17

 彼は驚くほど冷静に、目の前で繰り広げられている出来事の顛末を見つめていた。
 轟音と共に、すべての土の塊が瞬く間に消失した。破片すら残らず、蒸発した。
 彼が見たものは、たった一つの赤く燃える火球。その火球は、アルフの目の前に現れたかと思うと、土の塊を次々と飲み込んだのだ。
 アルフは馬蹄が地を震わす音を聞いた。それは目の前で止まり、声が降って来る。
「何こんな熊に負けてるのよ。アルフも周辺一帯もボロボロじゃない」
「いや、これが結構強くてさ。魔導銃が中途半端な属性しか残ってなかったのが痛かったかな」
「って、アルフ、足から血が出てるわよ」
「あ、そうか。止血するの忘れてた」
「どうしてそんな重要なこと忘れるのよ!」
「結構急展開だったからさ、思わずね」
 シディに跨っているレイセリーティアは呆れたような表情を見せる。レイセリーティアに促され、彼は自分の服の一部をちぎると、応急処置を施した。
「傷、深くはないの?」
「うん。ズキズキするけど歩けないほどではないかな」
「だったら安心ね。というか、私がここに来なかったらどうするつもりだったのよ。来たからいいものを、そうじゃなかったらアルフ死んでたわよ」
「崖から飛び降りる案はあったんだよ。崖に数箇所出っ張りがあったから、そこにうまく掴まる事が出来れば助かるからね」
 それにと、アルフは言った。
「レイティアがここに来るって、域の魔法で解ってたから。火球を放ったのは、君だよね?」
「私以外の誰があんな火球を出せると思うのよ。まったく、……間に合ってよかったわ」
「うん、ありがとう」
 相変わらずの彼の直球に、彼女は少し顔を赤らめながら、ほっと胸をなでおろした。それでも気を緩めずに、目の前にある巨大な存在を見つめている。
 ストライキングベアは手を出してこない。先ほどの魔法を使った所為ですぐには行動できないのか、はたまた、レイセリーティアの存在に威圧されているのか。
「レイティア、君、シンクロしているのかい?」
「ええ、そうみたい」
 彼が域の魔法で調べると、レイセリーティアの中に流れる魔力はいつもの何倍にも膨れ上がっていた。呪具の魔力と彼女の魔力が調和し一つとなって、体の中を流れている。
「シンクロしてみて、気分はどう?」
「思ったより爽快よ。魔力も漲ってるのが解るし」
 先ほどストライキングベアが放った土の魔法はランクS+++を遥かに超えていた。しかし彼女は、空気をも焦がすような灼熱の火球一発でそれらを粉砕してしまったのだ。
 それほどの魔力を消費したと言うのに、レイセリーティアは顔色一つ変えていない。
 シンクロしている事による魔力総量の肥大化。きっと、今の彼女なら、先ほどの火球ぐらい何百発も放つことができる。シンクロはそれほどの影響力を持つ。
「アルフ、この……熊? なんていう熊なの?」
「ストライキングベア。現在確――」
「現在確認されている熊の中で最も巨大で強い熊……ね。トーヤさんが持ってた本に書いてなかったかしら? ああ、そうよね、あの本私も見せてもらったことあるもの」
 アルフは怪訝そうな表情になる。彼女はふと気がついて、慌てて弁解した。
「あっ! アルフごめんなさい。まだ伝の能力を把握できてなくて、聞こえた声をつい口にしちゃうのよ」
「なるほど。すごいね。伝の魔法ってそこまで精密に解るんだ。これは迂闊に嘘をつけないよね」
「そうよ。私がシンクロしたときは気をつけないと大変なことになるわよ」
(なんて、アルフは嘘を言わないし、それを疑ったこともないから、関係ないわよね)
「ね、アルフ」
「え、何が?」
「ううん、なんでもない」
