ディン山脈は南北に連なる、比較的高度の低いなだらかな山脈である。
 セーラ川を東西に分かつその山脈は、沢や崖や森に岩などの多種多様なで複雑な地形を持っているために、人が行き来するための道が出来上がっていない。なので一般的には、麓の町にある橋でセーラ川を渡り、ディン山脈を南からやり過ごす。
 道が無いとはいえ、山脈横断の方が早く向こう側に到達できるのだが、効率面や安全面などからこの行程が使われることはまずない。いくら早くなるといっても二,三日程度だし、山にはお店も宿もないのである。
 近年、この山脈に街道を敷設する計画が持ち上がっているのだが、いかんせん費用がかかりすぎるため頓挫しているのが現状だ。
「ディン山脈はガッザニールが作ったと言われてることは知ってる?」
 アルフはレイセリーティアに問い掛ける。
「知ってるわよ。どこまで本当か解らないけど、山脈の名前は初代皇帝ディンバー=ガッザニールから取ったと言われてるのよね」
 この国を統一した初代皇帝ガッザニールは、腕を一振りすれば山も海も空すら砕けるという逸話が残っており、古今に渡り最強の称号を冠している。
 彼はこの国を統一する際の戦争で、周辺の地形を大幅に変えてしまった。山を崩し、平野を穿ち、敵と共に空を吹き飛ばした。
 その熾烈な戦争の時にできた代表的なものがこの山脈だという。その説の証拠までとはならないが、王都ストックレインからディン山脈まですべて平野であり、一切の丘すら存在しない。
「じゃあ、セーラ川の名前の由来は?」
「ガッザニールの后……じゃなくて、娘の名前」
「正解。后の名前はリンシャ。彼女は美しく才知にも優れたけど、体が弱く、統一してからすぐに亡くなってしまったんだ。娘のセーラと引き換えにね」
 リンシャが亡くなり、ガッザニールは嘆き悲しんだ。しかし、国を統一してから間もなく、いつまでも悲愴にくれているわけにはいかない彼は、政に力を入れながら、同じぐらいに娘のセーラを溺愛し、その証を大地に刻んだ。それがセーラ川。
 ディン山脈から東に流れるセーラ川は無限の可能性がある海へと。西に流れるセーラ川は、母の元へ、リンシャ湖へと繋がっている。
 リンシャ湖とはディン山脈の西側、裾野の終わりにある広大な湖である。その大きさは大陸一を誇り、付近の住民にとっては大切な生活用水になる。
 今でさえ大陸一と呼ばれるリンシャ湖だが、昔は大した広さを持っておらず、ガッザニールがセーラ川を創ったと同時に湖を広げたと言う話もあるが、真偽は定かではない。
「アルフは色々とよく覚えてられるわね。偉人の名前だけなら覚えてるけど、背景までは全然知らないわ」
「職業柄、歴史に詳しい方が便利だからね」
 特殊魔具は年代によっても少しずつ性格を変える。新しければ新しいほど性格が激しく、念入りに手入れをしてやらなくてはならない。逆に古ければ古いほど落ち着いており、手入れの回数は少なくて済むし、性格は穏やか。初心者が扱うのなら、年代の古い物の方が扱いやすい。
 ただし、戦争や大規模な天変地異など激動の歴史が魔具生成時期に重なると、これまた魔具の性格が変化してくるので、事件が起きた年代や場所を勉強して置かないと、イレギュラーに対応できなくなってしまう。
「それにしても……」
 レイセリーティアは、うんざりとした表情で山の頂を仰ぎ見た。
「ガッザニールも迷惑な事してくれたわよね」
 彼女の愛馬シディも、同意と言わんばかりに鼻を鳴らす。
「いくらなだらかと言っても、標高千五百はある山だからね。簡単には抜けられないよ」
 アルフも頷いて、ため息をつく。
 鬱蒼と茂る森。そこから何とか見えるディン山脈の頂を目指して、二人は登山を強行していた。

 二人は今、ディン山脈を越えようとしている。
 当初、二人は迂回路を使う予定だった。今まで順調に進んできたのだから、わざわざ近道をする理由などないし、危険を冒してまで日程を短縮するメリットは無かった。
「随分と賑わってるわね」
「ほんとだね。俺もここまで賑やかだとは思ってなかったよ」
