レイセリーティアは目を覚ました。
 慌てて頭をぐるりと回す。大丈夫、ここは自分の部屋だ。暗いのはまだ日が昇っていないせいで、光が遮断されているからではない。音が無いのはまだ商人たちが喧騒を謳っていないからで、音が断絶されているからではない。
 それに、声も聞こえない。
 全身に嫌な汗をかいていた。じっとりと、骨の髄にまでまとわりつくような汗。
 髪の毛はここぞとばかりに乱れ、ベッドの上にあったはずの布団は避難したかのように遠くに離れていて、体はすでに憔悴しきっている。寝覚めは最悪だ。
 ――今のは夢?
 それが悪夢だったことは覚えている。でも、もう夢の内容は忘れていた。たったさっきまで痛烈な印象が残っていたのに、記憶の断片すら残っていない。
 もしかしたら昨日の事も全部夢だったのかもしれないと右手を見てみたが、そこには相変わらず赤い宝石がついた指輪が光っていた。
 少し気分が悪かった。動機も激しく、視界がぼんやりとする。全身の中で何かがぐるぐると渦巻いている感じがする。
 あまりにも巨大な魔力に触れると、体内の魔力がかき乱されてしまう、これを、魔力に中ると言うのだが、レイセリーティアの場合、一日中呪具と言う強大で不安定な魔力に中っていたことになる。
 起きている時は魔力制御が可能だった為その影響は少なかった。しかし寝ている間は制御機能が著しく低下する為、彼女の体内にある魔力が錯乱してしまったのだ。
 レイセリーティアは起き上がったまま目を瞑り、ゆっくりと、自分の中の魔力をコントロールする。
 事前にアルフからこうなる事を聞いていたから慌てずに対処できているけど、そうでなかったらパニックに陥ってしまったに違いない。
 生半可な魔力の者が呪具をつけると、不安定な魔力を支えきれず暴走し、辺りに被害を出してしまうのだそうだ。
 彼女レベルになると、後は本人の技量次第だからと、ほぼ放任状態で家に帰ってきたけれど、思っていた以上にこの症状はきつい。
 それでも、何とか落ち着いてきた。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐き、動機も安定してきたのを確認して、ベッドから下り、床をしっかり踏みしめるようにして立ち上がった。
 しめて、一時間。
 目覚めてから覚醒までにかかった時間。それでも気を抜いたらめまいがしそうな状態が続いている。
 馬が駆けて行く音が聞こえた。その音ですら脳内を突付くような刺激を与えるのだから、完全に安定するにはもう少し時間が掛かるだろう。
(朝早くから馬で走るなんて、やめて欲しいわ)
 彼女は文句をたれながら、こめかみを抑える。
 徐々に免疫ができていくとの事だが、毎朝これでは気が滅入ってしまうかもしれない。かと言って眠らない訳にも行かないし……。
 彼女は指輪をねめつけた。一生身につけるなんてとんでもない。よくもまぁ、昔の偉人は使いこなしたものだ。それだけで偉人と呼ばれる度量は十分だと思う。
 窓の外を見た。少しずつだが、町がざわついてきた。日は昇っていないが、商人たちが商いの準備を始めているのだろう。
 彼女はクローゼットを開くと、ハンガーに掛かっている服を掻き分けて、奥深くに手を突っ込む。
 一着の服を抜き出すと、懐かしむように、その服を抱き締めた。カビの匂いが鼻につくが、気になるほどでもない。今日一日着用して日に当てていれば、匂いも取れるだろう。
 レイセリーティアは寝間着を脱ぎ捨て、準備を始めた。
 呪具を身につけてしまった時の対処法は三つ有る。
 一つ目は魔具の直接破壊。ランクS以上の高圧縮魔法を魔具にぶつける事で破壊させる。ただし、様々な危険が伴う為、この方法が取られる場合は少ない。
 二つ目は現状維持。呪具を身につけたまま生活する。ほんの一瞬これでいいやと思った事もあるけれど、よほどの事がない限り却下だ。朝の重労働でそれは決定的なものになった。
 そして三つ目。これが今回取られる事になった処置。アルフが面倒な事になったと呟いた元凶である。