 彼はまたもや怪訝そうな表情。もう一度「本当になんでもないわ」と告げてから、一つ深呼吸して、ストライキングベアを睨みつけた。
 今聞こえる声が、アルフのものだけだったら、もっと心は楽なのだろうか。
 レイセリーティアは、何かあったらすぐに火球を放てるんだぞと言わんばかりの様相で、ストライキングベアを威圧する。森全体が、彼女の魔力にゆれているのだ。圧倒的な力に、ここで初めてベアがたじろいだ。
 しかし、その威圧に負けんと、ベアはまた巨大な土の塊を放ってくる。レイセリーティアは冷静に、小振りな、しかし圧縮された火球を放つと、二つは激突し消滅した。
 実力も何もかも、レイセリーティアの方が上だった。質も威力も魔力も体調も、何においても彼女が上。ベアが怪我も負っておらず魔力が全快だったとしても、彼女には勝てないだろう。そのような気迫が彼女から滲み出ているのだ。
 しかしレイセリーティアは、ここからの離脱を告げた。
「アルフ、一緒に来て」
「解った」
 アルフは指笛を鳴らす。するとすぐにドーゼルが駆け寄ってきた。ご主人を心配して、近くで待機していたのだろう。ドーゼルは心配そうにアルフの足の傷口を見つめている。
 アルフはドーゼルを撫ぜてから騎乗し、レイセリーティアと共にその場を離脱した。
 その後ろをぴったりとストライキングベアが追いかけてくる。これでジャスナは大丈夫だろう。域の魔法で調べたが、死に至るほどの怪我は負っていないかったので、自力でなんとかできるはずだ。
 ストライキングベアの攻撃が始まった。筍のように生えてくる土が次々と現れ、二人はそれをかわして行く。
 レイセリーティアは、小さく手を横に振った。その瞬間、ベアから発せられた地を這う魔力が暴発する。それはストライキングベア自体の進路を阻む事になってしまった。
 彼女が使える属性の一つ、土の属性。アルフが魔導銃で行ったように、ベアの魔力にレイセリーティアの魔力を混ぜた事で暴発させたのだ。
 彼女は表情を変化させず、高度な技を繰り返してゆく。一つ間違えれば相手の魔法を増幅させてしまうのに、彼女の魔法の使い方は精密そのものだった。
 彼女は今、とてつもなく強い。
 シンクロしている事もあるのだが、もっと根本的なもの、魔法のキレ、考え方、魔力の扱いなど、すべてが研ぎ澄まされている。
「ストライキングベアって、土の魔法も使うのね」
「そうだね。どんな動物も魔法を使えるというけど、ここまで顕著に魔法が確認できるのは珍しいかも」
「それでね、私、とっても納得いかないの」
 彼女は少し不機嫌な様子だ。
「どうしてだい?」
「だって、あの熊はアルフに一撃を与える事ができたわけでしょ。しかもアルフを追い詰めてたし――確かにベアの使う魔法は強くて巧みだけど、どう考えても私の方が強いのに、納得いかないわ」
「そんな事言っても、相手を倒しに行く本気と、殺しに行く本気とでは全然強さが違うわけで、比べたらいけないと思うんだけど」
「少なくともあの時、私はアルフを全治三ヶ月にさせる勢いでやってたわ」
「そうなのか。それは危なかった」
「なにが危ないよ。全部避けちゃったくせに」
「服は焦げたよ」
「それじゃあ意味がないのよ」
 地の槍の攻撃をやめたストライキングベア。質より量を選んだのか、今度は石のつぶてを次々と飛ばしてきた。
 しかし彼女が展開した盾の魔法の前に、その魔法はすべて防がれてゆく。
 盾の魔法は、魔力の篭った攻撃を遮断する魔法だ。今みたいに土の魔法も防げるし、魔導銃の攻撃だって盾の耐久力がもてば防げるのだ。ただし、殴る蹴るなどの物理攻撃には意味がなく、それは回避するしかない。
