21

「ねえアルフ、私どうしても思い出せないのよ」
 ディン山脈を抜けて三日後、今は風もなく空は快晴、小鳥の囀りを追いながら旅は順調に進んでいた。
 呪具による副作用も特になく――布団に潜り込んでしまうのは相変わらずだが、特筆した暴走は見受けられない。これ以上とない心地よい一日のはずが、レイセリーティアは眉根を寄せて考え事をしていた。
「山賊団の名前ってなんだったかしら?」
 思わぬ難問に、馬の手綱を握り締めながらアルフも首を振る。
「俺も覚えてない。確か、彼らの特徴を的確に捉えた名前だったと思うけど」
「そうなのよ、それは覚えてるんだけど、どうしても出てこないのよね……。興味がなかったからかしら」
 シディ知ってる? と彼女は自分の馬に訊ねてみたが、当然答えは返ってこない。
「普通あの団体を見たらセンス悪い服しか目に入らないわよね……。名前なんて二の次三の次。あの人たち、山賊より街頭でパレードした方が儲かるんじゃないかしら?」
「俺もそう思うけど、そこまで言っちゃうと可哀相な気がする」
 アルフの馬、ドーゼルが暖かい風につられ、退屈そうにあくびをした。
「ダメね。全然思い出せないわ」
「センスが悪いって感じだった気がしたけど」
「そもそも団員名すらろくに覚えてないんだもの。思い出そうとするのは無謀かしら」
「俺もジャスナとテーセぐらいしか覚えてない」
 すでに忘れられているセンサリー山賊団が、ほんのちょっぴり不憫である。
「そんなことより」
 レイセリーティアは自分から切り出したくだらない話を一蹴すると、眼前に見えてきた町を望む。あぶみを踏みしめながら、熱を帯びた声でその町の名を告げた。
「あの町が、目的地のエルディムね」
 地上の楽園であることを誰も疑わないエルディムの別名は、夢の国。
 豊富な水と肥沃な大地を誇るこの地域では、自然を生かした穀物や野菜や果実栽培、野原には家畜が大量に放牧されていて、近くにあるリンシャ湖から魚も取れる。このように多種多様で新鮮な食材を使い作り出される料理は、町の名前を取りエルディム料理として有名。
 さらに町の横を流れる大河西セーラ川、そして壮大なリンシャ湖が同時に望むことのできるこの町は、食と絶景を求めてやってくる観光客が押し寄せるのだ。
 二人は、訪れる客を歓迎する豊穣の女神が描かれた大層な門をくぐりぬけた。
「すごいわね……」
「綺麗な町だね」
 二人は町の美しさに感激し、思わず感嘆の声を漏らす。
 道はすべて真っ白な石畳が敷かれており、ゴミはないし外壁などの汚れも一切見当たらない。家一軒一軒のエクステリアにもこだわりがあるらしく、それぞれが煌びやかで端整なつくりをしているのだが、しかし町の雰囲気を壊していない。その町は驚くほど整然としていて、土足で踏み込むのが憚られるほどだ。
 町に入ってすぐ、紺の制服を着た人に止められた。彼らはこの町の従業員と言ったところだろう。
「馬の立ち入りは禁止されております。お手数ですが、お近くの馬屋に預けていただけませんか?」
 丁寧な物腰で、従業員は二人を馬屋に誘導した。
 馬が立ち入り禁止の理由は、蹄で石畳が壊れるのを防ぐ為もあるけれど、糞尿を撒き散らされるのが堪らないからだろう。
 二人は馬屋にシディとドーゼルを預け、しばらくお別れね、と挨拶をしてから、町に足を踏み入れた。
 改めて見ると、この町の綺麗さがよく解る。細部まで丁寧に作られたその町は、まるでおとぎ話の世界みたいだ。
「観光の町とは聞いてたけど、ここまで徹底するとはね」
 石畳の上をコツコツと音を立てて歩きながら、アルフは呟いた。
 エルディムは一般の人々が住む生活地区と、観光客が滞在し楽しむ為の観光地区に分かれている。ここ観光地区は観光客のために作られた巨大商業地域。嬉々とした表情ですれ違う人々はすべてお客様なのだ。
「失敗したわ」
「どうしたの?」
 レイセリーティアは自分の服をつまんでみせる。
「この町ではこの服は似合わないわね」