 太陽がほんの少し傾きかけた時間帯、二人はディン山脈の麓の町に到着した。
 次の町までは、今から馬をとばしても、ようやく夜に着く距離なので、今日はこの町に泊まることになる。
(本当なら、早く次の町に行きたいんだけど……)
 レイセリーティアは心中でつぶやく。
 ただし、最近は大雨が続き、道が濡れ、馬も疲れているし、駆け足をして怪我をさせてしまったらそれこそ遅延の原因になる。
 レイセリーティアは考えを打ち切ると、シディから降り、もう一度町を見渡した。
 ダンゼの町と比べたら格段に人の数は少ないけれど、しかし今まで通ってきた町のどこよりも人口密度が高く活気があるように見えた。
 東セーラ川を渡るための橋は、たった二つしか造られていない。一つはダンゼの町に、そしてもう一つはここ麓の町にである。
 人が行き交うところに町はできる。橋を渡るために集まる人々を狙って露天ができ、商人が集まり、豊かな町を求めてさらに人が集まり、半ば必然的な町の形成過程である。
 アルフもドーゼルから降りて、二人は町の中へ入っていく。
 商業的な町が出す雰囲気は、似たような経緯で大きくなったダンゼの町を髣髴とさせる。
「何か買いたいものでもあった?」
 きょろきょろしていたからか、アルフが訊ねてきた。
「買いたいものは特にないわ。それに、買っても邪魔になっちゃうし」
 ダンゼと似たような雰囲気の町と言っても、陳列されている商品は全く違い、興味をそそるものばかりだ。
 短期の旅なら土産をいっぱい買うのだけれど、今回は長旅だから我慢。
「でも、いろんなところを見て回りたいわ」
「夜まではまだ時間があるし、宿を取ったら露天めぐりでもしようか」
「賛成」
 宿を探しながら歩いていると、前方に大きな人だかりが見えた。群集を遠巻きに見ながら、二人は立ち止まる。
「何かしら?」
「何だろうね」
 ふと、アルフがレイセリーティアを見る。
「どうしたの?」
「君が原因じゃないんだなぁと思って」
「どういう意味よ!」
「だって、ダンゼの町での人だかりの原因はほとんどの場合――」
「それ以上言わなくていいわ……」
 とりあえず、今回の人だかりは、レイセリーティアの喧嘩が原因で人だかりができているわけじゃない。
「見に行く?」
「シディとドーゼルがいたら無理よ。気になるけど宿を決めちゃいましょう」
 馬が暴れて第二の人の山ができてしまったら困るし。
(シディとドーゼルの脚力だったら、死傷者の山ができそうよね)
 などと洒落にならない冗談を思い浮かべつつ、近くにあった馬屋付きの宿屋へと入る。
 ドアのベルがなると同時に、カウンター奥からのっそりとおばあさんが顔を出した。
「お客さんかい? すまんねぇ、もう一人部屋すら満室なんだ。他をあたってくれるかい?」
 出し抜けに言われて、二人は顔を見合わせたが、仕方なく別の宿を探しに出た。次の宿を見つけてドアを開けた。
「悪いね、部屋がもうないんだ」
 さらに別の宿へ移動。
「すまんなぁ、ついさっき満室になっちまって」
 別の宿へ。
「ダンゼ? 随分遠いところから来たのね。でもごめんなさい、もう部屋は余ってないのよ」
「お客さんには悪いが、部屋は余ってないよ」
「外に満室って札を掛けてあったろう? もう無いよ」
「部屋ならないよ」
 部屋が満室だと断られては次の宿へ渡り、また断られて移動し、十数回それを繰り返したが、いまだに宿が見つからない。
 最初の二,三軒が満室ならよくあることだが、全滅なんて珍しいを通り越して異常である。
「私たちを陥れるための罠か何かかしら」
 少しずつ、レイセリーティアの機嫌が悪くなってきた。
「でなきゃ客を泊めちゃいけない何かのしきたり」
 本当ならもっと早く宿を拵えて露天めぐりに繰り出すつもりだったのに。これじゃあ宿をとっても長い時間遊べない。
「それとも、この町で私たちが何かいけないことでもしたのかしら、ねぇ」
 旅で蓄積した疲労を、騒いで発散してやろうと思っていたのに。
「次が駄目だったら、どうしてやろうかしら」