 魔具の耐久性は著しく高い。普通の道具は本体そのものが消費、風化されていくの対し、魔具は魔力が先に消費され、その次に本体が風化していく。その上、魔力の損傷速度は遅く、魔具が長持ちするのはそのためだ。
 魔具は最低でも二百年は持つといわれている。普通の魔具すら破壊は難しいのに、その何十倍もの魔力を封じ込められている呪具の破壊は容易ではない。
 しかし、魔具から魔力を剥ぎ取ってしまえばただの道具になる。つまり、呪具の魔力の源となっている魂をはぎ取ってしまえば、単なる道具になり、壊すなり外すなりが可能になるのだ。
 魂を剥ぐ為の儀式を行なうだけならどこでもできるのだが、一つ厄介な条件がある。
 それは、呪具に収められている魂の安定。
 呪具の魔力の源である魂は、本来の身体から思念によって引きずり出され、無理矢理違う指輪に縛り付けられたために、いびつな形になっているのだ。
 不安定な魂を安定させるには、指輪に魂を縛り付ける原因となった鎖を緩めなくてはいけない。
 そしてその方法とは、魂が身体から剥離した地――死地へ赴く事。
 本来、そこで死にきらなければならなかった場所。不幸にも、現世に留まることになってしまった、その地へ。
 それが、今回の旅の理由。
 彼女は指輪を連れて、魂の死地へ向かわなければいけない。すると、どんな理由からか、鎖が弱まり、魂が安定するのだと言う。アルフが言うには、死地が魂にとって一番あの世へ近い場所だからと言うが、真相は不明だ。
 着替え終わった彼女は、姿見を一瞥した。
 鏡に映る彼女の姿は、いつもと雰囲気が違った。質素でおしとやかな高貴で麗美な女性をイメージさせる服装ではなく、どことなく、活発な少年をイメージさせるような服装。
「えへ、久しぶりね」
 昔と違うのは髪の長さだけ。その髪を結わうと、昔の面持ちが帰ってきた。
 本当はもう着ないと決めていたけど、長旅になるのでは仕方ない。
 七年前に病気で死んでしまったお母様の写真に一礼して、哀愁に耽る暇もなく、昨日用意した書置きをチェストの上に置き、代わりに旅に必要な小物が入った袋を掴むと、窓を開け放った。
 彼女の部屋は二階にある。そこでベランダに出ると、これまた昨日用意した丈夫な縄を慣れた手つきでベランダにくくりつける。しっかりと結ばれている事を確認して、するすると庭へと降り立った。
 長旅になると言ったが、長旅になる可能性が高いと言った方が正しい。
 指輪の死地を把握していないので、まずは探索から始めなくてはいけないためだ。あっさり見つかる可能性だってあれば、下手をすれば死地の特定までに半年以上かかってしまうかもしれない。
 幸い、指輪の紋章が手がかりとなって、それを家紋としている地方が絞り込めたが、そこからまたつぶさに調べていかなければならず、それに要する期間は予想できない。
 馬小屋に向かい、一頭の白馬を連れ出した。毛並みが整っており、体も引き締まっている牝馬だ。
「シディ、よろしくね」
 レイセリーティアはいとおしそうにシディをなでる。シディと呼ばれた白馬は意気高々と鼻を鳴らした。
 首筋を撫ぜながら鞍を取り付け、馬にまたがると、家の敷地を颯爽と抜けていった。
 
 ダンゼの町の西口が落ち合い場所。朝早いため道は閑散としており、馬をとばすとあっという間に着くことができた。
 アルフは一足先に西口に着いており、彼女を出迎えた。
「おはようレイティア」
 迎えた彼は、相変わらずぼけーっと言う擬音が付きそうな佇まいだった。反して、彼の馬、名はドーゼルと言うのだが、今か今かと言わんばかりの猛りを全身で表していた。
 黒い毛並みに長い鬣、そしてなにより、鋼のような筋肉が全身にめぐらされていて、馬をよく解らない人が見ても、名馬だと容易に想像できる。
 レイセリーティアの馬も名馬だが、従順であるため、彼女以外が乗っても乗り手の命令に従うだろう。しかし、アルフの馬ドーゼルは、彼以外の人を乗せようとしない。
 一度だけ乗せてもらった事がある。ドーゼルは何もしないうちに全速力で走り出し、手綱を引いても思い切り抵抗されてスピードは落ちず、しかもその速さが尋常ではないものだから、彼女はどうにもできなくなってしまった。
