その男は、木偶人形のよう転がっていた。 満身創痍。男の体にはいたるところにアザや生傷が散らばっている。顔面は膨れ上がり、アバラは妙な形にへこんでいて、太ももからは赤い筋が滴り落ちる。赤黒い染みが地面に広がっていて、傍から見ると死体のようだが、しかし男の胸は微かに上下しており、かろうじて生きているようだった。 野良犬が男に近づいてゆく。これは何かと匂いを嗅ぐと、男はギロリと犬を睨みつけ、犬は驚いてその場を去っていく。 男は切れ切れの言葉を呟きながら、夜明けの空を見つめていた。 あいつに負けたせいで、すべての歯車が狂った。 今でも、あの戦いが目に浮かぶ。 あいつとは成り行きで戦う事になった。別に理由があったわけではない。ただの憂さ晴らし、いつもの事だ。 女に事実上負けを喫した苛立ちを、あの男にぶつけただけの事。その結果、その男が傷を負おうが死のうが関係なかった。 「死に晒せや!」 魔力をかき集め水を精製し、圧縮、そして打ち出した魔法は、女と戦った時の魔法とは比にならないほどの威力を誇っていた。一撃で家の壁を砕いてしまうであろうその魔法は、凄まじいスピードで、メガネの男に突き刺さろうとしていた。 が、メガネの男は最小限の動きで、それを避けた。踊っているような軽やかなステップで、何事も無かったようにその場に佇む。 いまいち状況が理解できていなかった。このスピードに特化した魔法を避けるなんて信じられなかった。相殺するならまだしも、避ける? まぐれだ。運が良かっただけ、それ以外に説明できるものはない。 もう一度、今度は強烈な風の塊を放った。直線に地を抉りながら、男に向かってゆく。 また――ひらりと、掠ることなく魔法は男の横を過ぎていった。男の避け方に素早さがあったわけではない。魔法にだって速度があった。範囲も狭かったわけではない。 理由が解らず、頭に血が上ってしまった彼は、自らの全力を持って男へと魔法を繰り出した。 しかし、水の散弾も、風の刃も、殺すつもりで放った魔法なのに、あの男は当たり前のように避けきった。自分が使える最高の魔法ですらあの男は顔色一つ変えず、メガネの男の服に掠ることもなく、静かにこちらを見据えてくる。 無様だった。それは己でも解るほどの滑稽さだった。 無理を承知で魔法を乱発した結果、体が悲鳴を上げてきて、魔力が枯渇して、あの男の前に、あの男の足元に、自ら跪いた。 さながら、家臣が王に頭を垂れるように。 その男は言った。男が発したのは、それだけだった。 「俺の勝ちだね」と。 屈辱だった。悲鳴が上がらなくなるまで嬲りたかった。ずたずたに腸を屠ってやりたかった。殺してやりたかった。すかした面に全魔力をぶちまけてやりたかった。 俺が負けたのは俺のせいじゃない。あいつと戦う前に、あの女と戦っていたのがいけないのだ。女は強い。ランクS以上なんて、いる割合は一%にも満たないのだ。女と対峙しただけで、魔力を消費していたのだ。俺は本調子じゃなかった。油断もあった。あの男に負けたのは運が悪かったのだ。そうでなくては、ランクC+如きに負けるはずがない。 ひとまず、全魔力が尽き全身が弛緩したような状態ではそんなことを考えても仕方がない。彼は全身の力を総員して、何とか路地に入り込んだ。 三日もあれば魔力はすべて回復するだろう。そうしたらリベンジマッチだ。次はあの男を殺してやる。女の目の前で殺してやる。臓腑を引きずり出して切り刻んでやる。体を穿ち消滅させてやる。殺してやる、殺してやる。 その時、彼の頭上に影ができた。彼は顔を上げた。 「あれー、こんな所にゴミが転がってるよ」 見知らぬ三人組。薄汚い格好で品のない笑みを浮かべながら、彼を取り囲んでいる。 「噂は本当だったんだなァ、俺めっちゃ感動したよ」 彼はこの三人組の事を知らなかった。しかし、三人組は彼の事を知っているようだった。 息絶え絶えながらも立ち上がる。 「なんだ……お前ら、不愉快だ、消えろ……殺すぞ」 彼の声に、三人組は腹を抱えて笑い出した。 「なんか面白い事言ってるぞ」 「冗談は顔だけにしとけよってか」 「バカ、こいつの存在自体がコメディだろうが」 「そりゃそうだ」 また、三人組は大声で笑い出す。 「てめえら……俺様が誰だか解って物を言ってんのか?」 彼は拳を固めると、三人組の一人に殴りかかった。 だが、その攻撃には勢いも鋭さもなかった。すでに魔力を使い果たし、体の限界を超えてしまっている彼が放った拳は簡単に避けられ、踏ん張る事もできず倒れてしまう。 「今こいつなんか言ったか?」 「いんや、蚊の飛ぶ音しか聞こえなかったな」 「ゴキブリが潰れる音だったら聞いたぜ」 三人は彼を見下していた。地を嘗めている姿がお似合いですよと、せせら笑っていた。 「……目的は何だ」 彼が尋ねた瞬間、三人の表情が凍りついた。 「だろうな、お前が覚えてる訳ないよなァ」 三人の表情が、憎悪に塗りつぶされていく。瞳の奥に黒い光が渦巻いている。 彼はこの場から逃げようと立ち上がった。しかし単純な足払いすら避ける事ができず、また地を嘗めることになる。 「弱え事は罪だなァ、カイゼルさんよ」 三人のうちの一人が、地に伏せたままの彼――カイゼルの髪の毛をグイと持ち上げる。 