 彼女の表情こそ穏やかだが、周りには鬼気をまとい、行く手を阻むものをそれだけで粉砕できそうな勢いである。
「レイティア、落ち着かないと空室がある宿でも断られちゃうよ」
「解ってるわよ」
 怒っても意味がない。そんなことは解ってるけど、呪具のせいでイライラしていて、その上、変なところで予定を狂わされて、気が滅入りそうになってくる。
(朝のアレも相変わらずだし――)
 アレとは、シンクロによるアルフのベッドへの侵入行為である。
 二日に一度のペースでシンクロは起こり、その度に例の優しげな女性が現れて、衝動的に抱きつくと、次に目覚めたときはアルフのベッドの中なのである。
 こんな恥行、理性のある時なら絶対にしない。だが意識がうつろになると、恥ずかしさよりも、孤独で辛い、乱れた魔力のコントロールをしないで済む安堵感の方に軍配が上がってしまうのだ。
 どうにかならないものかと悩みつつ、次の宿屋に入る。
「おばさん、部屋空いてる?」
「ああ、空いてるよ」
 アルフが尋ねると、ようやく色よい返事が返ってきた。と、思いきや。
「でも、一番安い一人部屋が一つしか空いてないんだよ。どうする? て言うか、お二人さんはそういう仲っぽいし、その方が良かったりする? でもうちのベッドそんなに強度ないし、気をつけてくれないと――」
「他当たります」
 レイセリーティアは言い切った。宿探しで疲れている中、おばさんの色ボケトークに付き合っていられるほど余裕はない。それに、朝の出来事でも頭を痛めているのだから、一人部屋を二人で使うなんて問題外だし。
「他と言っても、今は他の宿も満室なんじゃないかい?」と、おばさん。
「そうなんですよ。私たち今の今までも宿探してたんです。見つけた宿を片っ端から当たっていったんですよ。それなのに一室すら空いてなくて、ようやくここで空室を見つけたと思ったら一人部屋なんです。これは誰かの陰謀なんですか? そう言えば、空室がなかったこと以外に嫌なことがあったんですが、宿主が「満室だよ」と断るときの台詞、なぜか言い慣れてたんです。酷い話ですよね、こっちはお客さんですよ。それなのに『あーあ、また客かよめんどくせぇ』みたいなあからさまな断り方なんです。こっちだって何軒も何軒もたらい回しにされて疲れるのよって怒鳴り込みたくなったぐらいですよ。商売人として最悪な態度ですね。あんな宿屋競争率高い場所だったら即刻つぶれてますね。同じ商売人として見てられないと言うか、同じ商売人として扱って欲しくないと言うか……で、本題なんですけど、なんでこんな事になってるんですか?」
「こんな事ってどんなことだい?」
 溜まりに溜まった鬱憤を織り交ぜながらのレイセリーティアの問いに、困惑の表情になるおばさん。
 アルフは苦笑しつつ、また早口でまくし立てそうなレイセリーティアの代わりに答えた。
「今までに何軒か宿を当たったんだけど、全然空室がなかったんだ。二,三軒ならともかく、十数件も続いたんだよ。さすがに何かあるんじゃないかと思って」
「あんたら知らないのかい? 橋が落ちたんだよ」
「橋が落ちた?」
 二人は異口同音に驚きの声をあげた。
「そう。ここ数日、まとまった雨が降っただろう? そのせいで川の水量が増加してねぇ。堤防は何とか持ちこたえたらしいんだけど、橋は流されちゃったんだよ。そのせいで旅人が川のあっちとこっちで立ち往生、宿がここぞとばかりに繁盛してるんだよ」
 先ほど見かけた人だかりは、壊れた橋を見るために集まった野次馬だったのだ。
 どれぐらいでセーラ川を渡れるようになるのかを問うと、おばさんは難しそうな表情で答えた。
「まだ川の水量が安定してないし、今は雨季じゃないだろ? だから町も油断してて、資材が不足してるんだよ。それを考慮すると、本橋は一ヶ月……仮橋ができるまでにも一週間はかかるだろうねぇ」
「そっか。じゃあ今この一人部屋を逃したら、野宿の可能性もあるわけか」
「そういうことだね。うちで二人部屋が空いてれば良かったんだけど……」
「予備の布団ぐらい出る?」
「ああ、倉庫に毛布はたんとあるから、好きなだけ貸すよ」