 しかしその中で、風を貫くように進むドーゼルの力強さに素直に驚嘆した。空気の壁はドーゼルの走りの前には全く無力だった。止まったのはドーゼルが疲れきった時で、かれこれ数十分も全力疾走した後だった。
 アルフが言うには、ドーゼルが他人を乗せただけでも凄いらしい。今までにも、ドーゼルの走りに憧れて、乗せて欲しいと訪ねて来たものがいるのだが、ドーゼルはことごとく乗馬を拒否、運良くまたがれたとしてもいきなり暴れ、ロデオを体験する羽目になるのだと言う。
 乗せてやっただけありがたいと思え、レイセリーティアに対して、ドーゼルはそんな風に思っていたに違いない。釈然としないながらも、この馬を乗りこなしているアルフは凄いと思った。
 シディ、と呼びかけながら、レイセリーティアは自分の馬を撫でてやる。アルフの馬がすごい事は認めるが、しかし自分の馬も素晴らしいと心から思っている。
 ドーゼルが風を貫くように駆け抜けるとしたら、シディは風に乗るように駆け抜ける。ドーゼルに体力では負けてしまうが、速度だけなら互角以上だと思っている。
「アルフ、その荷物は何?」
 本当に旅に出るのか疑わしくなるようなラフな格好をしている彼の背中には、その姿には似つかわしくない大き目のリュックがあった。
 シディとドーゼルならば、一日のうちに簡単に次の町に移動できてしまう為、大層な荷物は必要がないはずだった。現に、彼女はお金と水と少量の食糧と、身だしなみを整える小道具ぐらいしか持って来ていない。
「トーヤから買い取った魔具の一部だよ。特に乱れの酷い魔具を持って行くことにしたんだ」
 長期間人に使われていなかった魔具は、中の魔力が大きく乱れ暴走する可能性がある。その魔力を安定させる技能を持っているのが魔具専門家であり、アルフはその免許を取得している。
 今回の旅は長くなりそうだから、暇があれば手入れをすると言うことなのだ。
 二人は馬に合図を送ると、町に背を向けてパカパカと歩み始める。
「どんな魔具を持って行くの?」
「まずは魔導銃。まだ不明な点も多いし、護身用にもね。なんだか、俺って一風変わった人たちに絡まれる機会が多いから、もしもの時の為に護身用の何かを一つ二つ持とうと思ってたんだ」
 腰に吊るしておくだけだし、珠もかさばる物ではないので、携帯しておくのには丁度良いのである。
(アルフがよく絡まれるのは、人が良さそうな顔をしているからよ……)
 華奢そうに見える体にぼけーっとした顔にインテリを漂わせる眼鏡。さらに、普通は微々ながら体から漏れて出している魔力がオーラとなり周りを威圧するのだが、彼にはそれがない。アルフは域の魔法により、魔力の流れを完璧に把握しているため魔力漏洩が一切ないのだ。当然オーラで周りを威圧する事もなくて、あちらの方々から見れば、恰好の獲物に映ってしまう。
 声には出さないが、心底同情する部分である。
「他には、文字を書こうとすると先が引っ込むペンとか、先っぽで何かに触るとその何かが真上に飛ぶ杖とか、見るたびにアトランダムに文字列が変わる小さな石盤――」さらに数個、用途が不明な魔具が列挙された後「君の足に落ちた直方体の石とか」
「……あの石も持ってくの?」
「うん」
 レイセリーティアはあの石の存在を思い出しただけで嫌な気分になった。
 石に刻まれている言葉を唱えると巨大化する魔具。突然巨大化したことに驚いて手から滑り落としてしまい、彼女の足に直撃した憎き石である。
 あの時は本当に痛かった。骨が折れたとすら思った。一日経ったら痛みは完全に引いたけれど、ちょっとしたトラウマになりそうなくらい痛かった。
「その石の調整の仕方は?」
「一番簡単な調整方法だね。日をおかずに何度も使用してあげれば元に戻ると思う」
 レイセリーティアは小考して。
「それじゃあ、その石、私に持たせてくれない? その調整だったら、私にもできるわよね?」
「うん、できると思う。レイティアが持っててもいいよ」
 アルフはリュックからあの黒い直方体の石を取り出してレイセリーティアに渡した。
(私に傷をつけたことを後悔させてやるわ。私の調教を思い知りなさい!)