 着ている服はズボンとTシャツにジャケットを羽織っただけの飾りっ気のない簡素な服。男物の服は旅をするのに効率的だけど、こんな華々しい町を歩くにはどうにも不適である。一応体裁は整えては来たのだが、それでも浮いてしまう感は否めない。
「昔だったら気にならなかったんだろうけど、今はさすがに気になるわね」
 エルディムがこんな町だと知っていたら、一着ぐらい普通の服・・・・を持参したのに。
「服を買いに行こうか?」
「欲しいけど……それは後でいいわ。先に宿を探しましょう」
 町並みを観覧しつつ、一先ず町の中心部へ向かうことにした。

 二人がエルディムの町にやってきたのには理由がある。
 ディン山脈の一件以降、レイセリーティアが呪具への耐性がついてきたため、呪具の夢を少しずつではあるが覚えられるようになり、呪具の魂の情報を得られたのだ。
 魂の名前はシュカ。若い時で五歳、歳を取っている時で十六歳である。夢はシュカ視点なので彼女の容姿は不明だが、レイセリーティアと同じくブロンドの髪を持っているらしい。
 そしてエルディムに来る要因となったのは、少女の苗字である。少女の本名はシュカ=アイーゼ。アイーゼと言う家名はエルディムの町を統括している貴族の名だ。
「でも、アイーゼの家紋と、指輪の家紋が違うってのは気になるのよね」
 よくよく調べてみると、確かに指輪の紋章は昔この地域で使われていたそうだが、すでにその家は亡んだのだと言う。シュカはアイーゼ家の者ではないのだろうか?
 不思議な話だが、とりあえず今はアイーゼ家一本に絞っている。センスの悪い山賊副団長テーセからの情報も得たし、手掛かりを探していこうというのだ。
 石畳を歩いていると前方に広場が見えてきた。中央には噴水があり、女神を象った像が中央に添えられ、腕に抱えられている壷から絶えることなく水が溢れ出している。
 観光客が流れるように往来する中、一区画だけ人々が足を止める場所があった。
 なんだろうと二人が覗くと、そこでは小さな子供たちが曲芸を繰り広げていた。彼らの後ろには同じく小さな子供の楽団がいて、華やかな演奏に合わせて曲技を披露していく。路上サーカス団だ。
 六歳ぐらいの男の子が観客の前に立ち、少年と同じぐらいの大きな玉に乗っかる。いとも簡単にバランスを取ると、ポケットからいくつかの小さなボールを取り出してお手玉を披露した。さらにその脇にボールを持った少女がやってきて、一つずつ玉乗りの少年に放り投げてゆく。少年は投げられた玉を取り込んで、あっという間に十数個ものジャグリングになった。最後にすべての玉を籠に投げ入れると周りから拍手が起きた。
 玉乗りの少年の演目は終わり、音楽の曲調が変わって今度は少女が出てくる。彼女は足を上げると、朝飯前といわんばかりに首にかけた。軟体少女である。開脚なんて当たり前、後ろに反れば体が折り畳まれる。その少女に小さな箱が手渡された。一辺が少女の肩幅ほどしかない箱に少女は体を曲げて押し込んでいく。少女の姿が見えなくなり、蓋が閉められた。拍手喝采、少女はその箱に入ったまま運ばれて退場となった。
 この後も入れ替わり立ち代り、たくさんの少年少女たちが曲芸を披露していく。動物を使った曲芸や、大人数での派手な組体操、着飾った少年少女達の華麗な舞など、大人顔負けの演技が繰り広げられる。
 やがて賑やかな曲がぴたりと止まり、静寂を割るようにして一人の少年が現れた。
 十代序盤、おそらくこのサーカス団での最年長の少年。金髪で凛々しい面立ちをしている少年の手には、少年の身長ほどもある弓矢が握られていた。
「弓矢なんて珍しいわね」
 弓矢は利用価値の低い武器である。近距離では役に立たないし、遠距離ならば威力は魔法の方が圧倒的に高いためだ。利点として、盾の魔法で防がれない、魔法を使う時に発生する独特の威圧を発生させないなどはあるが、酔狂程度に嗜むもので第一線には出てこない武器だ。
