人たちに絡まれる機会が多いから、もしもの時の為に護身用の何かを一つ二つ持とうと思ってたんだ」
 腰に吊るしておくだけだし、珠もかさばる物ではないので、携帯しておくのには丁度良いのである。
(アルフがよく絡まれるのは、人が良さそうな顔をしているからよ……)
 華奢そうに見える体にぼけーっとした顔にインテリを漂わせる眼鏡。さらに、普通は微々ながら体から漏れて出している魔力がオーラとなり周りを威圧するのだが、彼にはそれがない。アルフは域の魔法により、魔力の流れを完璧に把握しているため、魔力漏洩が一切ない。当然オーラで周りを威圧する事もなくて、嘗められる事となる。あちらの方々から見れば、恰好の獲物に映ってしまうのだ。
 声には出さないが、心底同情する部分である。
「他には、文字を書こうとすると先が引っ込むペンとか、先っぽで何かに触るとその何かが真上に飛ぶ杖とか、見るたびにアトランダムに文字列が変わる小さな石盤――」さらに数個、用途が不明な魔具が列挙された後
「君の足に落ちた直方体の石とか」
「……あの石も持ってくの?」
「うん」
 レイセリーティアはあの石の存在を思い出しただけで嫌な気分になった。石に刻まれている言葉を唱えると巨大化する魔具。突然巨大化したことに驚いて手から滑り落としてしまい、彼女の足に直撃した憎き石である。
 あの時は本当に痛かった。骨が折れたとすら思った。一日経ったら痛みは完全に引いたけれど、ちょっとしたトラウマになりそうなくらい痛かった。
「ねぇ、あの石、私に持たせてくれない?」
「別に良いけど、調整の仕方は解るよね?」
「ええ。アルフに教わったもの」
 教わったと言っても難しい事ではない。単に、時間を空けて何度も使用してやればよいのだ。何度も使う事により、魔具は本来の魔力の動きを取り戻すのだと言う。
 それならばと、アルフはリュックからあの黒い直方体の石を取り出してレイセリーティアに渡した。
(私に傷をつけたことを後悔させてやる。私の調教を思い知りなさい!)
 と、意志を燃やす彼女だが、当の本人は、涼しそうに、黒くてかてかと光っていた。
 それにしても――
 しばらく雑談をしながら、しかし徐々にレイセリーティアは不満を募らせていた。
 折角懐かしの服を着てきたのに、それに対する言葉がないし、呪具をつけていると言うのに心配するような台詞は聞こえないし、もう少し何か言ってくれればいいのに。
「ねぇアルフ、私呪具付けてるのよ。少しぐらい何か言ってくれてもいいんじゃない?」
 反射的に口に出してしまった時にはすでに遅く、ゆるゆると羞恥心がこみ上げてきた。
「えっと……」アルフは少し困ったように
「朝起きた時のレイティアの魔力の調整は上手だったと思うよ。あんな短時間で収まるなんて凄いと思う」
「そうなの? 私にはとっても長い時間だったけど」
「長く感じるのは仕方ないだろうけど……でも、一日中引きずってしまう人もいるから、それを考えたら早いよ。それに、君は思った以上に冷静に行動できていたし、魔力の暴走がなかったのは賞賛できるほどだよ」
 と、レイセリーティアは怪訝そうな表情でアルフを見た。なぜ自分の朝っぱらの行動を評価できるのだろうか。まさか直接見ていた訳では――。
 域の魔法。
 単純な答えだった。彼の顔にも、その答えを導く手立てがあった。
 アルフの目元にはうっすらとくまができており、全体的に眠そうで、ぼーっとしている理由に一役買っている。それに、朝聞いた馬の駆け足の音は、よくよく考えてみればドーゼルのものに似ていた。
 また羞恥心が上ってきた。アルフは私が起きる前から家の近くで待機していたのだ。もしもの時にすぐ駆けつけられるように、側にいてくれたのだ。
 そもそもこの旅だって、私の不注意のせいで出かけることになってしまったのに、彼は嫌な顔をせず、私の心配をしてくれて、旅の算段を練ってくれて……。
 アルフがそういう性格だと言う事は、散々理解していたつもりなのに。恥ずかしいことこの上ない。簡単なことが解らないなんて、やっぱり呪具が影響しているのだろうか。
「そう言えば、レイティアのその服、懐かしいね」
「へっ」と、完全な不意打ちを喰らう事になり、レイセリーティアはしばし呆けてしまった。
「そうだね、今回の旅では、その服の方が似合ってるよ」
 それだけ言うと、もう服に対しての言及はなかった。だけど、彼女の心にハードパンチを喰らわせたことは確か。似合ってるの一言で、さらに顔が赤くなってしまった。
 これが、アルフの性格だとは、解っているのだけど。彼女は小さくため息をついた。
「じゃあ、走ろうか」
 アルフの提案に、彼女はまた小さくため息をついてから、笑顔で
「うん」と答えた。
 合図を入れると、待ちかねたように馬は走り出す。あっという間に速度を上げた馬は、ぐんぐんと町から遠ざかってゆく。
 彼女は思い出したように、振り返った。
 しばらく戻る事がないであろうその町に向かって、家に向かって。
 いってきますと風に流した。