「とりあえず、一泊だけ一人部屋を取るよ。俺が床で寝ればいいし、レイティア、いいよね?」
「……いいわよ」
 良くない。まったく良くない。仕方がないとはいえ、状況は極めてよろしくない。
 シンクロによるアルフのベッド侵入回数は、当然旅行日数が増えれば増えるほど多くなる。一人部屋だとアルフとの距離が短くなるから、侵入する確率が高くなることは確実。
 さらに、一人部屋に案内されて愕然とした。
 一番安いと言われていただけあって、その狭さは折り紙付。
 ベッドに簡素な棚があるだけで、アルフが寝ると言っていた床の狭さを見ると、二人でベッドに寝た方が幾分楽そうだ。もちろん、そんなことは断じて許されないけれど。
 二人は部屋に荷物を投げ入れると、ベッドに腰をおろす。
「どうする? 今から出かける?」
「そんな気分じゃないわ」
 レイセリーティアはため息をついた。
 すでに暮れの時間帯だし、延々と宿探しをしていたから精も根も尽き果てた感じだ。
「雨さえ降らなくちゃこんなことにならなかったのに」
 窓から空を仰ぎ見る。先日までの曇天はなんのその、今は空が赤々と映えている。
「雨季じゃないのに降り続いたなんて生意気よね」
「生意気かどうかは別として、変わった雨ではあったよね。確かこの地域のこの時期は雨季よりも乾季に近いから、こういう雨は珍しいはずだよ」
 これも呪具に関する一連の不幸の延長上なのだろうか。ありえそうな事だとレイセリーティアは苦笑し、ふと思い浮かんだ疑問を口に出す。
「ねぇアルフ。今回まとまった雨が降ったと言っても、雨季はこれぐらいざらよね? そう簡単に橋が流されちゃうものなのかしら」
「そう言われると不思議だね。雨季の度に壊れてたらやってられないだろうから、整備はきちんとしているだろうし」
 時期はずれの雨が降ったとは言え、交易の重要な拠点である橋が簡単に崩れてしまうとは考えにくい。
「私たちを渡すのが嫌だったのかしらね」
「日頃の行いが悪かったのかもしれないよ」
「そう言われちゃうと、思い当たる節がたくさんあるから困るわ……」
「例えばどんなこと?」
「そうね……商品の値切りは当たり前、物を借りたら高確率で破損して返品する事になるし、町中の喧嘩なんてしょっちゅうでしょ。その時の器物破損+責任は対戦相手に押し付け+逃亡は黄金パターン。口論の際はこちらが正しいと思わせるように徹頭徹尾有利な情報を活用して強引に誘導するし、嫌いな相手との口論になれば虚言妄言罵詈雑言悪口雑言揚げ足取りに詭弁屁理屈口先三寸口八丁机上の空論のオンパレード、数え上げたらきりがない……って、言わせないでよ!」
「あはは、ごめんごめん」
 最近の悪行だけを数えても、足の指も使わないと数えられないほどある。これは自分の性格だし、これからも変わらないだろうと思っているのだが、あらためて振り返ると、いい加減矯正した方が良さそうな感じがしてくるから好ましくない。
「性格直した方がいいのかしら」
「レイティアは、レイティアのままでいたほうがいいよ」
 ちょっと卑屈になっているレイセリーティアを励ますようにアルフは言う。
「清楚でおしとやかで物静かで……そんなレイティア、想像できないし、一緒にいても楽しくなさそう」
「ひどーい! 私だって、家では可憐なお嬢様をってるのよ。『レイセお嬢様はいつも貞淑で慎みがあって、まさにハルメット家の鑑でございます』『お嬢様は容姿品行、すべてにおいてあらゆる女性の憧れですわ』ってメイドに言わしめるぐらいなんだから。一度アルフに見せてあげたいわ。きっと感激して涙が出るわよ」
「やっぱり想像できないな」
「いいわよ別に。いつかその姿を見たときに卒倒すればいいわ」
「期待しておくよ」
 この調子でしばらく歓談していたら、いつの間にかあたりは暗くなっていた。山の陰になっているから夜が早いのだ。
 アルフは立ち上がると、毛布をもらってくるため部屋を出て行った。
 レイセリーティアは彼の背中を見送り、自分も寝るための準備を始める。
 が、その動きはすぐに止まる。
「忘れてた……」