 ベアが放つ高威力の土の塊は火球で砕かれ、地の槍は出現前に潰され、威力の弱い石の散弾は盾によって防がれる。残された手段は、爪による直接攻撃のみ。
 三者ともそれは承知。だからこそ、ベアは距離を縮めようと奮闘し、彼女らは追いつかれないよう必死で前へ進んでゆく。
「アルフ、ちょっと聞いてくれる?」
 シディを走らせながら、レイセリーティアが告げた。今までの口調とは打って変わって、まるで罪を告白するかのように。
「あのね、さっきも言ったけど、私、今この呪具の魂――名前、シュカって言うんだけど、彼女とシンクロしているの。説明しにくいけど、シンクロって不思議な感じなのよ。初めは薄ら気持ち悪かったけど、今はこれが普通に思えてきたわ。体中が暖かいし、力が満ちている感じもする。それで、アルフの言ってたとおり、シュカは伝の魔法を使えるのよ。私も伝の魔法を使えるようになったの」
 彼女は、体を強張らせた。カタカタと、歯を振るわせ出した。
「伝の魔法って相手の考えている事が声として聞こえてくるの。口からは出ることの無い本音が、直接届くの。アルフの声をさっき聞いたように、たくさんの声が届いてくるのよ。私の意思と関係なく心に突き刺さるのよ。大きくて絶望的な声が、後ろにいるストライキングベアから、哭き声が、タスケテ、タスケテって……」
 湖のほとりで聞いた哭き声。ここに来るまでに聞いた慟哭。そして、近くまでやってきて体が砕かれるような叫び声が間近で聞こえている。
 何が原因で、こんなにも嘆き悲しみ激昂しているのか解らないけれど。
「助けてあげたいのよ」
 彼女は震えていた。涙を流しているように見えた。
「私はずっと、呪具から逃げてたの。怖かったから。得体も知れないものに触れるのがとっても怖かったから。私は、ずっと、拒絶していたの。知ろうとしているのは上辺だけで、心の中ではずっと拒否していた。本当は知りたくなかったのよ。こんなに悲しい声があるなんて私は知らずに生きてきたから。でも、私はもう逃げないって決めたの。拒絶しないって決めたの。指輪の魂も、悲しい声の主も、助け抜くって決めたの」
 彼女の言葉に、ためらいなどなかった。
「アルフ、手伝ってくれる?」
 断る理由などあるはずはなく。
「手伝うよ」
 アルフは域の魔法を展開した。広範囲に、精密に、域の魔法を張り巡らせて行く。
 彼女がベアを助けたいというのなら、自分はそれに従うだけだ。
 アルフは目を瞑った。それでも前は見えている。彼の域の魔法は視覚よりも遥かに優れた情報を彼の頭に送り込む。
 木々のざわつき、草木の息吹、ベアの全身の動き、ジャスナの姿、空を飛ぶ鳥、木の実を拾う小動物、地下を流れる水脈、空気の振動、葉が一枚地面に落ちる瞬間、ドーゼルやシディのしなやかな走り、そして、レイセリーティアの涙――すべてがアルフの頭の中に、鮮明に浮かんでくる。
 その情報の中に少し不自然な或る物を見つけた。その部分だけをクローズアップして詳細を割り出した。
「レイティア、こっちだ」
 アルフは右に曲がる。レイセリーティアもそれに従い右に曲がる。
「何を見つけ――」
 レイセリーティアは訊ねようとして、言葉を止めた。
 アルフから声が流れてきたから。何を見つけたのかほとんど解ってしまったから。
 二人は無言のまま森を駆け抜ける。その場所に近づくにつれ、ストライキングベアの声は大きくなっていく。
 やがて、そこにたどり着いた。
 目の前に広がるのは、自分の目を疑いたくなるような光景。
 腐敗臭を漂わせ、蝿を纏い、ソレはそこに在った。
 黒い毛皮と、鋭い爪を持った、ストライキングベアの子供の死体。