   6

 その男は、木偶人形のように地面に転がっていた。
 満身創痍。男の体にはいたるところにアザや生傷が散らばっている。赤黒い染みが地面に広がっており、傍から見ると死体のように思えるが、しかし男の胸は上下に動いており、かろうじて生きているようだった。
 野良犬が男に近づいてゆく。これは何かと匂いを嗅ぐと、男はギロリと犬を睨みつけ、犬は驚いてその場を去っていく。
 男は切れ切れの単語を呟きながら、夜明けの空を見つめていた。
 あいつに負けたせいで、すべての歯車が狂った。
 今でも、あの戦いが目に浮かぶ。

 あいつとは成り行きで戦う事になった。別に理由があったわけではない。ただの鬱憤晴らしだ。
 女に事実上負けを喫した苛立ちを、あの男にぶつけただけの事。その結果、その男が傷を負おうが死のうが関係なかった。
「死に晒せや!」
 魔力をかき集め水を精製し、圧縮、そして打ち出した魔法は、女と戦った時の魔法とは比にならないほどの威力を誇っていた。一撃で家の壁を砕いてしまうであろうその魔法は、凄まじいスピードで、眼鏡の男に突き刺さろうとしていた。
 が、彼は最小限の動きでそれを避けてしまう。踊っているような軽やかなステップで、何事も無かったようにその場に佇む。
 いまいち状況が理解できていなかった。このスピードに特化した魔法を避けるなんて信じられなかった。相殺するならまだしも、避ける?
 まぐれだ。運が良かっただけ、それ以外に説明できるものはない。
 もう一度、今度は強烈な風の塊を放った。直線に地を抉りながら、男に向かってゆく。
 また――ひらりと、掠ることなくく魔法は男の横を過ぎていった。男の避け方に素早さがあったわけではない。魔法にだって速度があった。範囲も狭かった訳ではない。
 理由が解らず、頭に血が上ってしまった彼は、自らの全力を持って男へと魔法を繰り出した。
 しかし、水の散弾も、風の刃も、殺すつもりで放った魔法なのに、あの男は当たり前のように避けきった。自分が使える最高の技ですら、あの男は顔色一つ変えず、何事もなかったように避けてしまった。
 無様だった。体が悲鳴を上げてきて、魔力が枯渇して、あの男の前に、あの男の足元に、自ら跪いた。さながら、家臣が王に頭を垂れるように。
 その男は言った。
「俺の勝ちだね」と。
 男は去ってゆく。何事もなかったように。
 屈辱だった。悲鳴が上がらなくなるまで嬲りたかった。ずたずたに腸を屠ってやりたかった。殺してやりたかった。すかした面に全魔力をぶちまけてやりたかった。
 俺が負けたのは俺のせいじゃない。あいつと戦う前に、あの女と戦っていたのがいけないのだ。女は強い。ランクS以上なんて、いる割合は一%にも満たないのだ。女と対峙しただけで、魔力を消費していたのだ。俺は本調子じゃなかった。油断もあった。あの男に負けたのは運が悪かったのだ、そうでなくては、ランクC+如きに負けるはずがない。
 とにかく、全魔力が尽き、全身が弛緩したような状態の彼は、地面を這い蹲ってなんとか路地に入り込んだ。