 雑談を交わしていたら、完全に頭から抜けていた。狭い一人部屋に二人で寝ること。その部屋に数日間泊まらなくちゃいけない可能性があること。それはつまり、アルフの寝床侵入回数が増えると言うこと。
 アルフが床で寝ると言うことは、もしシンクロしたら自分も床に寝ることなる。すると、余ってる床はベッドより狭いから、密着度が危険なことになる。
 しかし、シンクロが起こらなければ起こらないで、朝の重労働、魔力調整が待ち受けているのだから、板ばさみ状態だ。
 アルフが毛布を両手に戻ってきた。それをベッド横の床に敷き詰めると、アルフの今日の寝床が完成だ。
 レイセリーティアは腹を決めた。どちらにせよ、日程が短縮されれば、そんな板ばさみの状態が解決されるのだ。
 深呼吸を一つ。真剣な表情で、彼女は切り出した。
「アルフ、話があるの」

 そして翌日。
 二人はディン山脈を越えるため、鬱蒼と茂る森の中を歩いていた。
 是が非でも日程短縮したいレイセリーティアは、アルフにディン山脈越えを進言した。
 理由はお金の節約から。本当の理由なんて口が裂けても言えないので、急遽作り出した理由である。事実、お金の節約も旅においては重要な事だから問題ない。
 しかし、普通に考えたら、橋の復旧まで、せめて仮橋が造られるまでこの町に滞在するのが最善である。呪具を身につけている状態では、避けられる危険は避けるべき。当然アルフもこの考えで、レイセリーティアの進言に初めは反対した。
 しかし、なぜか本気を出していたレイセリーティアとの口論に勝てるわけもなく、アルフは彼女の意見に従う事になった。
 そうやって山越えを提案した彼女だが、一日目にして、すでに嫌気が差し始めていた。
 ぼうぼうに突き出ている枝は行く手を阻み、岩や倒木が行く手を阻み、クモの巣が顔をめがけて攻撃してくる。迷路のような森で、アルフの域の魔法があるから迷う事はないけれど、彼女一人だけなら遭難確実だ。
 散々苦労しているのに、まだ山の中腹にしか到達していない。しかも、ここから見える頂は一つ目の頂で、奥にもう一つもっと高い頂があると考えるとため息しか出ない。
 苦労は想定していたが、これほどとは思わなかった。登山を完璧に舐めていた。
「アルフ、もうシディが疲れちゃったみたいだわ」
「ドーゼルも疲れてるね」
 元々、二人の馬は登山に適している馬ではなく、さらに雨が降り続いたせいで地面が濡れて滑りやすくなっていて、疲労の蓄積が早かった。
 登山を開始してから数時間経つと馬が疲弊してしまい、回復するまで下馬して歩き、元気になったらまた乗馬して、馬が疲れたらまた降りて――こんな事を繰り返しながら進んでいたのだが、徐々にペースは落ちていき、今では朝の二分の一しかない。
 瞬間、シディが足を滑らせた。上に乗っていた彼女はバランスを崩し、危うく落馬しそうになる。
「大丈夫?」
「ええ、なんとか」体勢を立て直し「もうシディは限界みたいだわ」
 汗を大量にかき、鼻息も荒く、懸命に前に進んでいるシディの首筋を撫でてあげる。慣れぬ山道なのに、よく頑張ってくれている。
 アルフはさっと域の魔法を使い、辺りを調べた。
「近くに湖があるから、今日はそこで野営しよう」
 まだ明るいけれど、暗くなる前に野営の準備は終わらせないといけないから、丁度良い時間だろう。
 そこから数十分進むと、二人は湖のほとりに到着した。
 シディとドーゼルの鞍を外してやると、労働から開放された事がよほど嬉しいのか、二匹は跳ねるようにして湖に近づき水を飲み始める。
「やっぱりあの子達、登山は苦手なのね」
「速さを求めた品種だからね。普通の馬よりは体力があるはずだけど、登山は苦手なんだろうね」
 それでも頑張ってくれた事に変わりはないから、明日のためにもしっかりと体を休めて欲しい。
 レイセリーティアはシディ達と同じように湖へと向かう。
「きれいな湖」
 小さい湖であるけれど、水面は穏やかで、キラキラと空の色を反射している。覗き込むと水は澄んでいて、泳いでいる魚も見ることができた。
 水を手ですくって飲んでみると、冷たい水が、乾いていた体にじんわりと染み込んでいく。