 単に殺されたわけではない。腕は引きちぎれ、足は不気味な方向に曲がり、内臓はめくりあがり、頭蓋はすでに頭の形をしておらず、ベアが死んだ後も周りの木々に叩きつけられすべてに血の色を残し、ようやく解放されたベアは原形すら留めていなかった。漆黒の毛皮と鋭利な爪が見えなければ、ただの肉塊としか理解できなっただろう。
 あたりに飛び散った血は、幾日も経過しているのか赤土色に変色していた。いまだ太陽は高く登っているのに、この場所だけ夕日に照らされたかのように紅色で統一されている。
 誰か人間に殺されたのは明らかで、しかもその殺し方は信じられないほど残酷。
 死体のいたるところに深い傷があった。切り傷や魔法による傷、殴る蹴るの傷、皮膚が抉れていない場所を見つけるほうが難しい。
「――酷いね」
「――ええ」
 レイセリーティアとアルフは馬から降りて、その凄惨な景色を見つめていた。
 ストライキングベアがやってくる。ベアは涙を流しながらこちらへ向かってくる。
 この子供はあの熊の子供で、ストライキングベアはこんな殺し方をした人間を許せなくて、感情を抑えようにも恨みが先に出てしまいアルフたちを襲ったのだろうか。
 声が聞こえてきた。
 恨みと、嘆きと、悲しみと、怒りと、これ以上誰も傷つけたくないという叫び声と。
 我を忘れたストライキングベアは、自分の声をすべて受け入れていたから、タスケテと、誰にも伝わる事のない叫び声を上げていたのか。
 その声は、レイセリーティアに届いた。指輪を介して、彼女に届いた。
 声が、すべてを彼女に伝えていた。
「……ごめんなさい」
 折角祈りが届いたのに、自分は助けてあげる事ができない。死んだものを生き返らせるなんて、神様ですらできやしないのだから。
 せめて、苦しみを止めてあげるのが救いなのだろうか。
 レイセリーティアは、こちらへ向かってくるストライキングベアの前に立ちはだかる。
 ストライキングベアは無駄と解りながらも、今までより最も巨大な土の塊を生成し彼女へと射出した。
 レイセリーティアはベアの魔法に、土の魔法で応えた。昇化仕切った体から抽出される莫大な魔力は、ベアが放った土の塊より遥かに巨大な塊を生み出し前方へと打ち出された。
 二つの魔法は衝突し、あっという間にベアが放った塊は砕け散り、レイセリーティアの放った塊は勢いを失わずストライキングベアの正面を捉えた。
 ベアはうめき声を上げた。一度ジャスナに破壊された内臓へ、今の一撃を受けてその場に倒れこむ。
 それでも、ベアは立ち上がろうとしていた。
 体力も精神力魔力もすべて使い果たしているのに、愛する我が子を奪われた苦しみがベアを奮起させる。いくら無駄なものであると解っていても、立ち上がらなければいけないのだと言い聞かせて。
 レイセリーティアはストライキングベアに近づいていった。ストライキングベアは立ち上がろうともがいていた。
 彼女はベアの前に立つ。ベアは未だに殺気を纏い、彼女へ爪を振るおうとしている。けれど体が動かない、命令を聞かない。それでも力を振り絞り彼女へ攻撃を加えようとした時、レイセリーティアはストライキングベアの頭に、手を添えた。
 それだけ。
 彼女は何も喋らない。
 慈愛に満ちた表情で、無言で語りかけ。
 もう、解放されなさい、と。
 ストライキングベアは目を見開き、やがて、力尽きたように、四肢を地に伏せた。
 アルフは急いでレイセリーティアに近づく。アルフが彼女の元にたどり着くと、彼女もベアと同じように気を失い倒れこんだ。
 アルフはレイセリーティアを支えて、慈しむように呟いた。
「お疲れ様、レイセリーティア」



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