「皆様、僕たちのサーカスをここまで見ていただいてありがとうございます。僕はこのサーカス団団長、ルイムと申します。次は僕が行う、今回の公演最後の演技となりますのでぜひともご観覧ください」
 何をするのかと見ていると、子供たちが大勢で木の板を立ててゆく。木の板が立ち上がるとその前に少女が立った。少女の頭の上にリンゴが載せられた。弓矢を持った団長ルイムは少女から十メートル離れて対峙する。
「今からこの弓矢で、あの子の頭の上に載っているリンゴを射落とします!」
 ルイムは弓矢を高く掲げて意気軒昂に叫ぶ。そんなこと本当にできるのかと、あたりからどよめきが起きた。
「弓を引くために強の魔法を使わせていただきますが、他の魔法は一切使用しません」
 子供の腕力では弓を引ききるのは難しいのだろう。誰も異論は唱えなかった。
 ルイムが弓を構えると、観客は水を打ったように静まり返る。
 張り詰めた空気の中でルイムは弓を引いてゆく。鋭い眼差しでリンゴを見据えている。強の魔法で強化された腕は震えることなく狙いを定めた。そして観客が完全に沈黙したその時、矢が放たれる。
「危ない!」と誰かが叫んだ。レイセリーティアもはっと息を呑む。照準がぶれてしまったのか、だが軌跡はまっすぐに矢は少女の胸へ――
 刺さる直前に矢は失速し地面に落ちた。観客はほっとしながらも、突然減速した矢に視線を注ぐ。すると矢のお尻に細い紐がくくりつけてあり、その紐はルイムの腰へと繋がっていた。
 観客が困惑する中、少年はあっさりと言い切った。
「矢は僕から離れたくないんですね」
 その一言で、観客から「そんなわけねえだろ」と笑いが起きる。ルイムは照れくさそうに笑うと、地面に落ちた矢を拾い、客に見せつけるように紐を断ち切った。
「今は矢のせいで失敗しましたが、次に成功したときは拍手をお願いいたします」
 ルイムは再び少女から離れて対峙すると、紐のついていない矢を放ち、それは見事にリンゴを射抜いたのだ。
 わあっと歓声が沸いた。
「これにて今日の公演は終わりにいたします」
 サーカス団は観客に向かい恭しく頭を下げる。観客は惜しむことなく小さなサーカス団に拍手を浴びせた。
 観客は次々と中央の箱にお金を入れていく。二人もそれに倣い硬貨を投げ込んだ。
「ありがとうございます」
 爽やかな笑顔を浮かべたのは、弓矢の少年、団長のルイムである。
「今回の公演はいかがでしたか?」
「楽しく見させてもらったわ」レイセリーティアも笑顔で答える。「このサーカス団は毎日公演しているのかしら?」
「いえ、週に三回の公演になってます。お二方はこの町に来るのは初めてですか?」
「ええ、初めてよ」
「では、ようこそエルディムの町へ。どこからいらしたんですか?」
「東の方にあるダンゼの町なんだけど、知っているかしら?」
 ルイムは大きく頷く。
「ええ、知ってます。行ったことはありませんが、物流の盛んな大きな町なんですよね。そんな遠くのお客様に喜んでいただけたなら、僕たちも嬉しいです」
「機会があったらまた見に来るわ」
「ええ、是非ともまたいらしてください。お待ちしております」
 慇懃な少年の言葉を見送り、いまだ興奮冷め止まぬ観客を背に二人はその場を後にした。

「それにしても凄かったわね。あんな小さな子たちがやるなんて驚いちゃったわ」
 しばらく石畳を歩いていても、レイセリーティアの興奮も他の客と同様冷めない様子。
「うん。態度も度胸も子供とは思えなかったね」
「そうね。言葉遣いも統率力も大人顔負けのものだったわ」
 華麗で一つのミスも無い演技に、場を盛り上げ引き立てる音楽。すべて子供達が演出したとは思えない出来だった。
「アルフはお手玉できる?」
「二つならなんとか」
「それは誰だってできるわよ。せめて三つ以上できないと」
「うーん、何回か練習した事あるんだけど、どうも巧くいかなくてさ」
「アルフが練習してもできないなんて珍しいわね。域の魔法を使っても駄目なの?」