今から何をされるか解っていると言うのに、抵抗ができない、体が動かない。 「手前が教えてくれたんだぜ、カイゼル。弱者はただ屈するのみだってな」 ニヤリと、笑みを浮かべた。下劣な獣を思わせる薄汚い歯が口から覗いた。 「手前の所為で全部失ったんだ。その恨み辛み、味わえや」 カイゼルの腹に重い蹴りが炸裂した。腹筋に力を入れることすらできなかった彼は、激痛とともに胃袋の中身を逆流させた。 三人の暴行は止まらない。積年の恨みを、一撃一撃に込めて晴らすように。 カイゼルの口から血がこぼれた。ゴキリと肋骨の折れた音がした。それでも狂気の沙汰は止まらない。 カイゼルはなぜこんな事になっているのか、微塵も想像ができなかった。 今まで自分がしてきた事は、虫けらを殺すことだけだったから、内容なんて、ましてや被害に遭った人の顔なんて覚えているはずが無いのだ。 三人の男が去った後も、新たなゴロツキがやって来て、徹底的に彼に暴行を加える。そのゴロツキが去ったと思えば、また人がやって来て彼を嬲ってゆく。 繰り返し繰り返しやって来る悪夢は、怪我の無い場所を見つけるのが難しいほどに、彼を痛めつけた。 夜も深くなってから、命からがら這い蹲うように逃げた彼は、誰もいない路地に逃げ込み、ようやく眠りについた。 その男は、木偶人形のように転がっていた。 切れ切れの言葉を呟きながら、夜明けの空を見つめていた。 一体どれほどの時間が経っただろう。殴られるたびに記憶がとんで、感覚がすべて狂ってしまった。 体が痛い。経験した事のない痛みがある。おびただしく滲み出る血が自分の物ではないような気がした。 あの男に負けたせいで歯車が狂ったのだ。すべてがあいつの所為だ。アイツがいけない。アイツが悪い。責任はすべてアイツにある。アイツがイケナイノダ。アイツを滅シテヤル。殺シテヤル、コロシテヤル―― その時、また、頭上に人影ができた。聞き飽きた下卑た笑い声が、彼に降り注ぐ。 「おー、ただで殴らせてくれる奴がいるって噂は本当だったんだな」 頭上から見下ろすのは五人組。しかし、もはや彼に恨みを持つものではない。弱者を辱めて突き落とし苛め抜く、それが悦びになる奴らだ。後半からはほとんどがそのような類いの人間だった。だから今も、そんな奴らがやってきただけ。 すでにそんな奴らに興味はなかった。興味を持ったところで何の価値もないからだ。そんな事より彼が興味を持っていたのは、こんな朝早くから聞こえてくる、馬の足音―― 細い路地から見える通りに、その馬はやってきた。 民家と民家に挟まれた細い視界からでは、その姿は一瞬で見えなくなってしまった。しかし彼の網膜にはくっきりと焼きついた。 白い優雅な馬にまたがった女性。服装こそこの前と印象が違ったが、乗馬していたのはあのムカツク男の前に戦った女だ。 男たちが何か言っているようだが、そんな声は、既に彼の耳に届いていなかった。 変わりに違う声が、呼び声が彼の頭に直接響いた。 彼は引っ張られるように、視線をずらす。 そこにはナイフが落ちていた。何の変哲もない、どこでも購入できるような陳腐なナイフ。そのナイフは、彼に語りかけるように刃を光らせた。 我を掴め、我を揮え、目の前に立ちはだかる物は切り裂け、欲望のまますべてを切り開け――。 いつからそこに有ったのだろうか。そんな疑問など露と消え、カイゼルは笑みを浮かべた。 もう体の痛みは無かった。魔力もみなぎっていた。やるべきことも決まっていた。彼は無造作に立ち上がった。 「お、やる気か? 蛆虫のように地面を這っていれば、あんまり痛くせずに済まして――」 その男は、最後まで言葉をつむぐことは出来なかった。 まるで初めからその姿だったかのような美しい切り口を残し、そいつの頭はいつの間にか消失していた。地面に落ちたボールのようなソレを、カイゼルは踏み潰す。何度も、何度も。 男の首から鮮血がほとばしる。噴水のように吹き出る血を間近で浴びながら、頭蓋が砕けるまで踏み抜いた脚を持ちながら、カイゼルは笑っていた。 他の男たちは悲鳴を上げた。そんな馬鹿なとか、死に損ないの癖にとか、よくも仲間をとか、なんだか害虫がうるさかった。俺様に聞き取れない言葉を喋られても、ウザイ。 ナイフや魔法で、一匹、また一匹とハエを潰してゆく。相手はちょっとだけ抵抗したみたいだが、簡単に潰れていった。残りは後二匹。叫びながら逃げ出したけど、虫は潰しておくに限るから、ためらわず潰した。肉が砕けるような、ぐちゃりと、小気味いい音が響いた。 朝日が差し込んだ。一面が赤で染まっていた。五つのハエが息絶えていた。彼は笑っていた。 コロシテヤル。 近くにあった馬小屋を魔法で破壊する。馬を物色していると、近くの家からまたハエが出てきた。 何をしているんだ! と暑苦しく近寄ってきたから、魔法で吹き飛ばした。残念ながら今回は仕留められなかったらしい。かと言って止めを刺す時間が勿体無いので、すぐさま馬にまたがった。 あの女は西口に向かっていた。 カイゼルは馬を走らせる。 血にまみれたその姿は、まるで死神の形をしていた。 |
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