 宿を使わず野宿するなんて初めての経験だが、こんな自然の中で眠る事が出来るのなら、ずっとここにいてもよいとさえ思える。
「君は一応ハルメット家の令嬢なんだから、もう少し野宿に抵抗があってもいいと思うんだけど」
 アルフが近づいてきて、そんなことを言う。
「だって、前からこういうことしたかったんだもの」
 小さい頃、何度か旅に出たことはある。でもそれは親と一緒の旅行で、行程は決まっているし、かならず豪華な宿に泊まるし、する事やる事が決まっていて息の詰まる旅だった。彼女が求めていた旅は、冒険家のトーヤがしているような、何が起きるか解らない、目的も何もかもその場で決める、そんなスリリングな旅だったのだ。
 野宿もしてみたいことの一つで、トーヤなんかは旅行記の中で当たり前のように野宿をしていたけれど、果たしてそれはどういうものなのか体験したかった。
「それに、私がこういう性格だってのはとっくに解ってるでしょ。伊達にお転婆娘やってないわよ」
「まあね」
 自分でお転婆娘と言うのもどうかと思うけど。アルフは声には出さず、心の中で微笑を浮かべる。そう、何にでも積極的なのが彼女らしい。
「そんな事より、アルフも水飲んでみてよ」
 嬉しそうなレイセリーティアに勧められるまま、アルフも水を飲んでみる。
「うん、美味しい」
 水の魔法を使用できる者がいるのなら水の確保が簡単だが、そうでない場合は意外と大変な事で、今回みたいに湖を見つけられたのは運がいい。
「魚もいることだし、食糧確保も苦労しなさそうだね」
 今回は急な事もあって、山を越えられるだけの食糧は持ってきておらず、現地調達でなんとかすると言うことになった。アルフの域の魔法があればこその策だ。
「域の魔法って何かと便利よね」
「こういう時は役に立つけど、普通に暮らしてる時は役に立たないよ。俺からすれば君の火とかの方が役に立つように思えるし」
「無い物ねだりってことなのかしら」
「そうだと思うよ。それに、域の魔法は稀少属性だから、余計にそう感じるのかもしれないね」
 火土水風雷の自然魔法や盾癒強の付与魔法を扱える者は多い。しかし域や伝の特殊魔法となると、その割合が大きく落ち、千人に一人使えるかどうかの割合になる。
「そうなのよね。自分が使えないから、使える感覚が解らないし、慣れてないから便利ーって思っちゃうのよね」
 変わった事でも、慣れてしまえばそれが普通になってしまうのだから困ったものだ。そしてその普通が取り払われた時、不便に感じるのも酷く滑稽な話だと思う。
 アルフは背中からリュックを下ろすと、いくつかの魔具を取り出した。
 まずは水晶玉。ある範囲内に別の何かが侵入してくると、ほんのりと赤い光を放つ水晶玉だ。獣などが近くに来た時にも発動するので役に立つ。
 店にあったのをそのまま持ってきた。音が鳴らないと言う欠点はあるけれど、無いよりはましだろう。
 次にランタン。魔力を込めると、込めた魔力の量に比例して長い時間光を放つ魔具。一家に一台は必ずあるというほどの必需品で、特に野営では大切な魔具だ。
 最後に赤い小さな石。
「この赤い魔具は初めて見たわ」
 レイセリーティアはその赤い魔具を取り上げると、しげしげと見つめた。
「特殊魔具の一種だよ。役に立つ魔具ではあるんだけど、火属性の魔力を込めないと使えないし、構造がいまいち把握できてないから、普及されなかったんだ」
 魔力を込めると、火を発生させる魔具。しかも点け消しが可能で、これがあれば薪集めは不要になる。ただし制限として、込める魔力は火の属性を帯びていなくてはならないが、今回はレイセリーティアがいるので問題ない。
「便利そうな魔具なのにね」
「将来は普及されるかもよ。それもこれも努力次第って所」
 域の能力をもってしても、魔具の構造を完全に把握するのは至難の業。構造が解ったとしても、その構造を作り出す手順を考えなくてはいけないし、魔具専門家の苦労は尽きない。
「魔力込めてみていい?」
「いいよ。周りに燃え移らないようにしてね」