「目で追えるものを域の魔法で確認したってほとんど意味がないよ」
「……確かに、それもそうね」
 玉が魔力を帯びていて不規則な動きをするわけでもないし。
「あれだけできるようになるのに、どれだけ訓練すればいいのかしら」
「さぁ……見当もつかないよ」
 ほんの少しも乱れることがなかった彼らの演技。どれほどの時間を費やせばあの素晴らしい曲芸を会得することができるのだろうか。
「それにしても、弓矢の子が凄かったわね。リンゴを射抜いたのも当然凄いけれど、一度わざと失敗したじゃない? あんなの子供がやることじゃないわね」
 リンゴを射抜くか射抜かないかの二択の状態で、一回目で成功してしまっても観客は『成功して当たり前』だと思い、緊張していることもあって素直に歓声を上げられないし、下手をしたら、弓矢はマイナーな武器なのでどんなものなのかを知らない客もいるかもしれない。それを打開したのが一回目の失敗だ。初めにわざと間違いを犯して笑いを誘い、程よい緊張感に変化させる。さらに、弓矢を知らない者に対してどんなものなのかを実演できる。その結果二回目の成功で大歓声を浴びることができたのだ。あの少年は若きにしてすでに人々の心の動かし方を理解していた。
「レイティアはあれぐらいの歳のとき何してた?」
「そうね……あの子達には敵いそうもないけど、馬も乗りこなせてたし、経済学も少しだけかじってたわ。それに一応、小さい頃から火の魔法のランクSは使えてたわね」
「それだけできれば十分だと思うんだけど」
「そう思ってたから、ちょっとだけ悔しかったのよ。だってあの子たちは自らの力で習得したんでしょう? そんな強さは、小さい頃の私は持ってなかったから」
 自分が持っていたのは仮初の強さ。あの子たちが持っていた強さの次元は別の物だからこそ、少しだけ嫉妬してしまう。
「アルフは小さい頃どうだった?」
「俺は大した事ないよ。と言うより、聞いた話によると、すごくのほほんとしてて、小さい頃から魔具が大好きだったんだって。うちにいくつか変わった魔具があったんだけど、それを持ってるときは泣いたこともないしずっとニコニコしてたらしいよ」
「その姿、私、容易に想像できるわよ」
 レイセリーティアはくすりと笑う。
「そうなの? 俺は全然想像できなくて」
「だって今でも、アルフは珍しい魔具を持ってる時、とっても嬉しそうな顔するもの」
 一瞬アルフはきょとんとし、ややあって腕を組むと「まいったな」と呟いた。
「ふふ、伊達にアルフの店に通ってないわよ」
「それじゃあ、俺が病弱だったってのは想像できる?」
 今度はレイセリーティアがきょとんとする番。
「そうなの? 全然想像できないわ」
「親がね、俺が病弱だったから、体術を教えてくれる道場に入門させたんだって。物心付いてた時にはもう健康体だったから、俺もあんまり記憶にないんだけど」
 彼が体術を身につけた理由はそんなことからだったのか。
 アルフは徒手格闘が恐ろしく強い。彼が唯一使える域の魔法は補助みたいなもので、使わずとも相当の腕だ。レイセリーティアは以前、アルフの強さの秘密は域の魔法にあると思っていて、お互い魔法を使わずに戦ったら瞬殺された過去がある。
 それ以来、レイセリーティアは彼に何度か体術を教えてもらっている。簡単な護身術から始まり、最近は高度な組み手もできるようになってきて、適当なごろつき二人ぐらいなら魔法なしで同時に倒せる程度になってきた。
「小さい頃からアルフは強かったの?」
「それなりには強かったのかな」
 アルフの自己に対する『それなり』という評価は、一般的には『かなり』と取れる。
「でもね、一番難しかったのは魔法を使わずに試合を終えることだったかな」 「試合では魔法は禁止されていたの?」 「うん。自然魔法とか付与魔法を使わないのは簡単なんだけど、特殊魔法を使わずに試合するのは苦労したよ」  域や伝の特殊魔法は他の属性と違い、小さい頃から無意識のうちに発動させてしまう魔法だ。物心付いた頃には自分の生理的な行動の一部になってしまうことが多く、使わないようにすることが困難になっている。