 と、決意を燃やす彼女だが、当の本人は、涼しそうに、黒くてかてかと光っていた。
 それにしても――
 しばらく雑談をしながら、しかし徐々にレイセリーティアは不満を募らせていた。
 折角懐かしの服を着てきたのにそれに対する言葉がないし、呪具をつけていると言うのに心配するような台詞は聞こえないし、もう少し何か言ってくれればいいのに。
「ねぇアルフ、私呪具付けてるのよ。少しぐらい何か言ってくれてもいいんじゃない?」
 反射的に口に出してしまった時にはすでに遅く、ゆるゆると羞恥心がこみ上げてきた。
「えっと……」アルフは少し困ったように「朝起きた時のレイティアの魔力の調整は上手だったと思うよ。あんな短時間で収まるなんて凄いと思う」
「そうなの? 私にはとっても長い時間だったけど」
「長く感じるのは仕方ないだろうけど……でも、一日中引きずってしまう人もいるから、それを考えたら早いよ。それに、君は思った以上に冷静に行動できていたし、魔力の暴走がなかったのは賞賛できるほどだよ」
 と、レイセリーティアは怪訝そうな表情でアルフを見た。なぜ自分の朝っぱらの行動を評価できるのだろうか。まさか直接見ていた訳では――。
 域の魔法。
 単純な答えだった。彼の顔にも、その答えを導く手立てがあった。
 アルフの目元にはうっすらとくまができており、全体的に眠そうで、ぼけーっとしている理由に一役買っている。それに早朝に聞いた馬が駆ける音は、よくよく考えてみればドーゼルのものに似ていた。
 また羞恥心が上ってきた。アルフは私が起きる前から家の近くで待機していたのだ。もしもの時にすぐ駆けつけられるように、側にいてくれたのだ。
 そもそもこの旅だって、私の不注意のせいで出かけることになってしまったのに、彼は嫌な顔をせず、私の心配をしてくれて、旅の算段を練ってくれて……。
 アルフがそういう性格だと言う事は、散々理解していたつもりなのに。恥ずかしいことこの上ない。簡単なことが解らないなんて、やっぱり呪具が影響しているのだろうか。
「そう言えば、レイティアのその服、懐かしいね」
「へっ」と、完全な不意打ちを喰らう事になり、レイセリーティアはしばし呆けてしまった。
「そうだね、今回の旅では、その服の方が似合ってるよ」
 それだけ言うと、もう服に対しての言及はなかった。だけど、彼女の心にハードパンチを喰らわせたことは確か。似合ってるの一言で、さらに顔が赤くなってしまった。
 これが、アルフの性格だとは、解っているのだけど。彼女は小さくため息をついた。
「じゃあ、走ろうか」
 アルフの提案に、一呼吸おいて、笑顔で「うん」と答えた。
 馬のわき腹に足で合図を入れると、待ちかねたように馬は走り出す。あっという間に速度を上げた馬は、ぐんぐんと町から遠ざかってゆく。
 彼女は思い出したように、振り返った。
 しばらく戻る事がないであろうその町に向かって。
 いってきますと風に流した。


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