 レイセリーティアは木のない所へ移動し、周りの葉っぱを払うと、そこに赤い魔具を置いた。体を昇化させて体の中に赤い魔力を作っていく。後はこの魔力を移動させようと念じるだけだ。ちなみに、このまま火球を放とうイメージすれば火球が発生する仕組みだ。
「どれぐらい込めればいいの?」
「好きなだけ良いよ。ランクSまでの魔力には耐えられるはずだから」
 好きなだけ良いよと言われても困ってしまうのだが、とりあえず、ランクA程度の強さの魔力を入れてみることにした。
 赤い魔具の上に手の平を添え、手の先に赤い魔力を溜め込んで――
 放出しようとした瞬間、突然ざわつきを感じた。体の芯に電流が走ったように、レイセリーティアはびくんと顔を上げる。
 呪具がざわめき震えている。呪具から大量の魔力が流入してくる。こんな事は今までなかった。どうしていいのかわからない。
 彼女が戸惑っていると、とたん、頭の中に声が直接響いてきた。
 辺りを震撼させるような叫び声。心を掻き毟るような痛哭。金属をかき鳴らしたような悲鳴。頭が溶けてしまうかのような痛みを伴って、声が送られてくる。
 ―――タ、ス、ケ、テ。
 そして、いきなりそれは鳴り止んだ。
 また、葉擦れの音と湖の波音のみが聞こえるようになった。彼女の体には、滝のように汗が流れていた。
 一瞬の出来事。彼女は耳を塞いだまま、訳がわからず立ち尽くす。
「レイティア、危ない!」
 アルフが叫ぶ。彼は慌てて、呆然としているレイセリーティアを押し倒すような形でその場から回避した。瞬間、先ほどまで彼女がいた場所から、火柱が上がった。
「レイティア、大丈夫?」
「……うん」
 火柱の下にあるのはあの赤い魔具。魔力を注入しすぎた為に、抑えきれず暴発してしまったのだ。ドーゼルとシディも、驚き目を丸くしてこちらを見ている。
 巨大な火柱は十数秒間上がり続け、辺りの空気を焦がしながら、何事もなかったかのように沈静化した。
「周りに木があったら火事になってたかもね」
 アルフは軽い口調で言ったが、本当にそうなっていたら洒落にならない大惨事である。
 二人は立ち上がり、服についている土を払い落とす。
「ごめんなさい。魔力を込めようとした時に、突然呪具が騒いだものだから……」
「どれぐらいの魔力を込めちゃったか解る?」
「……解らないわ」
 本当に突発的な出来事で、魔力をコントロールする事ができなかったから、推測する事もできない。
「許容量がランクSだとして、十数秒巨大な火柱が上がってたとすると、ランクS+++、いや、それ以上の魔力を込めてたのかもね」
「私、そんなに疲労してないわよ」
 魔力を使えば使うだけ体は疲弊していく。ランクS+++の魔法を放てば、体中の力が抜けてしまいすぐには動けなくなる。喧嘩なんかで使う魔法はランクCやBぐらいの魔法だからこそ連発で魔法を使えるのだ。
「呪具が持つ魔力はそれだけ凄いって事だよ」
「私、とんでもない物を身につけてるのね」
 呪具を扱えるのなら、ランクS+++の魔法を連続で行使することも可能なのかもしれない。呪具を使いこなしていた初代の王ガッザニールや、世界に名を轟かせた魔術師エキレイの強さは簡単に推し量れる。
「それで今、なにが起きたの?」とアルフ。
「えっと……何か、頭が割れるように痛んで、突然『声』が、悲鳴が、頭に直接叩き込まれるように響いてきて……」
 心が裂けるようだった。痛みがまるで自分の物のように、そのまま泣き出したくなるかのように響いてきた。轟々の中で、唯一聞き取れた、タスケテと言う声が、体の奥深くに、何時までも絡みつく。音はなかった。声だけが聞こえた。
「駄目……解らない」
 今になって気分が悪くなってきた。脱力感に見舞われその場に座り込んでしまう。突然呪具の干渉が消えたため、体が対応できなかったらしい。
「少し休んだ方が良いね」
「うん……」
 アルフに促され近くの木に寄りかかると、そのまま浅い眠りへとついた。


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