 レイセリーティアは指輪を見た。伝の魔法が使える呪具の魂も、無意識のうちに声を聞いていた。
「習い始めの頃は反則負けが多くてね。それはもう死に物狂いで使わないように訓練したよ」
「そんな小さな頃から魔力のコントロールしてたの?」
「してたと言うか、せざるを得なかったというべきだけど」
 レイセリーティアも、最近は呪具をはめてしまったために魔力のコントロールには気を使っている。アルフ曰く魔力の漏洩は少なくなったそうだが、完璧ではない。
「小さい頃から努力してたなんて、それは巧くなるわよね」
 魔力を正確にコントロールできなくても日常生活に支障をきたすことはない。レイセリーティアもご多分に洩れず、指輪をはめるまでそんなこと気にもしていなかった。
 ただ今となってわかる、魔力をコントロールすることの大切さ。全身に気が漲っている気がするし、五感も鋭くなった。そしてなにより、魔力にキレがでてきた。
「レイティアもこのまま行けばすぐにマスターできるよ」
「そうならいいけど」
 彼は嘘をつかないし、そういうことを見抜く目は鋭いから、きっと大丈夫なのだろう。
「そう言えば、今どのあたりを歩いているのかしらね」
 レイセリーティアは立ち止まりあたりを見渡す。多くの観光客が歩いているから変な道に入ったわけではないと思うけれど、面白そうな道を選び進んでいたうちに方向感覚が完全に狂ってしまった。
 早い話迷子である。
「地図ぐらい欲しいよね」
 アルフもあたりを見渡す。たまに案内板があるが見つからないことも多く、やはり手元に地図が欲しい。
 それと、この観光地区の地図も当然ながら生活地区の地図も欲しかった。アイーゼ家は生活地区にあるし、情報収集は生活地区に住んでいる地元の人に聞いた方が良いに決まっている。
「地図は今のうちに買っておきましょうよ。買って損するものでもないし、店の人に今どこかも聞けるし」
 ということで、二人は初めに見つけた雑貨屋へと入る。内装はやはり小奇麗で、外の町並みと見事に調和している。
 数人のお客さんと、カウンターの内側には店長と思わしき人が座っていた。四十代だろうか、何となく人の良さそうな顔つきである。
「エルディムの地図売ってる?」
 アルフはカウンターに近づくと訊ねた。店長は顔をあげて、椅子から立ち上がる。
「地図ね、はいちょっと待ってて」
 店長は店の奥に入っていき、そして何種類かの地図を持ってきた。
「どれにする? 道を把握したい程度でいいならこの大雑把な地図、何の店がどこにあるのかを知りたいならこの地図、絵付きの可愛い地図もあるよ」
 大量の地図がカウンターを埋め尽くした。破かないように注意しながらそれらをかきわけて物色する。細かな道が描かれている地図もあれば、大通りしか記されていない地図もあり、店ごとの特徴まで記してあるごちゃごちゃした地図もある。多種多様だ。
 ふと、二人はあることに気付き首をかしげた。地図を一通り調べたのだが、なぜかすべての地図に生活地区が描かれていない。
「生活地区まで描かれてる地図はないの?」
 アルフが訊ねると、店長は少しだけ目を見開いた。
「あんたらは町の全体の地図が欲しいのか?」
 二人はうなずく。
「そりゃすまんな。この店には置いてないんだ」と、店長は申し訳なさそうに頭を下げた。
「なんとかならない?」
「うーん、しかしなんでまた、生活地区を含んだ地図が欲しいと思ったんだ?」
 本当のことを説明するのも長くなってしまうので、嘘が苦手なアルフに代わってレイセリーティアが答える。
「私たち旅をしていて、立ち寄った全部の町の地図を集めているんです。帰ってから旅話をするとき、この町のここに立ち寄ったんだとかを言えて便利なんですよ」
「なるほどね、風情のあるお土産って所か。しかしすまんな、うちにはないよ」