 三日もあれば魔力は全部回復するだろう。そうしたらリベンジマッチだ、次はあの男を殺してやる。女の目の前で殺してやる。臓腑を引きずり出してずたずたに切り刻んでやる。体を穿ち消滅させてやる。殺してやる、殺してやる。
 その時、彼の頭上に影ができた。彼は顔を上げた。
「あれー、こんな所にゴミが転がってるよ」
 見知らぬ三人組。薄汚い格好で品のない笑みを浮かべながら、彼を取り囲んでいる。
「噂は本当だったんだなァ、俺めっちゃ感動したよ」
 彼はこの三人組の事を知らなかった。しかし、三人組は彼の事を知っているようだった。
 彼は息絶え絶えながらも立ち上がり、言葉を発する。
「なんだ……お前ら、不愉快だ、消えろ……殺すぞ」
 彼の声に、三人組は腹を抱えて笑い出した。
「なんか面白い事言ってるぞ!」
「冗談は顔だけにしとけよってか」
「バカ、こいつの存在自体がコメディだろうが」
「そりゃそうだ」
 また、三人組は大声で笑い出す。
「てめえら……俺様が何者だか解って物を言ってんのか?」
 彼は拳を固めると、三人組の一人に殴りかかった。
 だが、その攻撃は疲れきっていてキレがなかった。彼のパンチは簡単に避けられ、踏ん張る事もできず倒れてしまう。
「今こいつなんか言ったか?」
「いんや、ハエの飛ぶ音しか聞こえなかったな」
「ゴキブリが潰れる音だったら聞いたぜ」
 三人は彼を見下していた。地を嘗めている姿がお似合いですよと、せせら笑っていた。
「……目的は何だ」
 彼が尋ねた瞬間、三人の表情が凍りついた。
「だろうな、お前が覚えてる訳ないよなァ」
 三人の表情が、憎悪に塗りつぶされていく。瞳の奥に黒い光が渦巻いている。
 彼はこの場から逃げようと立ち上がった。しかし単純な足払いすら避ける事ができず、また地を嘗めることになる。
「弱え事は罪だなァ、カイゼルさんよ」
 三人のうちの一人が、地に伏せたままの彼――カイゼルの髪の毛をグイと持ち上げる。
 今から何をされるか解っていると言うのに、抵抗ができない。体が動かない。
「手前が教えてくれたんだぜ、カイゼル。弱者はただ屈するのみだってな」
 にやりと、笑みを浮かべた。
「手前の所為で全部失ったんだ。その恨み辛み、味わえや」
 カイゼルの腹に重い蹴りが炸裂した。腹筋に力を入れることすらできなかった彼は、ゴハっと、口から胃袋の中身が逆流した。
 三人の暴行は止まらない。積年の恨みを、一撃一撃に込めて晴らすように。
 カイゼルの口から血がこぼれた。ゴキリと肋骨の折れた音がした。それでも暴行は収まりそうになかった。
 カイゼルはなぜこんな事になっているのか、微塵も想像ができなかった。
 今まで自分がしてきた事は、虫けらを殺すことだけだったから、内容なんて、ましてや被害に遭った人の顔なんて覚えているはずが無いのだ。

 三人の男が去った後も、新たなゴロツキがやって来て、徹底的に彼に暴行を加える。そのゴロツキが去ったと思えば、また人がやって来て彼を嬲ってゆく。繰り返し繰り返しやって来る悪夢は、怪我の無い場所を見つけるのが難しいほどに、彼を痛めつけた。
 夜も深くなってから、命からがら這いつくばうように逃げた彼は、誰もいない路地に逃げ込み、ようやく眠りについた。