「どこに行けば手に入る?」とアルフ。
「そうだなぁ。やっぱり生活地区の地図は生活地区に入らないと売ってないと思うぞ」
「どうしてだい?」
「お客さんも解ってると思うけど、ここは観光地区。簡単に言えば、外からやってくるお客様のために作られた町さ。コストを度外視して作った場所で、旅行者はみんな観光地区に宿を取り、食事をし、買い物をして、そして帰って行くんだ。つまり生活地区の地図はここではまったく需要がないんだよ」
 確かに、普通の旅行者ならば生活地区の地図なんて必要がない。下手をしたら生活地区があることを知らない人間もいるのではなかろうか。
「それにな」店長は苦笑気味に「この観光地区は驚くほど綺麗だろ? 他の町と比べても類を見ないほどに清潔感や見栄えの良さを持っていると思うよ。本当はこんな話観光客にしちゃいけないんだけど、生活地区は他の町と同じか……いや、それ以下で、目も当てられないほど汚い場所もある。できれば観光客には見られたくないってのが現状で、観光地区と生活地区は壁で区切られてるほどなんだ。俺らが行き来するための通り道はあるけど、まぁ、つまるところ二つの町に分かれてて、町としては生活地区はないことにして欲しいんだ」
「観光客も生活地区に入れるのかい?」
「ああ、入れない事はないさ。たださっきも言ったけど、いくつかの通り道がある程度だから知らねえと無理かな」
「その通り道、教えてくれないかな?」
 うーんと唸りを上げて店長は悩み始める。
「ま、別に教えちゃいけないなんて規則はないからな。それに」と、店長はレイセリーティアの方を見て「あんた別嬪さんだからな。快く情報提供してやるよ」
 レイセリーティアは微笑んで「ありがとう」と言うと、店長は照れたように頬を掻いた。
「この地図一枚買います。それに書いてくれるかしら?」
 レイセリーティアは細い路地まで描かれている地図を一枚取り上げ、店長に渡す。店長はそれを受け取ると、筆でいくつかの場所にマークをつけていった。そこが観光地区と生活地区の接点になるのだろう。
「ところでお嬢さん、男っぽい服を着ているのはどうしてだい?」
「私たち、ディン山脈を越えてここまできたんです。それで動きやすい格好をしてるの」
「へえ、あのディン山脈を越えたのか。お嬢さん達は旅行者というよりは冒険者なんだな。なら地図が欲しいってのも何となく納得できる」
 初めは山脈越えなんて予定に入っていなかったから、冒険者と言われるのも違う気がするけれど。
「あの山には山賊が良く出るからな。なんだかセンスの悪い服を着た山賊団が幅を利かせているって聞くけど、お客さんたちは遭遇したか?」
「いえ、会わなかったです」
「そうか。そりゃ幸運だったな」
 レイセリーティアは咄嗟に否定の言葉を出してしまった。何となくあれらと知り合いである事が恥ずかしかったからだ。アルフもレイセリーティアの胸中を察したのか何も言わない。
 些細な会話をしているうちに店長は印をつけ終わった。アルフはその地図を受け取ると代金を支払う。
 店を出ようとしたとき、店長は思い出したように「ああ、そうだ。お二人さん」と耳打ちするように忠告した。
「生活地区に住んでる俺が言うのもなんだが、治安があまり良くないから気をつけろよ」
 二人は頷いて、ありがとうとと言うと店を出た。
 さっそくレイセリーティアは地図を広げて、隅々まで目を行き渡らせる。
「さあ、生活地区に行きましょうか」
「宿は取らなくていいのかい?」
「そんなの後よ。まずは生活地区の地図を手に入れないと気が済まないわ」
 行動的なのがレイセリーティアらしい。特に断る理由もなくアルフは同意した。
 二人は地図に書かれた印に向かって歩き出そうとしたその時、レイセリーティアは気が付いた。詳細すぎる地図を凝視しながら彼女は呟く。
「……現在地どこかしら」



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