 その男は、木偶人形のように地面に転がっていた。
 切れ切れの単語を呟きながら、夜明けの空を見つめていた。
 一体どれほどの時間が経っただろう。殴られるたびに記憶がとんで、感覚がすべて狂ってしまった。
 体が痛い。経験した事のない痛みがある。おびただしく滲み出る血が自分の物ではないような気がした。
 あの男に負けたせいで歯車が狂ったのだ。すべてがあいつの所為だ。アイツがいけない。アイツが悪い。責任はすべてアイツにある。アイツがイケナイノダ。アイツを滅シテヤル。殺シテヤル、コロシテヤル――
 その時、また、頭上に人影ができた。聞き飽きた下卑た笑い声が、彼に降り注ぐ。
「おー、ただで殴らせてくれる奴がいるって噂は本当だったんだな」
 頭上から見下ろすのは五人組。しかし、もはや彼に恨みを持つものではない。後半からは、ほとんどがそのような類いの人間だった。だから今も、そんなグループがやってきただけ。
 すでにそんな奴らに興味は無かった。興味を持ったところで何の価値も無いからだ。そんな事より彼が興味を持っていたのは、こんな朝早くから聞こえてくる、馬の足音――
 細い路地から見える通りに、その馬はやってきた。
 民家と民家に挟まれた細い視界からでは、その姿は一瞬で見えなくなってしまった。しかし彼の網膜にはくっきりと焼きついた。
 白い優雅な馬にまたがった女性。服装こそこの前と印象が違ったが、乗馬していたのはあのムカツク男の前に戦った女だ。
 男たちが何か言っているようだが、何を言っているのかは解らなかった。
 彼は引っ張られるように、視線をずらす。
 そこにはナイフが落ちていた。何の変哲もない、どこでも購入できるような陳腐なナイフ。そのナイフは、彼に語りかけるように刃を光らせた。
 我を掴め、我を揮え、目の前に立ちはだかる物は切り裂け、欲望のまますべてを切り開け――。
 カイゼルは笑みを浮かべた。もう体の痛みは無かった。魔力もみなぎっていた。やるべきことも決まっていた。彼は無造作に立ち上がった。
「お、やる気か? 蛆虫のように地面を這っていれば、あんまり痛くせずに済まして――」
 その男は、最後まで言葉をつむぐことは出来なかった。まるで初めからその姿だったかのような美しい切り口を残し、そいつの頭はいつの間にか消失していた。地面に落ちたソレを、カイゼルは踏み潰す。何度も、何度も。
 男の首から鮮血がほとばしる。噴水のように吹き出る鮮血を間近で浴びながら、頭蓋が砕けるまで踏み抜いた脚を持ちながら、カイゼルは笑っていた。
 他の男たちは悲鳴を上げた。そんな馬鹿なとか、死に損ないの癖にとか、よくも仲間をとか、なんだか害虫がうるさかった。俺様に聞き取れない言葉を喋られても、ウザイ。
 ナイフや魔法で一匹、また一匹とハエを潰してゆく。相手はちょっとだけ抵抗したみたいだが、簡単に潰れていった。残りは後二匹、叫びながら逃げ出したけど、虫は潰しておくに限るから、ためらわず潰した。肉が砕けるような、ぐちゃりと、小気味いい音を立てた。
 朝日が差し込んだ。一面が赤で染まっていた。五つのハエが息絶えていた。彼は笑っていた。
 コロシテヤル。
 近くにあった馬小屋を魔法で破壊する。馬を物色していると、近くの家からまたハエが出てきた。
 何をしているんだ! と暑苦しく近寄ってきたから、魔法で吹き飛ばした。残念ながら今回は仕留められなかったらしい。かと言って止めを刺す時間が勿体無いので、すぐさま馬にまたがった。
 あの女は西口に向かっていた。
 カイゼルは馬を走らせる。
 血にまみれたその姿は、まるで死神の形をしていた。


―――――――――――――――――――――――
プロローグと一章。原稿用紙113枚。
誤字脱字とか設定矛盾がいっぱい。こんなのを送ったなんて涙が出そうだ。

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